第十七話 俺が、ずっと知らないふりをしていた話
朝、詩織が布団に来た。
今日の俺は、目を閉じたままだった。
意識はあった。完全に起きていた。でも、目を開けなかった。
廊下の足音が近づいてきた。扉がノックされた。「悠馬さん」と声がした。扉が開く音がした。足音が近づいてきた。布団が持ち上がって、詩織が入ってきた。
その全部を、今日は目を閉じたまま感じた。
気配の近さが、わかった。息の音が、わかった。
「おはよう」
詩織の声がした。
俺は目を開けた。
目が合った。
今日の詩織の目は、昨日と同じ目だった。昨日の夜、扉越しに「おやすみなさい」を言ったときと同じ、名前のつかない何かが入っている目だった。
俺はその目を、今日は四秒見た。
今まで二秒だったのが、いつの間にか四秒になっていた。
詩織が先に逸らして、布団から出た。
「朝ごはん、できています」
扉が閉まった。
俺は天井を見た。
昨夜から、何かが頭の中にあった。
ひよりに「動揺してます。でも、それだけじゃないです」と送ってから、それがずっとあった。
それだけじゃない、というのは何か。
天井を見ながら、その問いを持ったまま、起き上がった。
朝ごはんを食べながら、俺は詩織を見ていた。
見ていた、というのは、じろじろ見ていたわけではない。視界の端で、見ていた。
詩織が味噌汁をよそうときの動き。
箸の持ち方。
食べながら時々、窓の外を見るときの横顔。
全部、毎日見ていることだった。
でも今日は、それらを見ながら、一つのことに気づいた。
俺は、これを楽しみにしている。
朝ごはんを食べる時間を。詩織が台所に立っている音を。向かいに座って、短い会話をして、お互いにいただきますを言う、この時間を。
楽しみにしている、という言葉が浮かんで、俺は箸を持ったまま少し止まった。
楽しみにしている、とは思っていなかった。でも、考えてみると、そうだった。
朝ごはんが終わるたびに、次の朝ごはんが来ることを、どこかで待っていた。
その事実が、今朝初めて言語化された。
「悠馬さん、どうかしましたか」
詩織に言われた。
「いえ、なんでも」
箸を動かした。
なんでも、は嘘だったが、言葉がまだなかった。
登校中、手を繋いで歩きながら、俺は今日初めて、自分が「待っていた」という事実に気づいた。
昇降口を出てから、詩織の手が来るまでの数秒間。
俺は、待っていた。
毎日。
手が来るまでの数秒を、無意識に待っていた。
来た瞬間に心臓が動く。それはずっとそうだった。でも今日初めて気づいたのは、来る前から、どこかで待っていたということだった。
待っていたから、来たときに嬉しかった。
嬉しい、という言葉を、俺は今日初めて使った。
繋いだ手の温度が、今日はいつもより少しだけ、ちゃんと届いた気がした。
午前中の授業は、上の空だった。
先生の声が聞こえていたが、内容が入らなかった。
頭の中に、朝からの言葉たちが並んでいた。
楽しみにしている。
待っていた。
嬉しかった。
それから、昨夜の「でも、それだけじゃないです」。
並べて見ると、何かが見えてくる気がした。
でも、まだ正面から見ていなかった。
見ようとして、何かが邪魔をしていた。
邪魔をしているのが何かは、何となくわかっていた。
知ったら、変わるからだ。
知ったら、今まで通りではいられなくなるかもしれないから、知らないふりをしていた。
知らないふりを、俺はずっとしていた。
昼休み、屋上に行った。
詩織がすでにいた。
いつもの場所に座って、空を見ていた。
俺が来たことに気づいて、こちらを向いた。
その顔を見た瞬間、俺の中で何かが動いた。
動いた、というのは、今まで感じたことのある動き方ではなかった。心臓が跳ねるとか、顔が熱くなるとかとも違った。
もっと静かな動き方だった。
詩織がそこにいる、ということが、今日は今までと違う重さで届いた。
「来ましたね」
詩織が言った。
「はい」
俺は隣に座った。
弁当箱を開いた。
今日の弁当の中身を見た。卵焼きと、鮭と、ご飯。
詩織が今朝作ったものだった。
毎日、作ってくれていた。
俺は卵焼きを箸でつまんで、口に入れた。
甘かった。いつもの甘さだった。
この甘さを、毎朝食べていた。
この甘さが好きだと、いつから思っていたんだろう、と今日初めて考えた。
いつから、かはわからなかった。
でも、好きだった。
卵焼きが、好きだった。
その「好き」が、今日は少しだけ広い意味を持って届いた。
放課後、いつもの帰宅部仲間に声をかけられた。
「佐伯、最近一ノ瀬さんと一緒にいること多くない?」
「まあ、同居してるので」
「仲いいじゃん。どんな感じなの、一緒に住んでると」
俺は少し考えた。
「……普通に、暮らしてます」
「普通に、ね」
友人が少し笑った。
「それ、本当に普通に、って思って言ってる?」
俺は答えなかった。
友人は「まあいいけど」と言って、別の話を始めた。
俺はその「本当に普通に、って思って言ってる?」という問いを、廊下を歩きながら持ち続けた。
普通に暮らしている、と思っていた。
でも、普通の暮らしを、毎日楽しみにしているのか。
普通の暮らしの中の手の温度を、毎日待っているのか。
普通の暮らしの弁当の甘さが、好きなのか。
夜、詩織と夕ごはんを食べて、片づけをして、それぞれ自分の部屋に入った。
俺は机の前に座った。
参考書を開いた。
開いたが、今日は最初から閉じた。
布団に横になった。
天井を見た。
今日一日で積み上がったものを、順番に並べた。
朝、詩織が布団に来て、目が合った。
朝ごはんの時間を、楽しみにしていることに気づいた。
手が来るまでの数秒を、待っていることに気づいた。
繋いだ手が来たとき、嬉しかったことに気づいた。
昼、詩織の顔を見て、今まで違う重さで届いた。
卵焼きの「好き」が、広い意味を持って届いた。
「本当に普通に、って思って言ってる?」と聞かれた。
全部を並べて、見た。
見ながら、今日初めて、正面から向き合おうとした。
ずっと、知らないふりをしていた。
邪魔をしているものが何かは、今日の昼頃からわかっていた。
知ったら変わるから、知らないふりをしていた。
でも、今日一日で積み上がったものを並べてみると、すでに変わっていることがわかった。
知る前から、変わっていた。
楽しみにしていた。待っていた。嬉しかった。届いた。
全部すでに起きていた。
名前を知っていないだけで、中身はもうそこにあった。
俺は天井を見たまま、目を閉じた。
暗闇の中で、詩織の顔を思い出した。
毎朝布団の中で目が合うときの顔。
屋上で空を見ているときの横顔。
傘の下で少し肩が近くなったときに前を見ていた横顔。
夕ごはんを作っているときの、台所での背中。
昨夜、扉越しに聞いた「おやすみなさい」の声。
今朝、目が合ったときの、名前のつかない何かが入っていた目。
全部、思い出した。
思い出しながら、胸の中が、じんわりと温かくなった。
この温かさに、名前がある。
ずっと知っていた。知らないふりをしていた。
でも今夜は、もう、知らないふりができなかった。
好き。
声には出なかった。
文字にもしなかった。
でも頭の中で、はっきりと、その言葉が形を持った。
部屋が静かだった。
壁の向こうに、詩織がいた。
好きな人が、壁一枚の向こうにいた。
その事実が、今夜初めて、その言葉と一緒に届いた。
どれくらい天井を見ていたか、わからなかった。
気づいたら、外が静かになっていた。
深夜だった。
俺は布団の中で、今夜受け取った言葉を持ったまま、目を閉じていた。
受け取ってから、怖いかと思ったら、怖くなかった。
ただ、重かった。
どこへも持っていけない重さが、胸の中にあった。
でも、その重さは温かかった。
詩織が第九話の夜に感じたであろうものと、たぶん同じものを、俺は今夜初めて感じていた。
ずいぶん遅かった、と思った。
詩織の方が、ずっと先に知っていたのだろうと思った。
遅かったが、今夜ちゃんと受け取った。
それでよかった、と思った。
壁の向こうが、静かだった。
詩織がそこにいた。
好きな人が、そこにいた。
俺は目を閉じたまま、その事実を持って、静かに夜の中にいた。




