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好きな人が義理の姉になった日から、距離感がバグり続けて毎日心臓が持ちません。  作者: あ


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19/22

第十九話 言葉にする前の、一番静かな夜

 日曜日の夜だった。

 宿題が終わって、詩織は自分の部屋を出た。

 特に理由はなかった。ただ、部屋にいるより少し空気を変えたかった。

 リビングに来ると、悠馬がいた。

 ソファーに座って、スマートフォンを見ていた。

 詩織が来たことに気づいて、顔を上げた。

「終わりましたか」

「はい。悠馬さんも?」

「さっき終わりました」

 詩織はソファーの反対側に座った。

 少しの間、二人とも何も言わなかった。

 テレビをつける気にもならなかった。本を持ってきたわけでもなかった。ただ、同じリビングにいた。

 それが、今夜は悪くなかった。

 詩織は膝の上に手を置いて、窓の外を見た。夜の住宅街が静かだった。

「詩織さん」

 悠馬が言った。

「はい」

「少し、聞いてもいいですか」

 詩織は悠馬を見た。いつもと少し違うトーンだった。

「なんですか」

 悠馬はスマートフォンをテーブルに置いて、少し考えてから言った。

「父さんと、二人だった頃の話を、詩織さんにしたことなかったな、と思って」


 詩織は黙って聞いた。

 悠馬が話した。

 父さんと二人で暮らしていた話。父さんは料理が苦手で、毎日コンビニかスーパーの弁当だった話。洗濯は自分でするようになっていた話。家に帰っても誰もいないことが多かった話。

 悪い思い出として話しているわけではなかった。ただ、淡々と、そういうことがあったと話していた。

「寂しかったですか」

 詩織が聞いた。

「当時は普通だと思っていました。比べるものがなかったので」

「今は?」

「今は」

 悠馬が少し止まった。

「比べるものができたので、あの頃は少し寂しかったんだな、とわかります」

 比べるもの、という言葉が、詩織の胸の中に落ちた。

「比べるもの、というのは」

「この家のことです」

 悠馬は言いながら、リビングを見渡した。

「ここに帰ると、明かりがついていて、誰かがいて、ごはんができていて。それが普通になってから、あの頃の普通が少し違って見えました」

 詩織はその言葉を、胸の中で受け取った。

 ゆっくり、受け取った。

 この家の明かりは、詩織がつけていた。

 誰かがいるのは、詩織がいた。

 ごはんを作っていたのは、詩織だった。

 悠馬にとって、それが「今の普通」になっていた。

 その事実が、今夜の詩織には静かに、でも確実に届いた。


 少しの間、沈黙があった。

 悪い沈黙ではなかった。

 詩織はその沈黙の中で、悠馬の横顔を見た。

 今夜の悠馬は、いつもより少しだけ表情が柔らかかった。何かを話した後の、少し軽くなったような顔だった。

 詩織は何か言おうとした。

 でも言葉が来なかった。

 言葉の代わりに、手が動いた。

 考えるより先に、動いた。

 詩織の右手が、テーブルの上に置いてあった悠馬の手の上に、そっと乗った。


 悠馬が固まった。

 詩織も固まった。

 手が、重なっていた。

 歩くときに繋ぐのとは違った。あれは指が絡む。今日は、詩織の手のひらが悠馬の手の甲の上に、ただ乗っていた。

 重さだけが、伝わっていた。

 温度だけが、伝わっていた。

 詩織は動けなかった。

 動けない、というのは、離す方向にも、もっと近づく方向にも、どちらにも動けなかった。

 悠馬も動かなかった。

 リビングが静かだった。

 窓の外が静かだった。

 二人の呼吸だけが、かすかにあった。


 どれくらい経ったか、わからなかった。

 十秒か。三十秒か。もっと長かったか。

 詩織が先に、手を引いた。

 そっと引いた。急ではなく、ゆっくり。

 膝の上に手を戻した。

 何も言わなかった。

 悠馬も何も言わなかった。

 詩織は前を向いた。窓の外を見た。

 夜の住宅街が、さっきと同じように静かだった。何も変わっていなかった。

 でも詩織の胸の中では、何かが少し動いていた。

 手が動いたのは、自分だった。

 考えていなかった。悠馬の話を聞いて、その言葉が届いて、手が動いた。

 それだけだった。

 それだけのことが、今夜は今までの全部の中で一番、詩織には重かった。


 悠馬は手の甲を見ていた。

 詩織の手が乗っていた場所を、見ていた。

 もう何も乗っていなかった。

 でも、温度がまだあった。

 詩織の手のひらの重さが、まだそこにあった気がした。

 何も言えなかった。

 何を言えばいいかが、わからなかった。

 「ありがとう」では違う。「どうしたんですか」では違う。

 何も言えないまま、詩織の横顔を見た。

 詩織は窓の外を見ていた。

 今夜の詩織の横顔が、今まで見た中で一番、何かを堪えているように見えた。

 堪えている、という言葉が来た。

 詩織が何かを堪えているとしたら、それは何か。

 その問いを持ったまま、答えを出せなかった。

 出せなかったのではなく、出した先にあるものが怖かった。


 二十一時を過ぎたころ、詩織が立ち上がった。

「お茶、入れますか」

 いつもの声で言った。

「いただきます」

 いつもの声で答えた。

 詩織が台所へ向かった。

 お湯を沸かす音がした。

 カップが置かれる音がした。

 お茶を注ぐ音がした。

 それらの音を聞きながら、俺はさっきの手の温度を持ったまま、ソファーに座っていた。

 詩織が戻ってきて、カップを置いた。

 隣に座った。

「ありがとうございます」

「いえ」

 二人でお茶を飲んだ。

 今夜もいつも通りだった。

 でも、今夜のいつも通りは、今まで一番密度が違った。

 言葉にしていないものが、今夜のリビングにはたくさんあった。

 言葉にしていないままで、二人でお茶を飲んだ。


 おやすみなさい、を言って、それぞれの部屋に入った。

 詩織の部屋では。

 詩織は布団に入って、右手を見た。

 手を乗せたときのことを思い出した。

 考えていなかった。

 でも、後悔していなかった。

 後悔していないことに、少しだけ驚いた。

 今まで詩織がやってきたことは、恥ずかしかった。布団に入ることも、お茶を持っていくことも、襟を直すことも。全部、やった後に赤くなって、廊下で座り込んで、一人で「何をやってるんだろう」と思っていた。

 でも今夜は違った。

 手を乗せた後、引いた後、前を向いた。赤くはなった。でも後悔しなかった。

 したかったから、した。

 それだけだった。

 好きだから、話を聞いていたら、手が動いた。

 その事実を、今夜は静かに受け取った。

 天井を見た。

 壁の向こうに悠馬がいた。

 今夜の悠馬の手の甲の温度を、詩織の右手がまだ覚えていた。


 悠馬の部屋では。

 俺は布団の中で、手の甲を天井に向けて見ていた。

 詩織の手が乗っていた場所。

 あの重さを、今もわかる気がした。

 詩織が、どういう気持ちで手を乗せたのか。

 今夜の俺には、少しだけわかる気がした。

 昨夜「好き」という言葉を受け取ってから、今夜の詩織の手の重さが何を意味するか、少しだけ届いた。

 届いた、というのは、受け取った、ということだ。

 詩織が何かを伝えようとしていた。言葉ではなく、手で。

 今まで全部、詩織は言葉ではなく行動で何かを伝えてきた。

 俺はその全部を、今まで「何かが違う」と感じながら、名前をつけないでいた。

 でも今夜は、少しだけ、名前がついた気がした。

 詩織が俺のことを、どう思っているか。

 その答えが、今夜の手の重さの中にあった気がした。

 気がした、だけかもしれない。

 でも、今夜の俺には、それが確かなものに感じられた。

 壁の向こうに、詩織がいた。

 好きな人が、そこにいた。

 自分が好きな人が、自分のことを、もしかしたら。

 その先を考えると、胸の中が今夜一番うるさくなった。

 うるさくて、眠れなかった。

 眠れなかったが、今夜は眠れないことが悪くなかった。


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