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好きな人が義理の姉になった日から、距離感がバグり続けて毎日心臓が持ちません。  作者: あ


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17/22

第十七話 俺が、ずっと知らないふりをしていた話

 朝、詩織が布団に来た。

 今日の俺は、目を閉じたままだった。

 意識はあった。完全に起きていた。でも、目を開けなかった。

 廊下の足音が近づいてきた。扉がノックされた。「悠馬さん」と声がした。扉が開く音がした。足音が近づいてきた。布団が持ち上がって、詩織が入ってきた。

 その全部を、今日は目を閉じたまま感じた。

 気配の近さが、わかった。息の音が、わかった。

「おはよう」

 詩織の声がした。

 俺は目を開けた。

 目が合った。

 今日の詩織の目は、昨日と同じ目だった。昨日の夜、扉越しに「おやすみなさい」を言ったときと同じ、名前のつかない何かが入っている目だった。

 俺はその目を、今日は四秒見た。

 今まで二秒だったのが、いつの間にか四秒になっていた。

 詩織が先に逸らして、布団から出た。

「朝ごはん、できています」

 扉が閉まった。

 俺は天井を見た。

 昨夜から、何かが頭の中にあった。

 ひよりに「動揺してます。でも、それだけじゃないです」と送ってから、それがずっとあった。

 それだけじゃない、というのは何か。

 天井を見ながら、その問いを持ったまま、起き上がった。


 朝ごはんを食べながら、俺は詩織を見ていた。

 見ていた、というのは、じろじろ見ていたわけではない。視界の端で、見ていた。

 詩織が味噌汁をよそうときの動き。

 箸の持ち方。

 食べながら時々、窓の外を見るときの横顔。

 全部、毎日見ていることだった。

 でも今日は、それらを見ながら、一つのことに気づいた。

 俺は、これを楽しみにしている。

 朝ごはんを食べる時間を。詩織が台所に立っている音を。向かいに座って、短い会話をして、お互いにいただきますを言う、この時間を。

 楽しみにしている、という言葉が浮かんで、俺は箸を持ったまま少し止まった。

 楽しみにしている、とは思っていなかった。でも、考えてみると、そうだった。

 朝ごはんが終わるたびに、次の朝ごはんが来ることを、どこかで待っていた。

 その事実が、今朝初めて言語化された。

「悠馬さん、どうかしましたか」

 詩織に言われた。

「いえ、なんでも」

 箸を動かした。

 なんでも、は嘘だったが、言葉がまだなかった。


 登校中、手を繋いで歩きながら、俺は今日初めて、自分が「待っていた」という事実に気づいた。

 昇降口を出てから、詩織の手が来るまでの数秒間。

 俺は、待っていた。

 毎日。

 手が来るまでの数秒を、無意識に待っていた。

 来た瞬間に心臓が動く。それはずっとそうだった。でも今日初めて気づいたのは、来る前から、どこかで待っていたということだった。

 待っていたから、来たときに嬉しかった。

 嬉しい、という言葉を、俺は今日初めて使った。

 繋いだ手の温度が、今日はいつもより少しだけ、ちゃんと届いた気がした。


 午前中の授業は、上の空だった。

 先生の声が聞こえていたが、内容が入らなかった。

 頭の中に、朝からの言葉たちが並んでいた。

 楽しみにしている。

 待っていた。

 嬉しかった。

 それから、昨夜の「でも、それだけじゃないです」。

 並べて見ると、何かが見えてくる気がした。

 でも、まだ正面から見ていなかった。

 見ようとして、何かが邪魔をしていた。

 邪魔をしているのが何かは、何となくわかっていた。

 知ったら、変わるからだ。

 知ったら、今まで通りではいられなくなるかもしれないから、知らないふりをしていた。

 知らないふりを、俺はずっとしていた。


 昼休み、屋上に行った。

 詩織がすでにいた。

 いつもの場所に座って、空を見ていた。

 俺が来たことに気づいて、こちらを向いた。

 その顔を見た瞬間、俺の中で何かが動いた。

 動いた、というのは、今まで感じたことのある動き方ではなかった。心臓が跳ねるとか、顔が熱くなるとかとも違った。

 もっと静かな動き方だった。

 詩織がそこにいる、ということが、今日は今までと違う重さで届いた。

「来ましたね」

 詩織が言った。

「はい」

 俺は隣に座った。

 弁当箱を開いた。

 今日の弁当の中身を見た。卵焼きと、鮭と、ご飯。

 詩織が今朝作ったものだった。

 毎日、作ってくれていた。

 俺は卵焼きを箸でつまんで、口に入れた。

 甘かった。いつもの甘さだった。

 この甘さを、毎朝食べていた。

 この甘さが好きだと、いつから思っていたんだろう、と今日初めて考えた。

 いつから、かはわからなかった。

 でも、好きだった。

 卵焼きが、好きだった。

 その「好き」が、今日は少しだけ広い意味を持って届いた。


 放課後、いつもの帰宅部仲間に声をかけられた。

「佐伯、最近一ノ瀬さんと一緒にいること多くない?」

「まあ、同居してるので」

「仲いいじゃん。どんな感じなの、一緒に住んでると」

 俺は少し考えた。

「……普通に、暮らしてます」

「普通に、ね」

 友人が少し笑った。

「それ、本当に普通に、って思って言ってる?」

 俺は答えなかった。

 友人は「まあいいけど」と言って、別の話を始めた。

 俺はその「本当に普通に、って思って言ってる?」という問いを、廊下を歩きながら持ち続けた。

 普通に暮らしている、と思っていた。

 でも、普通の暮らしを、毎日楽しみにしているのか。

 普通の暮らしの中の手の温度を、毎日待っているのか。

 普通の暮らしの弁当の甘さが、好きなのか。


 夜、詩織と夕ごはんを食べて、片づけをして、それぞれ自分の部屋に入った。

 俺は机の前に座った。

 参考書を開いた。

 開いたが、今日は最初から閉じた。

 布団に横になった。

 天井を見た。

 今日一日で積み上がったものを、順番に並べた。

 朝、詩織が布団に来て、目が合った。

 朝ごはんの時間を、楽しみにしていることに気づいた。

 手が来るまでの数秒を、待っていることに気づいた。

 繋いだ手が来たとき、嬉しかったことに気づいた。

 昼、詩織の顔を見て、今まで違う重さで届いた。

 卵焼きの「好き」が、広い意味を持って届いた。

 「本当に普通に、って思って言ってる?」と聞かれた。

 全部を並べて、見た。

 見ながら、今日初めて、正面から向き合おうとした。

 ずっと、知らないふりをしていた。

 邪魔をしているものが何かは、今日の昼頃からわかっていた。

 知ったら変わるから、知らないふりをしていた。

 でも、今日一日で積み上がったものを並べてみると、すでに変わっていることがわかった。

 知る前から、変わっていた。

 楽しみにしていた。待っていた。嬉しかった。届いた。

 全部すでに起きていた。

 名前を知っていないだけで、中身はもうそこにあった。

 俺は天井を見たまま、目を閉じた。

 暗闇の中で、詩織の顔を思い出した。

 毎朝布団の中で目が合うときの顔。

 屋上で空を見ているときの横顔。

 傘の下で少し肩が近くなったときに前を見ていた横顔。

 夕ごはんを作っているときの、台所での背中。

 昨夜、扉越しに聞いた「おやすみなさい」の声。

 今朝、目が合ったときの、名前のつかない何かが入っていた目。

 全部、思い出した。

 思い出しながら、胸の中が、じんわりと温かくなった。

 この温かさに、名前がある。

 ずっと知っていた。知らないふりをしていた。

 でも今夜は、もう、知らないふりができなかった。

 好き。

 声には出なかった。

 文字にもしなかった。

 でも頭の中で、はっきりと、その言葉が形を持った。

 部屋が静かだった。

 壁の向こうに、詩織がいた。

 好きな人が、壁一枚の向こうにいた。

 その事実が、今夜初めて、その言葉と一緒に届いた。


 どれくらい天井を見ていたか、わからなかった。

 気づいたら、外が静かになっていた。

 深夜だった。

 俺は布団の中で、今夜受け取った言葉を持ったまま、目を閉じていた。

 受け取ってから、怖いかと思ったら、怖くなかった。

 ただ、重かった。

 どこへも持っていけない重さが、胸の中にあった。

 でも、その重さは温かかった。

 詩織が第九話の夜に感じたであろうものと、たぶん同じものを、俺は今夜初めて感じていた。

 ずいぶん遅かった、と思った。

 詩織の方が、ずっと先に知っていたのだろうと思った。

 遅かったが、今夜ちゃんと受け取った。

 それでよかった、と思った。

 壁の向こうが、静かだった。

 詩織がそこにいた。

 好きな人が、そこにいた。

 俺は目を閉じたまま、その事実を持って、静かに夜の中にいた。

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