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好きな人が義理の姉になった日から、距離感がバグり続けて毎日心臓が持ちません。  作者: あ


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第一話 好きな人が義理の姉になった日

 意識が浮上してくる、その瞬間というのは、だいたいいつも同じだ。

 まず音が届く。それから光が届く。最後に、自分がどこにいるのかを理解する。

 でも、その朝だけは違った。

 最初に届いたのは、声だった。

「……おきて」

 低く、柔らかく、息が溶けるような声。耳の軟骨に触れるか触れないかの距離から、その音は滑り込んできた。眠気の膜を、するりと通り抜けて。

「悠馬」

 名前を呼ばれた。

 それだけのことで、俺の心臓は一拍、重く跳ね上がった。

 目を開けようとして、できなかった。いや、正確には開けたくなかった、のかもしれない。布団の中は温かくて、その温かさがどこか違う種類のものを孕んでいて、瞼を上げてしまったら何かが壊れるような気がして。

 でも、声はやまなかった。

「……ねえ。おきて、ってば」

 またその声が来た。今度はさっきより、もう少し近い。ほんの少し、語尾に拗ねたような色が混じっていて、それがまた俺の鼓動をおかしな方向に押した。

 布団の中が、揺れた。

 人が、いる。

 その事実を頭が処理しきるよりも先に、体が認識した。温度がある。重さがある。自分のものではない体温が、布団を隔てて、すぐそこに存在している。

「……悠、ま」

 一音ずつ、切るように。耳のすぐ横で。

 そこでようやく俺は目を開けた。

 視界に広がったのは、白い天井ではなく、布団の裏側の暗闇だった。暗闇の中に、顔があった。薄明かりの中でも、その輪郭は見紛いようがない。こんな至近距離で見ても、あるいはこんな至近距離でだからこそ、その顔は途方もなくきれいだった。

 一ノ瀬詩織が、俺の布団の中にいた。

 くちびるの端がわずかに動いて、小さく息を吸う音がして、

「おはよう」

 と、言った。

 俺は次の瞬間、心臓が口から飛び出るかと思った。

 飛び出なかったのは、たぶん意地だけだ。


 遡ること、一か月ほど前の話をする。


 五時間目の現代文の授業中だった。

 窓から差し込む午後の光が黒板の端を白く焼いていて、先生の声が心地よい低さで室内を満たしていて、隣の席の奴が小さくあくびをしていて、俺はノートにペンを走らせながら、そのあくびが自分に伝染しないよう奥歯を噛んでいた。

 そこへ、スマートフォンが震えた。

 授業中はマナーモードにしてある。バイブの振動は短く、一回きり。通知が一件来た、それだけのことだ。普段なら無視する。授業が終わってから確認すればいい。そう思っていた。

 けれど何故か、その日の俺は画面をちらりと見てしまった。

 差出人の名前を見た瞬間、手が止まった。

 父さん、とあった。

 父親からメッセージが来ること自体は珍しくない。でも、その着信の雰囲気というか、通知越しにでも滲み出てくる何かが、妙に引っかかった。無視できなかった。理由はうまく言えない。ただ、何かが違う気がした。

 机の下でこっそり画面を開いた。

 一行目を読んだ。

 二行目を読んだ。

 三行目——

「っ、」

 声が出た。

 自分でも制御できない、素の驚き声が喉から漏れた。椅子が軋んだ。ペンが転がった。ノートに引きかけていた線が、盛大に歪んだ。

 教室が静まり返った。

 先生の声が止まった。

「佐伯」

 名前を呼ばれた。叱る前の、一拍置く声だ。

「は、すみません」

「授業中にスマートフォンを操作するのはどういうつもりだ」

「……すみません」

「廊下で立ってなさい」

 返す言葉もなかった。椅子を引いて立ち上がる。教科書とノートをとりあえず机の中に押し込んで、廊下へ出る。扉を閉める直前、背中にクラスメイトたちの視線が刺さるのがわかった。くすくすという笑い声が、扉の隙間から漏れてきた。

 廊下は静かだった。

 俺はそのまま壁にもたれて、スマートフォンの画面をもう一度開いた。

 父さんからのメッセージは、三行だった。

 一行目。「再婚した」

 二行目。「相手の娘さんと今日から一緒に住んでくれ。住所送る」

 三行目。住所。

 それだけだった。

 それだけ、だった。

 俺はしばらく、その画面をただ見つめていた。処理が追いつかない。「再婚」という単語の意味はわかる。「一緒に住め」という命令の意味もわかる。でも、それが自分に向けられた現実の言葉として着地するまでに、ずいぶんと時間がかかった。

 廊下の向こうから、授業中の静けさが聞こえてくる。

 俺は壁から頭を離して、天井を見上げた。

 声を出したくなかったので、口を真一文字に結んだまま、ただ天井の染みを数えた。


 授業が終わって教室に戻ると、案の定、クラスメイトに茶化された。

「佐伯ー、授業中にエロ動画でも見てたのかよ」「あんな声出すなんて何見てたんだろ」「ねえ教えてよ~」

 笑いながら言ってくる奴らに、俺は「違う」とだけ答えた。それ以上説明する気力がなかった。父親から来たメッセージを見せると、軽口を叩いていた連中がぴたりと黙った。誰かが「え、まじで?」と言った。誰かが「それはびっくりするわ」と言った。笑いは収まったけれど、だからといってどうなるわけでもない。

 俺はただ、自分の席に座って、窓の外を見ていた。

 いつも一緒に帰る帰宅部仲間が「今日どうする?」と声をかけてきたとき、俺は「ちょっと先帰る」と答えた。事情を話す余裕が、まだなかった。


 歩いて三十分かかった。

 マップアプリのナビに従いながら、見知らぬ道を歩いた。途中で、自分が育った家が今はもう他人の手に渡っているという事実を思い出して、何とも言えない気持ちになった。怒りとも悲しみとも違う、ただ底が抜けたような感覚。父さんに向けてメッセージを打とうとして、何を書けばいいかわからなくて、スマートフォンをポケットに戻した。

 気持ちの整理がつかないまま、足だけが前へ進む。

 夕方の住宅街は静かで、自分の足音だけが妙によく聞こえた。

 送られてきた住所の建物が視界に入ってきたとき、俺はまず、その窓に明かりが灯っているのを見た。

 誰か、いる。

 当然だ。「相手の娘さんと住んでくれ」と言われたのだから、その相手がいるのは当然だ。わかっている。わかってはいるけれど、その明かりを見た瞬間に、足が一歩、勝手に止まった。

 玄関の前まで来て、俺はそこで立ち止まった。

 一分経ったか、二分経ったか。

 深呼吸を、三回した。それでもまだ心臓がうるさかったので、もう二回した。計五回。我ながら情けないと思ったけれど、どうしてもこれ以上の深呼吸は出てこなかった。

 ドアノブに手をかけた。

 回した。

 開けた。

「……ただい、ま」

 誰に言うわけでもなく、反射的に出てきた言葉だった。声は思ったより小さかった。

 玄関から覗いたリビングの床に、段ボール箱がいくつも積まれていた。その横に、人がいた。膝をついて、段ボールの口を開けながら、中身を丁寧に取り出している。その横顔が、灯りの中に浮かんでいた。

 俺の頭が、一瞬にして真っ白になった。

 知っている顔だった。

 知っているどころか、毎日見ていた。毎朝教室に入るたびに、その存在を意識していた。声が届く距離に近づきたくて、でも近づく理由が見つからなくて、結局いつも遠巻きに見ていた、あの顔だった。

 体が勝手によろめいた。靴棚に肩が当たって、派手な音が立った。

 その音で、彼女が振り向いた。

 一ノ瀬詩織が、驚いたように目を丸くして、俺を見ていた。


 気がついたら、リビングのソファーに座っていた。

 隣に詩織が膝をついて、心配そうにこちらを見ている。俺が玄関でよろめいた瞬間、すぐに駆け寄って肩を貸してくれたらしい。「らしい」というのは、その間の記憶が正直あまりない。気がついたら座っていた、というのが本当のところだ。

「……大丈夫ですか」

 落ち着いた声だった。感情を抑えた、でもちゃんと心配の滲んでいる声。

「あ、ああ……」

 情けない返事しか出てこなかった。

 詩織はしばらくこちらを見ていたが、何も言わずに立ち上がって台所へ向かった。すぐに戻ってきて、水の入ったコップをそっと差し出してくる。

 受け取った。

 受け取って、考えるより先に、一気に飲み干した。

 喉が冷たくなって、それで少しだけ頭が動くようになってきた。さっきまで真っ白だった思考に、薄く色が戻ってくる。

 詩織はもう荷解きに戻っていた。

 俺のことを放置しているわけじゃない。ただ、「もう大丈夫そうだ」と判断して、手を動かしているのだろう。その判断の正確さが、なんとなく彼女らしいと思った。

 俺はコップを両手で持ったまま、しばらくその背中を見ていた。

 見ながら、胸の中でいくつかの感情が渋滞を起こしていた。

 驚き。困惑。それから、——それから、なんというか。うまく名前のつかない、どこかこそばゆいような何かが、胸の奥でじりじりと熱を持っていた。

 コップを洗わなきゃ、と思った。

 急に立ち上がって台所へ向かい、コップをさっと洗って棚に戻した。それからカバンを玄関に置いてきていたことを思い出して取りに行き、戻ってきたときには詩織の荷解きを手伝っていた。

 会話はほとんどなかった。

「これはどこに置きますか」「そこの棚で」「わかりました」。そのくらいだ。でも不思議と、沈黙が苦ではなかった。二人で黙々と手を動かしながら、段ボールの数が減っていくのを確認しながら、そうして気がついたら十九時半になっていた。


 最後の段ボールが空になったとき、詩織が立ち上がって台所へ向かった。

 俺は財布を取り出した。何か買ってこよう。せめて初日くらい、外のものを食べた方が気楽だろうと思って。

「同居初日は、私の手料理を食べていただきたくて——」

 台所の方から、そんな声が聞こえてきた。

 俺の手が止まった。

 財布を持ったまま、固まった。

 心臓が跳ねた。跳ねた、というより、重くずんと一拍落ちた、という感じだった。

 "手料理"。

 "食べていただきたくて"。

 その言葉の組み合わせが、頭の中で意味を持つまでに、二秒ほどかかった。二秒後、俺はぐらりと世界が傾いた気がした。財布を手に持ったまま、台所の入り口のところで一度だけ深呼吸した。

 倒れなかった。意地の力である。

 でも、このままの格好では不味い、という考えがふと浮かんだ。

 制服だ。

 学校から直接来て、荷解きまで手伝って、今この瞬間も俺はまだ制服を着ている。汚れている、というわけではないけれど、なんとなく、制服のままで手料理の晩ごはんを迎えるのは、なんとなく、だめな気がした。うまく言えないが、なんとなく。

「あの、着替えてきてもいいですか」

 台所の入り口から声をかけると、詩織が振り向いた。

「もちろんです。ゆっくりどうぞ」

 そう言って、また鍋の方を向く。

 俺は自分の部屋になるであろう部屋に入って、カバンの中から適当な服を引っ張り出した。シャツとスウェットに着替えながら、鏡を見た。鏡の中の自分の顔が、耳まで赤かった。

 意地ではどうにもならないこともある、と思った。


 着替えてリビングに戻ると、テーブルの上に料理が並んでいた。

 煮物と、サラダと、味噌汁。それから、湯気の立つご飯。品数としては多くないけれど、丁寧に盛り付けられていて、それだけで食卓が、ちゃんとした「家の夕ごはん」の顔をしていた。

 その光景を見た瞬間、胸のあたりがじんわりと、温かくなった。

 怖れていたわけでも、期待していたわけでもない。ただ、その温かさは本物で、どこかから来た感情ではなく、今ここで初めて生まれたものだと、そう感じた。

 一ノ瀬詩織と同居する初日の夜は、そうして始まった。

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