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好きな人が義理の姉になった日から、距離感がバグり続けて毎日心臓が持ちません。  作者: あ


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第二話 同じ屋根の下の、途方もない距離

 一ノ瀬詩織の料理は、うまかった。

 うまい、というのが正直な感想で、それ以上の言葉が見つからなかった。煮物は味が染みていて、味噌汁は出汁がちゃんと効いていて、サラダのドレッシングは市販のものじゃなく手作りらしかった。十七歳の女子高生が作った晩ごはんだとは思えない完成度で、俺はひとくち食べるたびに「うまい」か「……うまい」しか言えなかった。語彙が死んでいた。

「口に合いましたか」

 詩織が、箸を持ったまま、こちらをちらりと見た。

「合いました。めちゃくちゃ合いました」

 返しながら、また煮物を口に運ぶ。

 詩織は何も言わなかった。ただ小さく、本当に小さく、口の端が上がった。気のせいかもしれないと思ったけれど、気のせいではなかった。たぶん。

 食卓には会話がほとんどなかった。でも、沈黙が重くなかった。これが不思議だった。知り合いとはいえ、クラスでまともに話したことなんてなかった相手と、同じ食卓を囲んでいる。普通に考えれば、気まずくて当然だ。なのに、箸が動くたびに聞こえる音と、味噌汁の湯気と、窓の外の夜の気配だけがあって、それが妙に落ち着いた。

 落ち着いた、というのは語弊があるかもしれない。

 正確には、心臓はずっとうるさかった。

 向かいに詩織が座っているというだけで、視線の置き場に困った。かといって目を逸らしっぱなしにするのも不自然で、かといってまっすぐ見るのも無理で、俺はずっと食器とテーブルの中間あたりに焦点を合わせながら飯を食っていた。

 我ながら、情けない。

「おかわりはいかがですか」

 味噌汁のお椀が空になったタイミングで、詩織が言った。

「あ、いただきます」

「はい」

 立ち上がって鍋から注いでくれて、またテーブルに戻って来る。その一連の動作が、なんというか、流れるように自然で、それがかえって胸に刺さった。

 この人は、俺の義理の姉になった。

 その事実が、今更みたいにじわじわと実感になって降りてきた。

 これが毎日続くんだ。この食卓が、この沈黙と、この心臓のうるささが、日常になるんだ。

 俺は味噌汁をひとくち飲んで、それ以上考えるのをやめた。考えても仕方がない。とりあえず今は、うまい飯を食い終えることに集中しよう。


 食後の片づけで揉めた。

 揉めた、というほどでもないけれど。

 俺が皿を重ねて台所へ持っていこうとすると、詩織が「私がやります」と言った。俺が「いや、俺もやります」と言うと、「いいですよ」と言う。「俺がやりたいんです」と言ったら、「でも」と言う。

 三往復くらいそれが続いて、最終的に詩織が折れた。というか、折れた、というよりも、考え込んで、それから「では、洗うのは私がやるので、拭いて棚に戻すのをお願いできますか」と言ってきた。それはいい落としどころだと思った。俺は「わかりました」と言って、布巾を手に取った。

 並んで、作業した。

 詩織が洗って、俺が受け取って拭く。台所は二人並ぶとちょっと狭くて、動くたびに肩が触れそうになった。触れそうになるたびに俺は息を止めた。それを繰り返しているうちに、皿が全部片づいた。

 我ながら、肺活量を無駄に使った。

「ありがとうございました」

 詩織がふきんで手を拭きながら言った。

「こっちこそ。ごちそうさまでした」

「いえ」

 また短い会話で終わった。でもそれでよかった。ちゃんと言葉が続く、ということ自体、俺にとっては奇跡みたいなものだったから。


 二十二時過ぎに、それぞれの部屋に引き上げた。

 俺の部屋になった六畳間は、まだ段ボールが二つ残っていた。中身は明日でいいや、と思って端に寄せて、布団を敷いた。カバンから教科書を出してテスト勉強でもしようかと思ったけれど、頭が動かなかった。今日一日で処理した情報量が多すぎて、脳みそが残業拒否をしていた。

 結局、布団に横になった。

 天井を見た。

 見知らぬ天井だった。白くて、何の模様もなくて、ただ白かった。前の部屋の天井には、いつの間にかできていたシミが一個あって、眠れない夜はよくそれを数えた。ここにはそのシミがない。当たり前だけど、それが妙にさみしかった。

 壁の向こうが、詩織の部屋だった。

 今、何をしているんだろう。

 考えてから、考えるのをやめた。そういうことを考えてはいけない、という理性だけは辛うじて生きていた。

 目を閉じて、深呼吸した。

 今日起きたことを順番に思い返した。授業中に声を上げて廊下に立たされたこと。マップアプリを見ながら見知らぬ道を歩いたこと。玄関を開けたら詩織がいたこと。一緒に荷解きして、一緒に飯を食って、一緒に皿を洗ったこと。

 全部、今日一日の出来事だ。

 信じられなかった。

 でも現実だった。

 俺はしばらくそのことを考えて、気がついたら眠っていた。


 翌朝、目が覚めたのはアラームより先だった。

 六時十分。いつもより二十分早い。二度寝しようと目を閉じてみたが、頭が覚醒を選んでしまっていた。仕方なく起き上がって、着替えながら昨日のことを思い返した。夢じゃなかった。当然だが。

 部屋を出ると、台所から音がした。

 包丁が板に当たる音と、何かを炒める音と、換気扇の回る音。それらが混ざり合って、廊下まで届いてきた。

 詩織が、朝ごはんを作っていた。

 台所の入り口から覗くと、エプロンをつけた詩織の背中が見えた。白いシャツに紺のエプロン。学校で見る制服姿とも、昨日の荷解きのときの服装とも違う。なんというか、ひどく生活感のある格好で、それがまたおかしな方向に心臓を押した。

「おはようございます」

 俺が声をかけると、詩織が振り向いた。

「おはようございます。もう少しで朝ごはんができますので、座って待っていてください」

「手伝います」

「座っていてください」

「……座ります」

 昨晩と同じやり取りをして、俺は椅子に座った。

 テーブルには既に味噌汁が置かれていた。まだ湯気が立っている。俺はそれを眺めながら、どこかひどく非現実的な気分でいた。朝ごはんが用意されている。誰かが作っている。それだけのことで、なぜこんなに落ち着かないのか。

 理由はわかっていた。わかっていたけれど、直視したくなかった。


 朝ごはんも、うまかった。

 卵焼きが甘くて、鮭が丁寧に焼かれていて、ご飯の炊き加減が完璧だった。俺は昨夜と同じように「うまい」と言い、詩織は昨夜と同じように小さく口端を上げた。

 食べ終わって、また皿洗いの分担をして、それぞれ制服に着替えた。

 玄関で靴を履いていると、詩織が出てきた。制服姿の詩織は、やっぱりきれいだった。朝の光の中で見ると、より一層そう見えた。俺は視線を靴に落として、靴紐をもう一度結び直した。特に緩んでいなかったが、そうしないと落ち着かなかった。

「あの」

 詩織の声がした。

「はい」

「学校、一緒に行きますか」

 俺は靴から顔を上げた。

 詩織がこちらを見ていた。表情は落ち着いていた。問いかけの声も、特に感情の色はなかった。ただ、耳が、何故かわずかに赤かった。

「……いいんですか」

「同じ方向ですし」

 それだけ言って、詩織は扉に手をかけた。

 俺は「じゃあ、お願いします」と言って、立ち上がった。


 学校までの道を、二人で並んで歩いた。

 会話は少なかった。でも沈黙が苦ではなかった。これは昨夜と同じだと思った。この人との沈黙は、重くならない。理由はわからないが、そういうものらしかった。

 学校が近づくにつれて、通学路に見知った顔が増えてきた。クラスメイトの顔、他クラスの顔、先輩らしい顔。俺はすれ違うたびに軽く会釈して、詩織は優雅に会釈して、それだけだった。

 ただ、校門を入るあたりから、なんとなく視線を感じるようになった。

 露骨に見てくる奴はいない。でも、横目でちらちらと確認するような視線が、あちこちから飛んでくる気がした。苗字が一緒で、同じ家から出てきたのを誰かに見られていたのかもしれない。それとも、俺と詩織が並んで歩いているというだけで、それが珍しい光景として映っているのかもしれない。どちらにせよ、居心地はよくなかった。

 でも詩織は、そういった視線に一切動じなかった。

 まっすぐ前を向いて、いつもと変わらないペースで歩いていた。その横顔に不安も動揺もなくて、俺は「この人は強いな」と思った。思いながら、少しだけ安心した。

 昇降口で靴を履き替えて、廊下で別れた。

「また帰りに」

 詩織がそう言って、俺が頷いた。それだけで、二人は別々の方向へ歩いていった。


 教室に入ると、藤田ひよりと目が合った。

 詩織の親友だ、という程度のことは知っていた。クラスが違うので直接話したことはないが、詩織の周りにいつもいる人物として顔は覚えていた。明るそうで、よく笑う人だという印象。

 でも今の藤田ひよりは、笑っていなかった。

 代わりに、なにか見てはいけないものを見てしまったような顔で、俺を凝視していた。

 俺は会釈した。

 ひよりは、三秒くらい俺を見てから、ゆっくりと視線を外した。その口元が、何かをこらえるように微妙に動いた気がした。

 気のせいかもしれない。

 俺は自分の席について、教科書を出した。

 気のせいだ、と思うことにした。


 午前中の授業は、いつもと同じように過ぎた。

 先生の声を聞いて、ノートを取って、眠くなったら奥歯を噛む。その繰り返し。でも頭の中では、昨日と今日のことが何度もリフレインした。玄関で見た詩織の顔。並んで皿を洗ったときの沈黙。今朝の卵焼きの甘さ。校門を入るときの横顔。

 これが毎日になるんだ、と思った。

 学校では他人で、家では同居人。

 同じ屋根の下にいて、でも教室では別々で、廊下ですれ違っても普通に頭を下げるだけで。

 それがこれからの日常で。

 ——それって、どういうことなんだろう。

 チャイムが鳴った。授業の終わりを告げる音だった。

 俺はシャーペンを置いて、開いたままのノートを見た。

 ノートには、板書が几帳面に写されていた。俺がいつの間にか手を動かしていたらしい。頭の半分が別のことを考えていたわりには、字が綺麗だった。

 人間、意外とながら作業ができるものだと思った。

 廊下側の窓から、校庭の木が見えた。初夏の風に、緑の葉がゆれていた。

 俺はしばらくそれを見ていた。

 見ながら、ため息をついた。

 ため息の理由は、自分でもよくわからなかった。

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