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好きな人が義理の姉になった日から、距離感がバグり続けて毎日心臓が持ちません。  作者: あ


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21/22

第二十一話 初めて、言葉にした夜

 火曜日だった。

 一日中、詩織は何かを決めようとして、決められないままでいた。

 授業中も、昼休みも、帰り道も。

 ひよりの言葉が頭にあった。

「もう、言葉にした方がいいと思う」

 言葉にする。

 今まで一度もしなかったことだった。

 行動でなら、してきた。布団に入ることも、手を繋ぐことも、手のひらを乗せることも、全部行動だった。

 でも言葉は、まだ一度も使っていなかった。

 言葉にするのが怖かった。

 行動は、言い訳ができた。最初はひよりの嘘という言い訳があって、それがなくなってからは「したかったから」という理由だけがあった。でも言葉は違う。言葉にしたら、取り消せない。言葉は空気の中に出た瞬間に、現実になる。

 怖かった。

 でも、今日の詩織にはもう一つのことがあった。

 今朝、悠馬が手首に触れてきた。

 あの指先の重さが、今日一日、右手首の内側にあった。

 触れてきた。悠馬から。

 あれが何を意味するかを、詩織は今日一日で何度も考えた。

 考えるたびに、胸の中の満ちているものが、今日は今まで一番、溢れそうになった。


 夕ごはんを食べた。

 いつも通りに、向かい合って座って、食べた。

 詩織が「今日のはいつもより少し甘くしました」と言った。

 悠馬が「うまいです」と言った。

 いつも通りだった。

 でも今日のいつも通りは、今まで一番、いつも通りを続けることが難しかった。

 片づけをした。詩織が洗って、悠馬が拭いた。台所に二人でいた。

 動くたびに肩が近くなった。すみません、いえ、のやり取りをした。

 全部、今日は違う重さで届いた。

 片づけが終わって、悠馬が台所を出た。

 リビングに戻って、テーブルの上を片づけて、ソファーに座った。

 詩織もリビングに来た。

 二人でしばらく、何も言わなかった。

 いつものことだった。いつもの沈黙だった。

 でも今日の沈黙は、今まで一番、何かを孕んでいた。


 二十一時を過ぎたころ、悠馬が立ち上がった。

「そろそろ部屋に戻ります」

 言って、リビングの扉に向かった。

「待ってください」

 詩織の声が出た。

 悠馬が止まった。

 振り返った。

 詩織はソファーに座ったまま、悠馬を見ていた。

 立とうとして、立てなかった。足に力が入らなかった。

 だからソファーに座ったまま、悠馬を見た。

 悠馬も、扉の前で止まったまま、詩織を見た。

 リビングが静かだった。


 詩織は、悠馬の目を見た。

 見ながら、息を吸った。

 息を吸って、吐いた。

 もう一回、吸った。

 吐けなかった。

 吐く前に、声が来た。

「今まで、言葉にしなかったのは」

 声が、少しかすれていた。

 続けた。

「怖かったからです。言ったら、取り消せないから。言ったら、何かが変わるから。それが怖かった」

 悠馬は動かなかった。

 詩織は続けた。

「でも、もう」

 少しの間があった。

「もう、言わないといられないので」

 また間があった。

 詩織は悠馬から目を逸らさなかった。

 今まで三秒、四秒、五秒と、目を逸らすまでの時間を数えてきた。

 今夜は、数えなかった。

 ただ、見た。

「悠馬さんのことが、好きです」

 言った。

 声に出た。

 空気の中に、出た。


 リビングが静かだった。

 詩織の声が消えて、その言葉だけが残っていた。

 悠馬は動かなかった。

 動けなかった。

 詩織の言葉が、今も空気の中にあった。

 好きです。

 受け取った。

 受け取った瞬間に、今まで保留し続けていたものが、全部一度に動いた。

 朝ごはんを楽しみにしていたこと。手が来るまでの数秒を待っていたこと。来た瞬間に嬉しかったこと。卵焼きの甘さが好きだったこと。天井のひびを数えていたこと。今朝、手首に触れたこと。

 全部が、今の言葉と一緒になった。

 俺は詩織を見た。

 詩織がソファーに座ったまま、こちらを見ていた。

 目が逸れなかった。

 今夜の詩織の目には、今まで見てきた「名前のつかない何か」が、今日は名前を持って、はっきりと入っていた。

 それが、好き、という名前だということを、今夜の俺にはわかった。

 わかっていたから、俺もまっすぐ見た。


 何秒経ったか、わからなかった。

 詩織が少しだけ目を伏せた。

「……言いすぎました、すみ」

「俺も」

 詩織の言葉が止まった。

 俺は続けた。

「俺も、好きです」

 声が出た。

 出てから、少しだけ驚いた。

 こんなにも普通に出た、ということに驚いた。

 怖かった。

 怖かったのに、出た。

 詩織が俺を見た。

 さっきまで伏せかけていた目が、今度は上がって、まっすぐこちらを見た。

 その目に、今まで見たことのない何かが入っていた。

 名前をつけるなら、驚きと、安堵と、もっと別の何かが混ざったものだった。

 俺はそれを見た。

 見ながら、胸の中が今まで一番静かになった。

 うるさくなるかと思っていた。でも静かになった。

 正しいことが起きた、という静かさだった。


 どちらも動かなかった。

 どちらも何も言わなかった。

 でも、どちらも今夜初めて、同じ場所に立っていた。

 俺はリビングの扉から離れて、詩織のそばに歩いた。

 ソファーの前まで来た。

 座った。

 詩織の隣に、少し距離を置いて座った。

 詩織は前を向いていた。

 俺も前を向いた。

 リビングが静かだった。

 さっきまであった沈黙と、今の沈黙が違った。

 さっきまでは、言葉にしていないものを孕んだ沈黙だった。

 今は、言葉にしたものが落ち着いていく沈黙だった。


 しばらくして、詩織が言った。

「今まで、ずっと、言えなかった」

「俺も」

「怖かったから」

「俺も、怖かったです」

 詩織が少しの間黙って、それから言った。

「悠馬さんは、いつから」

 俺は少し考えた。

「はっきりとわかったのは、先週です」

「先週」

「はい。でも、もっと前からあったと思います。名前がなかっただけで」

 詩織がまた少し黙った。

「私は、もっと前です」

「どのくらい」

「布団に入って、おはようと言い始めたころには、もうあった気がします」

 俺は詩織を見た。

「そんなに前から」

「気づくのが遅かっただけで。気づいてからは、ずっとありました」

 詩織は前を向いたまま言った。

「毎日、どこかで」

「……ごめんなさい」

 俺が言った。

 詩織が俺を見た。

「なぜ謝るんですか」

「気づくのが遅かったので」

 詩織はしばらく俺を見て、それから前を向いた。

「遅くなかったです」

「でも」

「今夜、言ってくれたから、いいです」

 それだけ言って、詩織は少しだけ口元を動かした。

 笑った。

 今まで見た詩織の表情の中で、今夜が一番、力の抜けた笑いだった。

 管理されていない笑いだった。

 ただ、嬉しいから笑っている、という顔だった。

 俺はその顔を見て、今夜初めて、詩織の本当の顔を見た気がした。


 それから少しの間、二人でリビングにいた。

 テレビはつけなかった。

 特に何かをするわけでもなく、ただそこにいた。

 詩織が「明日も学校です」と言った。

「そうですね」

「寝なければいけませんね」

「はい」

 でも、どちらも立たなかった。

 もう少しだけ、と思っているのが、お互いに伝わっていた。

 俺は少しの間、詩織の横顔を見た。

 今夜の詩織の横顔は、今まで見た中で一番、柔らかかった。

 何かを堪えていない横顔だった。

 それが、どこかひどく、好きだった。

「詩織さん」

「はい」

「今日、言ってくれてありがとうございます」

 詩織がこちらを向いた。

「ありがとうはこっちの言葉です」

「俺は言えていなかったので」

「でも今夜、言ってくれました」

「はい」

「それで十分です」

 詩織はそう言って、また前を向いた。

 俺もまた前を向いた。

 リビングが静かだった。

 今夜は、その静かさが今まで一番温かかった。


 二十二時を過ぎたころ、二人で立ち上がった。

 廊下を並んで歩いた。

 詩織の部屋の前まで来た。

「おやすみなさい」

 詩織が言った。

 俺は答える前に、右手を出した。

 詩織の手を、取った。

 歩くときの、指が絡む握り方ではなかった。

 ただ、手のひらを合わせて、握った。

 三秒だけ。

「おやすみなさい」

 俺が言った。

 手を離した。

 詩織は扉を開けた。

 入る前に、一度だけ振り返った。

 その顔が、廊下の灯りの中でも赤かった。

 でも今夜は、赤い顔で笑っていた。

「また明日」

 詩織が言って、扉が閉まった。


 自分の部屋に入って、扉を閉めた。

 布団に横になった。

 天井を見た。

 今夜起きたことを、最初から思い返した。

 「待ってください」という詩織の声。

 「悠馬さんのことが、好きです」という言葉。

 俺も、好きです、と言えたこと。

 詩織の、今まで見た中で一番力の抜けた笑い。

 最後に握った手の温度。

 「また明日」という言葉。

 全部を並べて、見た。

 目を閉じた。

 今夜の俺の胸の中は、静かだった。

 うるさくなかった。

 静かで、温かかった。

 これが、受け取った、ということかもしれない、と思った。

 言葉を受け取って、言葉を渡して、手を握って、また明日と言われた。

 その全部が、今夜の胸の中に、ちゃんとあった。

 壁の向こうに、詩織がいた。

 好きな人が、そこにいた。

 でも今夜は、それだけではなかった。

 好きな人が、俺のことを好きだと言ってくれた。

 その事実が、今夜の布団の中で、静かに温かかった。

 目を閉じた。

 今夜は、眠れる気がした。

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