第二十一話 初めて、言葉にした夜
火曜日だった。
一日中、詩織は何かを決めようとして、決められないままでいた。
授業中も、昼休みも、帰り道も。
ひよりの言葉が頭にあった。
「もう、言葉にした方がいいと思う」
言葉にする。
今まで一度もしなかったことだった。
行動でなら、してきた。布団に入ることも、手を繋ぐことも、手のひらを乗せることも、全部行動だった。
でも言葉は、まだ一度も使っていなかった。
言葉にするのが怖かった。
行動は、言い訳ができた。最初はひよりの嘘という言い訳があって、それがなくなってからは「したかったから」という理由だけがあった。でも言葉は違う。言葉にしたら、取り消せない。言葉は空気の中に出た瞬間に、現実になる。
怖かった。
でも、今日の詩織にはもう一つのことがあった。
今朝、悠馬が手首に触れてきた。
あの指先の重さが、今日一日、右手首の内側にあった。
触れてきた。悠馬から。
あれが何を意味するかを、詩織は今日一日で何度も考えた。
考えるたびに、胸の中の満ちているものが、今日は今まで一番、溢れそうになった。
夕ごはんを食べた。
いつも通りに、向かい合って座って、食べた。
詩織が「今日のはいつもより少し甘くしました」と言った。
悠馬が「うまいです」と言った。
いつも通りだった。
でも今日のいつも通りは、今まで一番、いつも通りを続けることが難しかった。
片づけをした。詩織が洗って、悠馬が拭いた。台所に二人でいた。
動くたびに肩が近くなった。すみません、いえ、のやり取りをした。
全部、今日は違う重さで届いた。
片づけが終わって、悠馬が台所を出た。
リビングに戻って、テーブルの上を片づけて、ソファーに座った。
詩織もリビングに来た。
二人でしばらく、何も言わなかった。
いつものことだった。いつもの沈黙だった。
でも今日の沈黙は、今まで一番、何かを孕んでいた。
二十一時を過ぎたころ、悠馬が立ち上がった。
「そろそろ部屋に戻ります」
言って、リビングの扉に向かった。
「待ってください」
詩織の声が出た。
悠馬が止まった。
振り返った。
詩織はソファーに座ったまま、悠馬を見ていた。
立とうとして、立てなかった。足に力が入らなかった。
だからソファーに座ったまま、悠馬を見た。
悠馬も、扉の前で止まったまま、詩織を見た。
リビングが静かだった。
詩織は、悠馬の目を見た。
見ながら、息を吸った。
息を吸って、吐いた。
もう一回、吸った。
吐けなかった。
吐く前に、声が来た。
「今まで、言葉にしなかったのは」
声が、少しかすれていた。
続けた。
「怖かったからです。言ったら、取り消せないから。言ったら、何かが変わるから。それが怖かった」
悠馬は動かなかった。
詩織は続けた。
「でも、もう」
少しの間があった。
「もう、言わないといられないので」
また間があった。
詩織は悠馬から目を逸らさなかった。
今まで三秒、四秒、五秒と、目を逸らすまでの時間を数えてきた。
今夜は、数えなかった。
ただ、見た。
「悠馬さんのことが、好きです」
言った。
声に出た。
空気の中に、出た。
リビングが静かだった。
詩織の声が消えて、その言葉だけが残っていた。
悠馬は動かなかった。
動けなかった。
詩織の言葉が、今も空気の中にあった。
好きです。
受け取った。
受け取った瞬間に、今まで保留し続けていたものが、全部一度に動いた。
朝ごはんを楽しみにしていたこと。手が来るまでの数秒を待っていたこと。来た瞬間に嬉しかったこと。卵焼きの甘さが好きだったこと。天井のひびを数えていたこと。今朝、手首に触れたこと。
全部が、今の言葉と一緒になった。
俺は詩織を見た。
詩織がソファーに座ったまま、こちらを見ていた。
目が逸れなかった。
今夜の詩織の目には、今まで見てきた「名前のつかない何か」が、今日は名前を持って、はっきりと入っていた。
それが、好き、という名前だということを、今夜の俺にはわかった。
わかっていたから、俺もまっすぐ見た。
何秒経ったか、わからなかった。
詩織が少しだけ目を伏せた。
「……言いすぎました、すみ」
「俺も」
詩織の言葉が止まった。
俺は続けた。
「俺も、好きです」
声が出た。
出てから、少しだけ驚いた。
こんなにも普通に出た、ということに驚いた。
怖かった。
怖かったのに、出た。
詩織が俺を見た。
さっきまで伏せかけていた目が、今度は上がって、まっすぐこちらを見た。
その目に、今まで見たことのない何かが入っていた。
名前をつけるなら、驚きと、安堵と、もっと別の何かが混ざったものだった。
俺はそれを見た。
見ながら、胸の中が今まで一番静かになった。
うるさくなるかと思っていた。でも静かになった。
正しいことが起きた、という静かさだった。
どちらも動かなかった。
どちらも何も言わなかった。
でも、どちらも今夜初めて、同じ場所に立っていた。
俺はリビングの扉から離れて、詩織のそばに歩いた。
ソファーの前まで来た。
座った。
詩織の隣に、少し距離を置いて座った。
詩織は前を向いていた。
俺も前を向いた。
リビングが静かだった。
さっきまであった沈黙と、今の沈黙が違った。
さっきまでは、言葉にしていないものを孕んだ沈黙だった。
今は、言葉にしたものが落ち着いていく沈黙だった。
しばらくして、詩織が言った。
「今まで、ずっと、言えなかった」
「俺も」
「怖かったから」
「俺も、怖かったです」
詩織が少しの間黙って、それから言った。
「悠馬さんは、いつから」
俺は少し考えた。
「はっきりとわかったのは、先週です」
「先週」
「はい。でも、もっと前からあったと思います。名前がなかっただけで」
詩織がまた少し黙った。
「私は、もっと前です」
「どのくらい」
「布団に入って、おはようと言い始めたころには、もうあった気がします」
俺は詩織を見た。
「そんなに前から」
「気づくのが遅かっただけで。気づいてからは、ずっとありました」
詩織は前を向いたまま言った。
「毎日、どこかで」
「……ごめんなさい」
俺が言った。
詩織が俺を見た。
「なぜ謝るんですか」
「気づくのが遅かったので」
詩織はしばらく俺を見て、それから前を向いた。
「遅くなかったです」
「でも」
「今夜、言ってくれたから、いいです」
それだけ言って、詩織は少しだけ口元を動かした。
笑った。
今まで見た詩織の表情の中で、今夜が一番、力の抜けた笑いだった。
管理されていない笑いだった。
ただ、嬉しいから笑っている、という顔だった。
俺はその顔を見て、今夜初めて、詩織の本当の顔を見た気がした。
それから少しの間、二人でリビングにいた。
テレビはつけなかった。
特に何かをするわけでもなく、ただそこにいた。
詩織が「明日も学校です」と言った。
「そうですね」
「寝なければいけませんね」
「はい」
でも、どちらも立たなかった。
もう少しだけ、と思っているのが、お互いに伝わっていた。
俺は少しの間、詩織の横顔を見た。
今夜の詩織の横顔は、今まで見た中で一番、柔らかかった。
何かを堪えていない横顔だった。
それが、どこかひどく、好きだった。
「詩織さん」
「はい」
「今日、言ってくれてありがとうございます」
詩織がこちらを向いた。
「ありがとうはこっちの言葉です」
「俺は言えていなかったので」
「でも今夜、言ってくれました」
「はい」
「それで十分です」
詩織はそう言って、また前を向いた。
俺もまた前を向いた。
リビングが静かだった。
今夜は、その静かさが今まで一番温かかった。
二十二時を過ぎたころ、二人で立ち上がった。
廊下を並んで歩いた。
詩織の部屋の前まで来た。
「おやすみなさい」
詩織が言った。
俺は答える前に、右手を出した。
詩織の手を、取った。
歩くときの、指が絡む握り方ではなかった。
ただ、手のひらを合わせて、握った。
三秒だけ。
「おやすみなさい」
俺が言った。
手を離した。
詩織は扉を開けた。
入る前に、一度だけ振り返った。
その顔が、廊下の灯りの中でも赤かった。
でも今夜は、赤い顔で笑っていた。
「また明日」
詩織が言って、扉が閉まった。
自分の部屋に入って、扉を閉めた。
布団に横になった。
天井を見た。
今夜起きたことを、最初から思い返した。
「待ってください」という詩織の声。
「悠馬さんのことが、好きです」という言葉。
俺も、好きです、と言えたこと。
詩織の、今まで見た中で一番力の抜けた笑い。
最後に握った手の温度。
「また明日」という言葉。
全部を並べて、見た。
目を閉じた。
今夜の俺の胸の中は、静かだった。
うるさくなかった。
静かで、温かかった。
これが、受け取った、ということかもしれない、と思った。
言葉を受け取って、言葉を渡して、手を握って、また明日と言われた。
その全部が、今夜の胸の中に、ちゃんとあった。
壁の向こうに、詩織がいた。
好きな人が、そこにいた。
でも今夜は、それだけではなかった。
好きな人が、俺のことを好きだと言ってくれた。
その事実が、今夜の布団の中で、静かに温かかった。
目を閉じた。
今夜は、眠れる気がした。




