第十八話 親たちが来た夜に、見られた話
木曜日の夕方に、メッセージが来た。
父さんからだった。
「今週の土曜日、詩織ちゃんのお母さんと一緒に顔を見に行っていいか。夕ごはん食べながら」
俺は少しの間、スマートフォンを見た。
定期的にお食事会がある、とは同居を始めたときに言われていた。でも実際に来るのは今日の連絡が初めてだった。
返信を打つ前に、詩織に知らせるべきだと思って廊下に出た。
ちょうど詩織の部屋の扉が開いて、詩織が出てきた。鉢合わせた。
「お母さんから連絡が来て」
「父さんからも来ました」
二人が同時に言った。
少しの間、顔を見合わせた。
「土曜日、ですね」
「ですね」
「……準備します」
「手伝います」
それだけ話して、それぞれ部屋に戻った。
返信を打ちながら、俺は土曜日のことを考えた。
父さんが来る。詩織のお母さんも来る。
二人に、俺と詩織が一緒に暮らしているところを見られる。
その事実が、昨夜受け取った言葉と一緒になって、少しだけ複雑な重さを持った。
土曜日の午前中、詩織が台所に立った。
俺は手伝いを申し出た。今日は断られなかった。
「野菜を切ってもらえますか。大きさはこのくらいで」
詩織が手で大きさを示した。
「わかりました」
俺はまな板の前に立って、包丁を持った。
隣で詩織が別の料理を進めていた。
台所に二人でいるのはいつものことだった。でも今日は夕ごはんの支度を一緒にしていて、いつもより手数が多かった。動くたびに肩が近くなった。どちらかが移動するたびに、「すみません」「いえ」という短いやり取りがあった。
その繰り返しが、俺には悪くなかった。
昨夜受け取った言葉が、今日はちゃんとそこにあった。悪くない、と思うのも、その言葉の重さがあるからだと、今日の俺には少しわかった。
「悠馬さん、その人参、少し大きいです」
「これくらいですか」
「もう少し薄く」
「これで?」
「それで大丈夫です」
短いやり取りをして、手を動かした。
窓から午前中の光が入ってきて、台所が明るかった。
詩織の横顔が、今日は光の中にあった。
両親が来たのは、十七時過ぎだった。
インターホンが鳴って、俺が扉を開けた。
父さんが立っていた。隣に、詩織のお母さんがいた。
父さんは俺の顔を見て「元気そうだな」と言った。詩織のお母さん、末永さんは「悠馬くん、邪魔するね」と言った。穏やかな声だった。詩織の声と少し似ていた。
「どうぞ」
二人を中に招き入れた。
台所から詩織が出てきた。「お母さん」と言って、末永さんが「詩織」と言った。二人が短く会話した。父さんが「詩織ちゃん、いつもありがとうね」と言って、詩織が「いいえ」と答えた。
四人でリビングに移動した。
夕ごはんの支度が整うまで、リビングで話した。
父さんが「仕事が落ち着いてきた」と言った。末永さんが「この前行ったレストランがよかった」と言った。他愛のない話だった。俺は相槌を打ちながら、詩織が台所に戻っているのが気配でわかった。
「悠馬、学校はどうだ」
「普通にやってます」
「友達はいるか」
「います」
「そうか」
父さんとの会話は、昔からこういう感じだった。短くて、でも嫌ではない。
末永さんが「詩織、手伝おうか」と台所に声をかけた。詩織が「大丈夫です」と返した。末永さんが少し笑って「そっか」と言った。
「詩織、昔から台所に入らせてくれないのよ」
末永さんが言った。
「そうなんですか」
「自分でやりたい子だから。でも最近、悠馬くんには手伝わせてるって聞いたわよ」
「ああ、まあ」
「詩織には珍しいわね」
末永さんは何でもない顔で言ったが、その言葉が俺の中に少し残った。
珍しい、と言った。
詩織が人に台所を手伝わせるのが珍しい、と。
夕ごはんは、詩織が作ったものが並んだ。
煮物と、焼き魚と、サラダと、味噌汁と、ご飯。品数が多かった。いつもより手が込んでいた。
「詩織、これ全部作ったの?」
末永さんが言った。
「はい」
「すごい。悠馬くんはいつもこれを食べてるの?」
「まあ」
父さんが「贅沢だな」と言った。
「ほんとうにそうですね」
俺が答えたら、詩織が一瞬だけこちらを見た。目が合った瞬間、詩織の耳が赤くなった。俺も少し顔が熱くなった。
父さんと末永さんが、そのやり取りを見ていた。
二人とも、特に何も言わなかった。
ただ、父さんが末永さんに視線を向けて、末永さんが父さんの方を見て、二人の間で何かが通り過ぎた。
その視線が、俺の目の端に入った。
食事が進んで、会話が続いた。
学校の話、近況の話、家の話。
途中で、俺が味噌汁のお椀に手を伸ばしたとき、同時に詩織もお椀に手を伸ばした。
理由はわからなかった。俺のお椀が空になっているのに、詩織が気づいて動いたのかもしれなかった。タイミングが重なった。
二人の手が、お椀の上でほぼ同時に止まった。
「あ」
「すみません」
「いえ、俺が取ります」
「注いできます」
「大丈夫です」
「取ってきます」
詩織がお椀を持って台所に行った。
リビングが少し静かになった。
父さんが箸を置いて、静かに言った。
「悠馬」
「はい」
「仲良くやれてるか」
「……まあ」
「そうか」
それだけだった。
でも父さんの声のトーンが、「仲良くやれてるか」という言葉の意味より少し広いところを指していた気がした。
末永さんがお茶を飲みながら言った。
「詩織ね、小さい頃から何でも一人でやる子で。頼むのが下手で、頼まれるのも上手じゃなかったの」
「そうなんですか」
「でも悠馬くんのお椀に気づいてたのよ、さっき。食べながら、ちゃんと見てた」
俺は末永さんを見た。
「詩織がそういうことをするのは、珍しいの。誰かをそういう風に見ていることが」
末永さんはそれだけ言って、また箸を取った。
詩織が台所から戻ってきた。お椀を俺の前に置いた。
「ありがとうございます」
言ったら、詩織は「いいえ」と言って席に戻った。
末永さんが詩織を見て、また少し笑った。何も言わなかった。
食事が終わって、片づけをした。
俺と詩織が片づけて、父さんと末永さんがリビングで話していた。
台所で、詩織が洗い物をしながら小声で言った。
「お母さん、何か言ってましたか」
「少し」
「何を」
俺は少し考えた。
「詩織さんが誰かをそういう風に見るのは珍しいって」
詩織の手が、一瞬止まった。
「……そんなことを」
「はい」
「余計なことを」
小声で言って、また手を動かした。
俺は布巾で皿を拭きながら、今の詩織の耳が赤いのを視界の端で見た。
余計なことを、と言ったが、否定はしなかった。
皿を受け取るたびに、今日は短い間があった。渡すときの指が、今日は少しだけ重なる時間が長かった。
二人ともそれに触れなかった。
両親が帰ったのは二十時過ぎだった。
玄関で見送って、扉が閉まった。
リビングに戻ると、静かになっていた。
さっきまで四人分の声があったところに、二人分の静けさが残っていた。
詩織がソファーに座った。俺も椅子に座った。
しばらく何も言わなかった。
「お疲れ様でした」
詩織が言った。
「詩織さんこそ。全部作ってもらって」
「いつものことなので」
「でも今日は品数が多かった」
「……少し、張り切りました」
詩織はそう言って、ソファーの肘掛けの方を見た。
俺は詩織を見た。
「今日のごはん、おいしかったです。いつも以上に」
「ありがとうございます」
「父さんも、末永さんも、喜んでました」
「そうですか」
詩織はまだ肘掛けの方を見たままだった。
「末永さん、詩織さんのこと、よく見てますね」
「……昔からそうです。多くは言わないけど、見てます」
「今日も、何か見てた気がしました」
詩織が俺の方を向いた。
「何を、ですか」
「俺たちを」
詩織は少しの間、俺を見た。
それから視線を外して、「そうですね」と言った。
「見られましたね」
「はい」
「外から見ると、私たちはどう見えるんでしょう」
俺は少し考えた。
「わかりませんが」
「はい」
「悪くない見え方だったと思います」
詩織はそれを聞いて、また俺の方を見た。
目が合った。
今日の詩織の目に、今夜も例の名前のつかない何かがあった。
でも今夜の俺には、少しだけ、その名前がわかってきていた。
夜、布団に入って天井を見た。
今夜の食卓の光景を、順番に思い返した。
父さんと末永さんが来て、詩織が作ったものを四人で食べた。
お椀のタイミングが重なったとき、父さんと末永さんが視線を交わした。
末永さんが「詩織がそういう風に見るのは珍しい」と言った。
詩織が「余計なことを」と言って、否定しなかった。
悪くない見え方だったと思います、と俺が言ったら、詩織が俺の方を見た。
全部を並べて、見た。
外から見た俺たちが、今夜少しだけわかった気がした。
外から見ると、俺たちは「二人でここにいることが自然になっている」ように見えるらしかった。
自然になっている、というのは、本当だった。
詩織がいることが、この家の普通になっていた。
朝ごはんがあって、手を繋いで歩いて、屋上で弁当を食べて、夕ごはんを一緒に食べて、片づけをして、おやすみを言う。
全部が普通になっていた。
普通になっているのに、毎日胸がうるさい。
普通なのに、好きだと思っている。
両方が、今夜の俺の中にあった。




