第二十話 今度は、俺から
月曜日の朝だった。
目が覚めたのは、六時十五分だった。アラームより十五分早かった。
昨夜、眠れなかった。
正確には眠れたが、浅かった。何度も目が覚めた。そのたびに、詩織の手のひらの重さを思い出した。テーブルの上の、俺の手の甲の上に、静かに乗った、あの重さ。
重さの温度を、今朝もまだ覚えていた。
天井を見た。
今日も詩織が来る。
その事実を、今朝は違う気持ちで受け取った。
来ることを、待っていた。
待っている、ということを、今朝は隠さないでいた。自分の中で、隠さなかった。待っていていい、と思った。
廊下に足音が来た。
扉の前で止まった。
ノックが三回。
「悠馬さん」
扉が開いた。
足音が近づいてきた。
布団が持ち上がった。
詩織が入ってきた。
今日の詩織は、いつもより少しだけゆっくり入ってきた気がした。急いでいなかった。
近かった。昨日よりも、一昨日よりも、今まで全部の朝の中で今日が一番近かった。
詩織の呼吸が聞こえた。
「……おきて」
声が来た。
低くて、柔らかくて、息が混ざっているような声だった。
第一話の冒頭で、俺が半分眠りながら聞いた声と、同じ声だった。
あの朝がいつかを、今の俺はわかっていた。
今朝が、あの朝だった。
「悠馬」
名前だけ呼ばれた。さん、がなかった。
俺は目を開けた。
詩織の顔があった。
今まで一番近い距離に、詩織の顔があった。
睫毛の一本一本が見えた。
頬が、今日はいつもより上気していた。
それでも詩織は、今日は今まで一番、俺から目を逸らさなかった。
目が合ったまま、詩織が言った。
「おはよう」
声が、少しかすれていた。
俺は答えようとして、声が出なかった。
喉が固まっていた。
でも今日の俺は、それでも、目を逸らさなかった。
逸らさないでいた。
今まで二秒だった。三秒になって、四秒になって、五秒になった。
今日は六秒目に入った。
詩織が先に動いた。
布団から出ようとした。
立ち上がろうとした。
そのとき、俺の手が動いた。
考えていなかった。
でも、動いた。
俺の右手が伸びて、布団から出かかった詩織の手首に、触れた。
触れた、というのは、掴んだわけではなかった。ただ、指先が触れた。
止まれ、とも、行くな、とも言っていない。
ただ、触れた。
詩織が止まった。
俺も、手を伸ばしたまま、止まった。
静かだった。
部屋の中が、音のない時間になった。
詩織が、振り返った。
俺の指先が、詩織の手首に触れたままだった。
目が合った。
今朝二度目の、目が合った瞬間だった。
今度は、どちらも逸らさなかった。
七秒。八秒。
詩織の目に、今まで見てきた「名前のつかない何か」があった。
でも今朝は、その何かの名前が、俺にはわかった。
わかっていたから、逸らさなかった。
九秒目に、詩織の目に、今まで見たことのない揺れが入った。
揺れた、というのは、感情が動いた揺れだった。
今まで詩織の目は、いつも何かを抑えていた。抑えながら、でも確かにそこにあるものを持っていた。
今朝は、抑えているものが、少しだけ揺れた。
俺はその揺れを見た。
見ながら、指先に少しだけ力を込めた。
掴む、ではなかった。
ただ、ここにいる、という重さを伝えた。
どちらが先かわからないくらい、同時だった。
詩織が先に動いた。
俺の指先から、手首がするりと離れた。
詩織が立ち上がった。
スカートの裾を整えた。
俺の方を、一瞬だけ見た。
「朝ごはん、できています」
声が、今朝一番かすれていた。
扉が、静かに閉まった。
廊下で、詩織は壁に背を預けた。
ずるずると、座り込んだ。
両手で顔を覆った。
手のひらが熱かった。
手首が、まだ温かかった。
悠馬の指先が触れた場所が、まだわかった。
触れられた。
今まで、詩織から触れてきた。
布団に入るのも。手を繋ぐのも。襟を直すのも。手のひらを乗せるのも。全部、詩織からだった。
でも今朝は、悠馬から触れてきた。
布団から出ようとした詩織の手首に、悠馬の指先が来た。
行かないでほしい、という意味だったのか。
それとも、ただそこにいたかっただけなのか。
わからなかった。
でも、来た。
悠馬から、来た。
詩織は膝に顔を埋めた。
好きだ、と思った。
今朝も、思った。
でも今朝は、今まで一番大きく、思った。
扉が閉まってから、俺は布団の中で天井を見た。
手を伸ばした。
止めようとしたわけではなかった。行かないでほしかったわけでもなかった。
ただ、行ってほしくなかった。
行ってほしくなかったから、手が動いた。
詩織が止まって、振り返って、目が合った。
あの目の揺れを、今も覚えていた。
揺れた目を見ながら、俺の中で何かが少しだけ確かになった。
詩織も、同じ場所にいる。
それが、今朝初めて、確かな気がした。
気がした、ではなく、確かだった。
あの目の揺れは、俺が今まで詩織に向けてきた感情と、同じ種類のものを持っていた。
確かだった。
確かだとわかったら、胸の中が今まで一番うるさくなった。
うるさくて、起き上がれなかった。
でも、起き上がらなければならなかった。
朝ごはんができている、と詩織が言った。
朝ごはんを食べた。
今日の二人は、普通に向かい合って座った。
普通に、というのが今日は難しかった。
詩織が味噌汁をよそって、俺の前に置いた。
「ありがとうございます」
「いえ」
いつも通りだった。
でも今日のいつも通りは、今まで一番、いつも通りを保つのが難しかった。
詩織は食器の方を見ていた。
俺も食器の方を見ていた。
今朝のことには、どちらも触れなかった。
触れる言葉が、まだなかった。
登校中、手を繋いで歩いた。
今日の手の絡み方が、今まで一番違った。
違った、というのは、今日の詩織の手がいつもより少しだけ力が入っていた。
そして、俺の手も、今日は少しだけ力が入っていた。
二人とも、少しだけ、いつもより強く握っていた。
どちらもそれに触れなかった。
ただ、前を向いて歩いた。
でも今日の前を向いて歩く、は今まで一番、前を向いているのに隣を意識していた。
その日の昼、ひよりが屋上に来た。
詩織と悠馬の弁当が終わったころに、扉を開けて顔を出した。
悠馬を見て、詩織を見て、二人の間の空気を感じ取ったのか、ひよりが少しだけ目を細めた。
「邪魔だった?」
「いいえ」
「詩織、少しだけ」
ひよりが詩織を手招きした。
詩織が立って、ひよりのそばへ行った。
ひよりが小声で言った。
「今日の詩織、顔が違う」
「そうですか」
「今日の悠馬くんも、顔が違う」
詩織は何も言わなかった。
「何かあった?」
「……少し」
「どんな」
「悠馬さんが、今朝」
詩織は少しの間止まって、それから言った。
「私から、触れてきました」
ひよりが黙った。
詩織は続けた。
「布団から出ようとしたら、手首に触れて。それだけです。それだけなんですけど」
「うん」
「それだけのことが、今日ずっと」
詩織は言葉を切った。
ひよりは詩織を見て、静かに言った。
「詩織」
「うん」
「もう、言葉にした方がいいと思う」
詩織は俯いた。
「怖い」
「うん、知ってる」
「でも」
「うん」
「もうすぐ、限界かもしれない」
ひよりはその言葉を受け取った。
受け取って、詩織の肩を一度だけ軽く叩いた。
「怖くて当然だよ。でも、詩織が思ってるより、たぶん、大丈夫だから」
詩織はひよりを見た。
「なんで言い切れるの」
「さっきの悠馬くんの顔、見た?」
詩織は少し固まった。
「あの顔は、詩織のことを好きな人の顔だよ」
詩織は何も言えなかった。
ひよりは「頑張れ」とだけ言って、屋上の扉を閉めた。
夜、俺は自分の部屋で机の前に座っていた。
今日一日、ずっと今朝のことを考えていた。
詩織の手首に触れた指先のことを。
目が合ったときの、詩織の目の揺れのことを。
ひよりに昼に呼ばれて、詩織が何かを話しているのが屋上の端から見えた。ひよりが詩織の肩を叩いて、扉を閉めた。詩織が戻ってきたときの顔が、少し変わっていた。何かを決めた後のような顔だった。
何を決めたのか、俺にはわからなかった。
でも、今夜の詩織が、ここ数日の中で一番、何かが近い気がした。
近い、というのは距離ではなく、何かが起きる直前の近さだった。
その「何か」が何かも、わかっていた。
わかっていたから、今夜の俺は机の前で、参考書を一ページも開かないままでいた。
壁の向こうが静かだった。
詩織がそこにいた。
好きな人が、そこにいた。
そして今夜の俺には、その好きな人が自分に向けてきたものの名前も、わかっていた。
わかっていて、待っていた。
何を待っているかも、わかっていた。
怖かった。
でも、怖いのと同じくらい、その怖さを越えたいと思っていた。
越えた先に、何があるか、もう知っていた。




