第三話 親友のアドバイスは、たいてい物騒だ
三日目の朝になっても、詩織の料理はうまかった。
これは当然といえば当然なのだが、なんとなく確認したかった。初日だけ気合を入れた、ということではなく、毎朝ちゃんとこうなのだ、という事実を。俺は今朝の卵焼きを食べながら、そのことを思った。甘さの加減が、一日目と同じだった。
詩織は向かいに座って、静かに箸を動かしていた。
食卓の沈黙にも、三日でずいぶん慣れた。慣れた、というのは、息が止まらなくなってきた、ということだ。心臓がうるさいのは変わらないが、少なくとも食事中に呼吸を忘れることはなくなってきた。進歩だと思う。地味だが、確実な進歩だ。
「今日も一緒に行きますか」
詩織が言った。
「お願いします」
俺が答えた。
それだけで、今朝の会話は終わった。
昼休みのことだった。
俺がいつもの場所、教室の窓際で弁当を食っていると、扉の方から声がかかった。
「ねーね、佐伯くんってゆーくん?」
振り返ると、見知らぬ女子が扉に寄りかかって、俺を見ていた。
見知らぬ、というのは正確ではない。顔は知っていた。クラスは違うが、廊下ですれ違えば目に入るくらいには目立つ人物だ。明るい茶色の髪を緩くまとめて、制服の着こなしがどこかゆるい。唇の端に、何かを面白がっているような笑みを浮かべていた。
藤田ひより。詩織の親友だ。
「そうですけど」
「やっぱり。いい?ちょっと話しかけてもいい?」
弁当箱の蓋を閉めながら、俺は頷いた。ひよりは「やった」と言って教室に入ってきて、俺の斜め前の席に勝手に腰掛けた。人の教室でずいぶんくつろぐな、と思ったが口には出さなかった。
「詩織と同居してるって本当?」
単刀直入だった。
「……はい」
「親同士が再婚したって聞いたけど」
「そうです」
「へえ」
ひよりは頬杖をついて、俺をじっと見た。観察するような目だった。値踏みするような目でも、警戒するような目でもない。ただ純粋に、興味深いものを眺めているような目だ。
「詩織のこと、どう思う?」
俺は一瞬、息が止まった。
止まったのが顔に出ていなかったか、かなり不安だった。出ていなかったと思いたい。俺は弁当箱を机の上に置いて、ひよりの視線を正面から受け止めた。
「義理の姉だと思っています」
「そっか」
ひよりは特に動じた様子もなく、うんうんと頷いた。その頷きがなんとなく「ふうん、そういうことにしておくか」という感じで、俺は居心地が悪かった。
「詩織は?なんか言ってた?」
「特には。普通に同居してます」
「ふうん」
もう一度、「ふうん」と言った。今度はさっきより少し低いトーンで。口元の笑みが、わずかに深くなった気がした。
「詩織ってさ」
ひよりがつぶやくように言った。
「見た目はああいう感じじゃん。クラスの中心で、なんでもできて、っていう。でも実はめちゃくちゃ初心なんだよね」
俺は黙っていた。
「そういう子が毎日同じ家にいる男の子と暮らしてたら、どうなるんだろうって思って」
独り言みたいな言い方だった。俺に答えを求めているのかどうかも、よくわからない口ぶり。
「まあ、よろしくね、ゆーくん」
ひよりはそう言って立ち上がった。
「詩織のこと、よろしく。傷つけたら許さないよ」
最後だけ、声のトーンが少し変わった。笑みは消えていなかったが、目が笑っていなかった。
俺は「わかりました」と答えた。
ひよりは「よし」と言って、それだけで教室から出て行った。
俺は弁当箱の蓋を開けて、箸を取った。
飯の味が、少しだけわからなくなっていた。
同じ昼休み、校舎の端の、日当たりのいい踊り場で。
ひよりは詩織の隣に立って、中庭を見下ろしながら言った。
「詩織、ゆーくんと同居してるって聞いたけど」
「うん」
「仲良くやれてる?」
「……普通に。ぎこちないところはあるけど」
詩織が答えた。その声は穏やかで、表情も平静だったが、ひよりはその「ぎこちない」という言葉の選び方が面白かった。
「そっかそっか。詩織ってほら、あんまりそういう経験ないじゃん。男の子と暮らすの」
「……そうだね」
「でもさ、やっぱり姉弟なんだから、もうちょっとこう、自然に接した方がいいと思うんだよね」
ひよりは何でもない顔で言った。
「例えばさ」
「例えば?」
「一緒に登下校するときって、手繋ぐじゃん」
詩織が、ひよりの方を見た。
「……繋ぐの?」
「繋ぐよ。姉弟なんだから。当たり前じゃん。みんなそうだよ」
ひよりは澄ました顔で言った。嘘をついているときの顔ではなかった。少なくとも、表面上は。
詩織はしばらく考えていた。
「……そういうものなの?」
「そういうものだよ。年が近い姉弟なんかは特に。仲のいい証拠みたいな感じで」
「ふうん」
詩織は中庭に視線を戻した。その横顔を、ひよりはそっと盗み見た。
詩織の耳が、少しだけ赤かった。
ひよりは口を真一文字に結んで、笑いをこらえた。
その日の帰り道のことだった。
昇降口で待ち合わせて、二人で並んで歩き始めて、五分くらい経ったあたりで。
詩織がわずかに歩調を緩めた。
俺は気づいて、ペースを合わせた。
そうしたら、詩織の手が、俺の手の隣に来た。
来た、と思う間もなく、指が絡んだ。
俺の脳内で、何かが爆発した。
静かに、しかし確実に、爆発した。
詩織の手は小さくて、温かかった。指の細さが、てのひらの柔らかさが、直接伝わってきた。歩くたびに微妙に力加減が変わって、その変化のひとつひとつが俺の心拍数を次の段階へ押し上げていった。
前を向いたまま、詩織は何も言わなかった。
俺も、何も言えなかった。
言えるわけがなかった。喉が閉じていた。舌が動かなかった。まともに息ができているかどうかも怪しかった。
前を向いたまま、俺は必死に自分の顔を管理した。「落ち着け」と思った。「平静にしろ」と思った。「これは義理の姉弟としての、ごく普通の行動なのかもしれない」と思った。
全部、無駄だった。
耳が燃えるように熱かった。首の後ろが汗ばんでいた。
でも絶対に、絶対に顔には出さなかった。
出してたまるか、と思った。意地だった。意地だけで、俺は前を向いて歩き続けた。
詩織は俺の隣で、いつもと変わらないペースで歩いていた。表情は見えない。でも、呼吸が少しだけ浅い気がした。気のせいかもしれない。
家まで、残り二十分あった。
二十分。
俺は心の中で、ため息をついた。
家に帰って、それぞれ荷物を置いて、台所でお互いに飲み物を用意した。
その間、手繋ぎの話は出なかった。
詩織は「宿題があるので」と言って自分の部屋に引き上げた。俺も「じゃあ自分も」と言って自分の部屋に入って、扉を閉めた。
扉に背中を預けた。
天井を見た。
息を、長く、ゆっくり吐いた。
さっきまで繋いでいた右手を、ゆっくり見た。もう感触は残っていない。残っているわけがない。でも、なんとなく、手のひらが普段より少しだけ温かい気がした。気のせいだ。絶対に気のせいだ。
「義理の姉弟だから手を繋ぐのが普通」という世界線があるのだとしたら、俺は今日まで十七年間、その世界の常識を一切知らずに生きてきたことになる。
本当にそういうものなのか。
わからなかった。でも聞けなかった。聞いたら聞いたで、どんな顔をして聞けばいいかわからない。「それって本当に姉弟の普通ですか」なんて聞いたら、なんか変なやつだと思われる。
俺は机の前に座って、教科書を開いた。
開いたまま、三分くらい一行も読まなかった。
一方その頃、壁を一枚隔てた詩織の部屋では。
詩織が、床に座り込んでいた。
壁に背を預けて、膝を抱えて、両手で顔を覆っていた。
顔が、熱かった。
耳の先まで、じんじんした。
手を繋ぐだけだ、と思っていた。ひよりが「当たり前」と言ったから、普通のことだと思っていた。だから何でもない顔でやったし、帰り道の間も普通に歩けた。歩けた、はずだった。
でも、指が絡んだ瞬間に、心臓が変な音を立てた。
変な音、というのは、今まで聞いたことのない種類の音だった。驚いたときとも、怖いときとも、緊張したときとも違う。もっと、こう、根っこのところから来るような音。
私、何やってるんだろう。
詩織は膝に顔を埋めた。
暗くなった視界の中で、隣を歩く悠馬の横顔を思い出した。前を向いたまま、表情一つ変えないで歩いていた。何も感じていないのかと思った。思ったら、何故か少しだけ悔しかった。
悔しい。
なんで悔しいんだろう。
詩織はその感情を、しばらく検分した。検分して、名前をつけようとして、うまくいかなかった。
ひよりに明日、確認しよう、と思った。
でも、この顔では電話できない。絶対に笑われる。
詩織はまた膝に顔を埋めて、少しの間、誰にも見せない顔で、座っていた。
夜、俺は布団に入って、スマートフォンを見ていた。
「姉弟 手を繋ぐ」で検索した。
検索結果は、よくわからなかった。「しない」という意見も「する」という意見もあって、つまり結論は出ない。地域差とか、家庭の方針とか、年齢差とか、そういう諸々で変わるらしかった。
俺はスマートフォンをそっと顔の上に置いて、暗闇を見た。
まあ、詩織がそういうものだと思っているなら、そういうものなのかもしれない。俺が変に動揺する方がおかしい。
おかしいのは俺だ。
そう結論づけて、目を閉じた。
壁の向こうはしずかだった。
詩織が今、何をしているか、今日は考えなかった。
考えても、しかたがない、と思ったから。
ではなく、本当は、考えたら眠れなくなりそうだったから。
俺はそのまま目を閉じて、右手をそっと、布団の中に引き込んだ。




