第十九話 言葉にする前の、一番静かな夜
日曜日の夜だった。
宿題が終わって、詩織は自分の部屋を出た。
特に理由はなかった。ただ、部屋にいるより少し空気を変えたかった。
リビングに来ると、悠馬がいた。
ソファーに座って、スマートフォンを見ていた。
詩織が来たことに気づいて、顔を上げた。
「終わりましたか」
「はい。悠馬さんも?」
「さっき終わりました」
詩織はソファーの反対側に座った。
少しの間、二人とも何も言わなかった。
テレビをつける気にもならなかった。本を持ってきたわけでもなかった。ただ、同じリビングにいた。
それが、今夜は悪くなかった。
詩織は膝の上に手を置いて、窓の外を見た。夜の住宅街が静かだった。
「詩織さん」
悠馬が言った。
「はい」
「少し、聞いてもいいですか」
詩織は悠馬を見た。いつもと少し違うトーンだった。
「なんですか」
悠馬はスマートフォンをテーブルに置いて、少し考えてから言った。
「父さんと、二人だった頃の話を、詩織さんにしたことなかったな、と思って」
詩織は黙って聞いた。
悠馬が話した。
父さんと二人で暮らしていた話。父さんは料理が苦手で、毎日コンビニかスーパーの弁当だった話。洗濯は自分でするようになっていた話。家に帰っても誰もいないことが多かった話。
悪い思い出として話しているわけではなかった。ただ、淡々と、そういうことがあったと話していた。
「寂しかったですか」
詩織が聞いた。
「当時は普通だと思っていました。比べるものがなかったので」
「今は?」
「今は」
悠馬が少し止まった。
「比べるものができたので、あの頃は少し寂しかったんだな、とわかります」
比べるもの、という言葉が、詩織の胸の中に落ちた。
「比べるもの、というのは」
「この家のことです」
悠馬は言いながら、リビングを見渡した。
「ここに帰ると、明かりがついていて、誰かがいて、ごはんができていて。それが普通になってから、あの頃の普通が少し違って見えました」
詩織はその言葉を、胸の中で受け取った。
ゆっくり、受け取った。
この家の明かりは、詩織がつけていた。
誰かがいるのは、詩織がいた。
ごはんを作っていたのは、詩織だった。
悠馬にとって、それが「今の普通」になっていた。
その事実が、今夜の詩織には静かに、でも確実に届いた。
少しの間、沈黙があった。
悪い沈黙ではなかった。
詩織はその沈黙の中で、悠馬の横顔を見た。
今夜の悠馬は、いつもより少しだけ表情が柔らかかった。何かを話した後の、少し軽くなったような顔だった。
詩織は何か言おうとした。
でも言葉が来なかった。
言葉の代わりに、手が動いた。
考えるより先に、動いた。
詩織の右手が、テーブルの上に置いてあった悠馬の手の上に、そっと乗った。
悠馬が固まった。
詩織も固まった。
手が、重なっていた。
歩くときに繋ぐのとは違った。あれは指が絡む。今日は、詩織の手のひらが悠馬の手の甲の上に、ただ乗っていた。
重さだけが、伝わっていた。
温度だけが、伝わっていた。
詩織は動けなかった。
動けない、というのは、離す方向にも、もっと近づく方向にも、どちらにも動けなかった。
悠馬も動かなかった。
リビングが静かだった。
窓の外が静かだった。
二人の呼吸だけが、かすかにあった。
どれくらい経ったか、わからなかった。
十秒か。三十秒か。もっと長かったか。
詩織が先に、手を引いた。
そっと引いた。急ではなく、ゆっくり。
膝の上に手を戻した。
何も言わなかった。
悠馬も何も言わなかった。
詩織は前を向いた。窓の外を見た。
夜の住宅街が、さっきと同じように静かだった。何も変わっていなかった。
でも詩織の胸の中では、何かが少し動いていた。
手が動いたのは、自分だった。
考えていなかった。悠馬の話を聞いて、その言葉が届いて、手が動いた。
それだけだった。
それだけのことが、今夜は今までの全部の中で一番、詩織には重かった。
悠馬は手の甲を見ていた。
詩織の手が乗っていた場所を、見ていた。
もう何も乗っていなかった。
でも、温度がまだあった。
詩織の手のひらの重さが、まだそこにあった気がした。
何も言えなかった。
何を言えばいいかが、わからなかった。
「ありがとう」では違う。「どうしたんですか」では違う。
何も言えないまま、詩織の横顔を見た。
詩織は窓の外を見ていた。
今夜の詩織の横顔が、今まで見た中で一番、何かを堪えているように見えた。
堪えている、という言葉が来た。
詩織が何かを堪えているとしたら、それは何か。
その問いを持ったまま、答えを出せなかった。
出せなかったのではなく、出した先にあるものが怖かった。
二十一時を過ぎたころ、詩織が立ち上がった。
「お茶、入れますか」
いつもの声で言った。
「いただきます」
いつもの声で答えた。
詩織が台所へ向かった。
お湯を沸かす音がした。
カップが置かれる音がした。
お茶を注ぐ音がした。
それらの音を聞きながら、俺はさっきの手の温度を持ったまま、ソファーに座っていた。
詩織が戻ってきて、カップを置いた。
隣に座った。
「ありがとうございます」
「いえ」
二人でお茶を飲んだ。
今夜もいつも通りだった。
でも、今夜のいつも通りは、今まで一番密度が違った。
言葉にしていないものが、今夜のリビングにはたくさんあった。
言葉にしていないままで、二人でお茶を飲んだ。
おやすみなさい、を言って、それぞれの部屋に入った。
詩織の部屋では。
詩織は布団に入って、右手を見た。
手を乗せたときのことを思い出した。
考えていなかった。
でも、後悔していなかった。
後悔していないことに、少しだけ驚いた。
今まで詩織がやってきたことは、恥ずかしかった。布団に入ることも、お茶を持っていくことも、襟を直すことも。全部、やった後に赤くなって、廊下で座り込んで、一人で「何をやってるんだろう」と思っていた。
でも今夜は違った。
手を乗せた後、引いた後、前を向いた。赤くはなった。でも後悔しなかった。
したかったから、した。
それだけだった。
好きだから、話を聞いていたら、手が動いた。
その事実を、今夜は静かに受け取った。
天井を見た。
壁の向こうに悠馬がいた。
今夜の悠馬の手の甲の温度を、詩織の右手がまだ覚えていた。
悠馬の部屋では。
俺は布団の中で、手の甲を天井に向けて見ていた。
詩織の手が乗っていた場所。
あの重さを、今もわかる気がした。
詩織が、どういう気持ちで手を乗せたのか。
今夜の俺には、少しだけわかる気がした。
昨夜「好き」という言葉を受け取ってから、今夜の詩織の手の重さが何を意味するか、少しだけ届いた。
届いた、というのは、受け取った、ということだ。
詩織が何かを伝えようとしていた。言葉ではなく、手で。
今まで全部、詩織は言葉ではなく行動で何かを伝えてきた。
俺はその全部を、今まで「何かが違う」と感じながら、名前をつけないでいた。
でも今夜は、少しだけ、名前がついた気がした。
詩織が俺のことを、どう思っているか。
その答えが、今夜の手の重さの中にあった気がした。
気がした、だけかもしれない。
でも、今夜の俺には、それが確かなものに感じられた。
壁の向こうに、詩織がいた。
好きな人が、そこにいた。
自分が好きな人が、自分のことを、もしかしたら。
その先を考えると、胸の中が今夜一番うるさくなった。
うるさくて、眠れなかった。
眠れなかったが、今夜は眠れないことが悪くなかった。




