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好きな人が義理の姉になった日から、距離感がバグり続けて毎日心臓が持ちません。  作者: あ


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第九話 その言葉を、声にしないまま

 夜が深くなっても、詩織は机の前に座っていた。

 参考書は閉じてあった。ペンも置いてあった。電気スタンドだけが灯っていて、その光の中に詩織の手が白く浮かんでいた。

 手を見ていた。

 右手だった。今日の帰り道、ずっと繋いでいた手。昨日も繋いでいた。一昨日も。同居してから毎日、この手で悠馬の手を握って歩いていた。

 最初は「姉弟だから当然」だと思っていた。

 ひよりにそう言われたから、そういうものだと思っていた。

 でも今は、知っている。そうじゃなかったと、知っている。

 知っていても、やめなかった。

 やめられなかったのではなく、やめたくなかった。

 詩織はゆっくり手を握った。開いた。また握った。

 何も入っていない手のひらが、空っぽだった。

 頭の中に、言葉が来ていた。

 ずっと来ていた。八話分の夜の間、ずっと来ていて、ずっと受け取らないでいた。受け取ったら本当になってしまうような気がして、受け取らないでいた。

 でも今夜は、もう逃げる方向がわからなかった。

 逃げようとしても、逃げた先にも同じ言葉があった。

 詩織は目を閉じた。

 暗闇の中で、悠馬の顔を思い出した。

 布団の中で目が合ったときの顔。屋上で空を見ていた横顔。傘の下で肩が触れそうになったときの、前を向いたまま何も言わない横顔。帰り道に立ち止まった自分に「どうしましたか」と聞いてきたときの、静かな声。

 全部、思い出した。

 思い出しながら、胸のあたりがじんわりと温かくなった。

 その温かさに、今夜は名前をつけようと思った。

 怖かった。本当に怖かった。でも目を閉じて、暗闇の中で、声には出さずに。

 頭の中だけで、言葉を受け取った。

 好き。

 そう思った。

 声には出なかった。文字にもしなかった。でも、頭の中で、はっきりと、その言葉が形を持った。

 部屋が静かだった。

 電気スタンドがかすかに音を立てていた。

 窓の外で、虫が鳴いていた。

 世界は何も変わっていなかった。でも詩織の中で、何かが静かに、取り返しのつかない方向へ動いた。

 取り返しのつかない、という感覚が、恐ろしかった。

 でも、恐ろしいのと同じくらい、どこかひどく落ち着いた。

 ずっとわかっていたことを、ようやく認めた、という落ち着きだった。


 眠れたのか眠れなかったのか、よくわからないまま朝になった。

 目を開けたら六時十分だった。アラームの前だった。

 天井を見た。

 昨夜のことを思い出した。暗闇の中で受け取った言葉を思い出した。

 夢ではなかった。

 詩織は布団の中で少しの間、動かなかった。

 好き、という言葉が、夜の間に定着していた。昨夜は恐る恐る受け取ったものが、今朝は胸の中に当たり前のようにあった。昨日まで知らないふりをしていたものが、今日からは知っているものになった。

 起き上がった。

 顔を洗って、台所に立って、朝ごはんの支度を始めた。

 手を動かしながら、頭の中が静かだった。静かだが、空ではなかった。ずっと何かがそこにあった。

 米をといで、出汁をとって、卵を割った。

 卵を割りながら、ふと気づいた。

 今日も、悠馬を起こしに行かなければならない。

 布団に入って、おはようと言って、目が合って、出てくる。

 毎朝やってきたことだった。でも今日は、今まで知らなかった言葉を知った朝の次の日だった。

 卵を割る手が、ほんの少しだけ止まった。


 六時半が近づいて、詩織は廊下に出た。

 悠馬の部屋の扉の前まで来て、足が止まった。

 いつもも止まる。でも今日の止まり方は、いつもと違った。

 いつもは「恥ずかしい」から止まっていた。

 今日は、もっと複雑だった。

 昨夜認めた言葉が、今朝この扉の前に来た瞬間に、重さを持って押し返してきた。好き、と思っている人の部屋の扉の前に、今立っている。好き、と思っている人の布団に、今から入る。

 好き、という言葉が、こんなにも重いとは思っていなかった。

 知らないうちは軽かった。知らないうちは、ただ「恥ずかしい」だけだった。

 でも今は重かった。

 重いが、やめるわけにはいかなかった。

 今日急にやめたら、悠馬が疑問に思う。それだけではなく、詩織自身が、やめたくなかった。

 やめたくないのは、昨夜認めた言葉があるからだ。

 詩織は目を閉じて、深呼吸した。

 一回目は浅かった。

 二回目は少し深くできた。

 ノックした。

「悠馬さん」

 声をかけた。自分の声が、今日はいつもより小さかった気がした。

 扉を開けた。

 部屋の中に入った。

 布団のそばまで来た。

 悠馬が眠っていた。顔だけが出ていた。目が閉じていた。規則正しく息をしていた。

 詩織はその顔を、少しの間見た。

 見ながら、胸の中の言葉が静かに熱を持った。

 布団を持ち上げた。

 入った。

 入った瞬間、今日はいつもより全部がはっきりしていた。体温が、呼吸の音が、布団の中の暗さが、悠馬との距離が。全部が、昨日より鮮明だった。

 知っているから、鮮明だった。

「おはよう」

 声が出た。

 いつもの声で出た。出せたことに、少し安堵した。

 悠馬が目を開けた。

 目が合った。

 今日の悠馬の目が、いつもと同じだった。驚いているのを抑えている目。でも抑えきれていない目。毎朝見てきた目だった。

 でも今日は、その目を見て、詩織の胸が今までとは違う動き方をした。

 知っているから、違った。

 三秒で逸らした。

 今日は三秒が、今までより長かった。


 布団から出て、扉を閉めてから、詩織は廊下でもう一度だけ深呼吸した。

 昨日までと同じことをした。でも昨日までとは全然違った。

 台所に戻って、朝ごはんの続きを作った。

 手を動かしながら、考えていた。

 好き、という言葉を、昨夜認めた。

 でも、それがわかったからといって、何かが変わるわけではなかった。

 悠馬には言えない。言う方法がわからない。言ったとして、どうなるかがわからない。義理の姉弟という状況で、気持ちを言葉にすることが何を意味するのか、詩織にはまだ整理できていなかった。

 だから、言わない。

 言わないが、知っている。

 知っているまま、一緒に暮らす。

 それが、今日からの詩織の日常だった。


 朝ごはんの時間、悠馬が向かいに座った。

「いただきます」

「いただきます」

 箸を取って、食べ始めた。

 悠馬が味噌汁を飲んで、「うまいです」と言った。

 詩織は「ありがとうございます」と答えた。

 いつもと同じやり取りだった。

 でも詩織の中では、いつもと全然違うやり取りだった。

 好き、という言葉を知ったまま、うまいですと言われて、ありがとうございますと答えた。

 それだけのことが、今日は少しだけ難しかった。


 昇降口を出て、歩き始めて、詩織は手を出した。

 いつものタイミングで、いつものように。

 悠馬の手が来た。指が絡んだ。

 今日の詩織は、その感触を、今まで一度も意識しなかったような鮮明さで受け取った。

 温かかった。

 指の形が、わかった。

 歩くたびに微妙に変わる力加減が、全部わかった。

 知っているから、全部わかった。

 詩織は前を向いて歩いた。

 顔が赤くなっているのがわかった。耳が熱かった。

 悠馬は前を向いていた。

 二人の影が、朝の光の中で並んでいた。


 学校に着いて、昇降口で別れた。

 教室に入って、席について、詩織はしばらく机の上の手を見ていた。

 右手だった。

 さっきまで悠馬と繋いでいた手だった。

 昨夜も同じ手を見ていた。でも昨夜とは少し違う目で見ていた。昨夜は「好き」という言葉を受け取る前の目だった。今日は受け取った後の目だった。

 好き、という言葉を知ったまま繋いだ手の感触が、右手にまだ残っていた。

 残っているわけがない。もう何分も経っている。でも残っている気がした。

 ひよりが来る前に、詩織は手を膝の上に下ろした。

 今日はひよりに何も言うつもりはなかった。昨夜のことも、今朝の布団のことも、さっきの手のことも。

 全部、自分の中だけにしまっておこうと思った。

 言葉にしたら、取り返しがつかない気がした。

 言葉にしなければ、まだ自分だけのものでいられる気がした。


 昼休みに、ひよりが来た。

 詩織の隣に座って、弁当を開いて、いつものように話し始めた。学校の話、共通の知り合いの話、他愛のない話。

 詩織はそれに相槌を打ちながら、弁当を食べた。

 ひよりが、ふと黙った。

 黙ってから、詩織をちらりと見た。

「詩織、今日なんか違う」

 詩織は箸を止めた。

「違う?」

「なんか、落ち着いてる。昨日まではなんかふわふわしてたのに」

 詩織はひよりを見た。

「ふわふわしてた?」

「なんか、追われてるみたいな。でも今日は、ちょっと違う。なんか、決めた後みたいな顔してる」

 詩織は答えなかった。

 答えない、というのが答えだということを、ひよりはわかるだろうと思った。

 ひよりは詩織を数秒見て、それから弁当箱に視線を戻した。

「そっか」

 それだけ言った。

 追及しなかった。

 詩織はひよりの横顔を見た。

 聞いてこない、ということが、今日のひよりなりの優しさだとわかった。

「……ひより」

「うん」

「ありがとう」

 何に対してのありがとうかは言わなかった。

 ひよりは「なんもしてないけど」と言って、卵焼きを口に入れた。

 二人でしばらく黙って弁当を食べた。

 その沈黙が、詩織には温かかった。


 夜、詩織は布団に入って天井を見た。

 昨夜と同じ天井だった。

 昨夜はこの天井を見ながら、言葉を受け取った。

 今夜は受け取った後だった。

 好き、という言葉が、今日一日かけて、胸の中で少しずつ場所を決めていった。朝の布団の中で。繋いだ手の中で。屋上の弁当の時間に。帰り道の影の中で。

 どこにいても、その言葉はそこにあった。

 邪魔だとは思わなかった。

 恐ろしいとも、もう思わなかった。

 ただ、重かった。

 どうしようもなく重かった。どこへも持っていけない重さが、胸の中にあった。

 言えない。言わない。言う方法がない。

 でも、知っている。

 それだけが、今夜の詩織にとっての全てだった。

 壁の向こうが静かだった。

 悠馬がそこにいた。

 好き、と思っている人が、壁一枚の向こうにいた。

 詩織は目を閉じた。

 眠れなかった。

 でも、昨夜よりは楽だった。

 名前を知っている分だけ、昨夜より楽だった。


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