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好きな人が義理の姉になった日から、距離感がバグり続けて毎日心臓が持ちません。  作者: あ


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20/22

第二十話 今度は、俺から

 月曜日の朝だった。

 目が覚めたのは、六時十五分だった。アラームより十五分早かった。

 昨夜、眠れなかった。

 正確には眠れたが、浅かった。何度も目が覚めた。そのたびに、詩織の手のひらの重さを思い出した。テーブルの上の、俺の手の甲の上に、静かに乗った、あの重さ。

 重さの温度を、今朝もまだ覚えていた。

 天井を見た。

 今日も詩織が来る。

 その事実を、今朝は違う気持ちで受け取った。

 来ることを、待っていた。

 待っている、ということを、今朝は隠さないでいた。自分の中で、隠さなかった。待っていていい、と思った。


 廊下に足音が来た。

 扉の前で止まった。

 ノックが三回。

「悠馬さん」

 扉が開いた。

 足音が近づいてきた。

 布団が持ち上がった。

 詩織が入ってきた。

 今日の詩織は、いつもより少しだけゆっくり入ってきた気がした。急いでいなかった。

 近かった。昨日よりも、一昨日よりも、今まで全部の朝の中で今日が一番近かった。

 詩織の呼吸が聞こえた。

「……おきて」

 声が来た。

 低くて、柔らかくて、息が混ざっているような声だった。

 第一話の冒頭で、俺が半分眠りながら聞いた声と、同じ声だった。

 あの朝がいつかを、今の俺はわかっていた。

 今朝が、あの朝だった。

「悠馬」

 名前だけ呼ばれた。さん、がなかった。

 俺は目を開けた。

 詩織の顔があった。

 今まで一番近い距離に、詩織の顔があった。

 睫毛の一本一本が見えた。

 頬が、今日はいつもより上気していた。

 それでも詩織は、今日は今まで一番、俺から目を逸らさなかった。

 目が合ったまま、詩織が言った。

「おはよう」

 声が、少しかすれていた。

 俺は答えようとして、声が出なかった。

 喉が固まっていた。

 でも今日の俺は、それでも、目を逸らさなかった。

 逸らさないでいた。

 今まで二秒だった。三秒になって、四秒になって、五秒になった。

 今日は六秒目に入った。


 詩織が先に動いた。

 布団から出ようとした。

 立ち上がろうとした。

 そのとき、俺の手が動いた。

 考えていなかった。

 でも、動いた。

 俺の右手が伸びて、布団から出かかった詩織の手首に、触れた。

 触れた、というのは、掴んだわけではなかった。ただ、指先が触れた。

 止まれ、とも、行くな、とも言っていない。

 ただ、触れた。

 詩織が止まった。

 俺も、手を伸ばしたまま、止まった。


 静かだった。

 部屋の中が、音のない時間になった。

 詩織が、振り返った。

 俺の指先が、詩織の手首に触れたままだった。

 目が合った。

 今朝二度目の、目が合った瞬間だった。

 今度は、どちらも逸らさなかった。

 七秒。八秒。

 詩織の目に、今まで見てきた「名前のつかない何か」があった。

 でも今朝は、その何かの名前が、俺にはわかった。

 わかっていたから、逸らさなかった。

 九秒目に、詩織の目に、今まで見たことのない揺れが入った。

 揺れた、というのは、感情が動いた揺れだった。

 今まで詩織の目は、いつも何かを抑えていた。抑えながら、でも確かにそこにあるものを持っていた。

 今朝は、抑えているものが、少しだけ揺れた。

 俺はその揺れを見た。

 見ながら、指先に少しだけ力を込めた。

 掴む、ではなかった。

 ただ、ここにいる、という重さを伝えた。


 どちらが先かわからないくらい、同時だった。

 詩織が先に動いた。

 俺の指先から、手首がするりと離れた。

 詩織が立ち上がった。

 スカートの裾を整えた。

 俺の方を、一瞬だけ見た。

「朝ごはん、できています」

 声が、今朝一番かすれていた。

 扉が、静かに閉まった。


 廊下で、詩織は壁に背を預けた。

 ずるずると、座り込んだ。

 両手で顔を覆った。

 手のひらが熱かった。

 手首が、まだ温かかった。

 悠馬の指先が触れた場所が、まだわかった。

 触れられた。

 今まで、詩織から触れてきた。

 布団に入るのも。手を繋ぐのも。襟を直すのも。手のひらを乗せるのも。全部、詩織からだった。

 でも今朝は、悠馬から触れてきた。

 布団から出ようとした詩織の手首に、悠馬の指先が来た。

 行かないでほしい、という意味だったのか。

 それとも、ただそこにいたかっただけなのか。

 わからなかった。

 でも、来た。

 悠馬から、来た。

 詩織は膝に顔を埋めた。

 好きだ、と思った。

 今朝も、思った。

 でも今朝は、今まで一番大きく、思った。


 扉が閉まってから、俺は布団の中で天井を見た。

 手を伸ばした。

 止めようとしたわけではなかった。行かないでほしかったわけでもなかった。

 ただ、行ってほしくなかった。

 行ってほしくなかったから、手が動いた。

 詩織が止まって、振り返って、目が合った。

 あの目の揺れを、今も覚えていた。

 揺れた目を見ながら、俺の中で何かが少しだけ確かになった。

 詩織も、同じ場所にいる。

 それが、今朝初めて、確かな気がした。

 気がした、ではなく、確かだった。

 あの目の揺れは、俺が今まで詩織に向けてきた感情と、同じ種類のものを持っていた。

 確かだった。

 確かだとわかったら、胸の中が今まで一番うるさくなった。

 うるさくて、起き上がれなかった。

 でも、起き上がらなければならなかった。

 朝ごはんができている、と詩織が言った。


 朝ごはんを食べた。

 今日の二人は、普通に向かい合って座った。

 普通に、というのが今日は難しかった。

 詩織が味噌汁をよそって、俺の前に置いた。

「ありがとうございます」

「いえ」

 いつも通りだった。

 でも今日のいつも通りは、今まで一番、いつも通りを保つのが難しかった。

 詩織は食器の方を見ていた。

 俺も食器の方を見ていた。

 今朝のことには、どちらも触れなかった。

 触れる言葉が、まだなかった。


 登校中、手を繋いで歩いた。

 今日の手の絡み方が、今まで一番違った。

 違った、というのは、今日の詩織の手がいつもより少しだけ力が入っていた。

 そして、俺の手も、今日は少しだけ力が入っていた。

 二人とも、少しだけ、いつもより強く握っていた。

 どちらもそれに触れなかった。

 ただ、前を向いて歩いた。

 でも今日の前を向いて歩く、は今まで一番、前を向いているのに隣を意識していた。


 その日の昼、ひよりが屋上に来た。

 詩織と悠馬の弁当が終わったころに、扉を開けて顔を出した。

 悠馬を見て、詩織を見て、二人の間の空気を感じ取ったのか、ひよりが少しだけ目を細めた。

「邪魔だった?」

「いいえ」

「詩織、少しだけ」

 ひよりが詩織を手招きした。

 詩織が立って、ひよりのそばへ行った。

 ひよりが小声で言った。

「今日の詩織、顔が違う」

「そうですか」

「今日の悠馬くんも、顔が違う」

 詩織は何も言わなかった。

「何かあった?」

「……少し」

「どんな」

「悠馬さんが、今朝」

 詩織は少しの間止まって、それから言った。

「私から、触れてきました」

 ひよりが黙った。

 詩織は続けた。

「布団から出ようとしたら、手首に触れて。それだけです。それだけなんですけど」

「うん」

「それだけのことが、今日ずっと」

 詩織は言葉を切った。

 ひよりは詩織を見て、静かに言った。

「詩織」

「うん」

「もう、言葉にした方がいいと思う」

 詩織は俯いた。

「怖い」

「うん、知ってる」

「でも」

「うん」

「もうすぐ、限界かもしれない」

 ひよりはその言葉を受け取った。

 受け取って、詩織の肩を一度だけ軽く叩いた。

「怖くて当然だよ。でも、詩織が思ってるより、たぶん、大丈夫だから」

 詩織はひよりを見た。

「なんで言い切れるの」

「さっきの悠馬くんの顔、見た?」

 詩織は少し固まった。

「あの顔は、詩織のことを好きな人の顔だよ」

 詩織は何も言えなかった。

 ひよりは「頑張れ」とだけ言って、屋上の扉を閉めた。


 夜、俺は自分の部屋で机の前に座っていた。

 今日一日、ずっと今朝のことを考えていた。

 詩織の手首に触れた指先のことを。

 目が合ったときの、詩織の目の揺れのことを。

 ひよりに昼に呼ばれて、詩織が何かを話しているのが屋上の端から見えた。ひよりが詩織の肩を叩いて、扉を閉めた。詩織が戻ってきたときの顔が、少し変わっていた。何かを決めた後のような顔だった。

 何を決めたのか、俺にはわからなかった。

 でも、今夜の詩織が、ここ数日の中で一番、何かが近い気がした。

 近い、というのは距離ではなく、何かが起きる直前の近さだった。

 その「何か」が何かも、わかっていた。

 わかっていたから、今夜の俺は机の前で、参考書を一ページも開かないままでいた。

 壁の向こうが静かだった。

 詩織がそこにいた。

 好きな人が、そこにいた。

 そして今夜の俺には、その好きな人が自分に向けてきたものの名前も、わかっていた。

 わかっていて、待っていた。

 何を待っているかも、わかっていた。

 怖かった。

 でも、怖いのと同じくらい、その怖さを越えたいと思っていた。

 越えた先に、何があるか、もう知っていた。

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