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好きな人が義理の姉になった日から、距離感がバグり続けて毎日心臓が持ちません。  作者: あ


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第十六話 扉の、もう一枚向こうへ

 夜、悠馬が「風呂に入ります」と言って洗面所の方へ歩いていった。

 詩織はリビングで本を読んでいた。

 本のページを一枚めくって、また一枚めくって、それから気づいたら同じページを三回読んでいた。

 頭に入らなかった。

 活字を目で追いながら、頭の中では別のことを考えていた。

 今朝のことを考えていた。

 布団の中で、今まで一番近い距離から「おきて」と言ったこと。「悠馬」と名前だけ呼んだこと。五秒、目が合ったこと。

 昨日のことなのに、今も胸の中に生々しかった。

 詩織は本を閉じた。

 閉じてから、ぼんやりとリビングの天井を見た。

 廊下の向こうから、シャワーの音が聞こえてきた。

 水の音が、一定のリズムで続いていた。


 三十分が経った。

 シャワーの音が止んで、しばらく静かになって、また別の音がした。湯船に水が溜まっていく音だった。

 詩織は台所でお茶を入れながら、その音を聞いていた。

 昨日の夜、深夜にお茶を入れて悠馬の部屋まで持っていったことを思い出した。

 あれも自分でやったことだった。

 今日も、何か自分でやれることがあるだろうか。

 そう思いながら、でも何もしなかった。

 お茶を一人分だけ入れて、リビングに戻った。


 四十五分が経った。

 まだ出てこなかった。

 詩織はソファーに座ったまま、スマートフォンを見ていた。見ていたが、画面の内容は頭に入っていなかった。

 五十分。

 気になり始めた。

 五十分は長い、と詩織は思った。自分が入るときは大体二十分から三十分で出る。五十分は、何かあったのかもしれなかった。

 考えすぎかもしれない。

 でも、気になった。

 詩織はソファーから立ち上がった。

 廊下を歩いた。

 洗面所の扉の前まで来た。

 ここまでは、第六話の夜と同じだった。

 ただ、今夜は違うことがひとつあった。

 ノックしても、返事がなかった。

 扉越しに「悠馬さん」と呼んだ。

 聞こえなかったのか、返事が来なかった。

 詩織は扉の前に立って、少しの間考えた。

 大丈夫かもしれない。シャワーか何かの音で聞こえなかっただけかもしれない。

 でも。

 もう一度ノックした。

 やはり返事がなかった。

 詩織の手が、洗面所の扉のノブにかかった。


 考えたのは、一秒もなかった。

 心配だったから、開けた。

 それだけだった。

 洗面所の外扉を開けて、脱衣所に入った。

 脱衣所には、悠馬の脱いだ服が畳まれて置いてあった。

 その向こうに、浴室への扉があった。

 湯の音がした。

 中にいる、とわかった。

 詩織はその瞬間、自分が脱衣所に入ってしまったことに気づいた。

 気づいたが、遅かった。

 すでに入っていた。


 浴室の扉の向こうから、音が止んだ。

 気配を感じたのかもしれなかった。

「……誰かいますか」

 悠馬の声がした。

 扉越しの声だった。少し固かった。

 詩織は答えた。

「詩織です」

 数秒間、何も聞こえなかった。

「……なぜ」

「返事がなかったので、心配して」

 また数秒あった。

「大丈夫です。湯に浸かってたので気づかなかっただけで」

「そうですか」

「……詩織さん、今」

「脱衣所にいます」

「…………」

 悠馬が何も言わなかった。

 詩織も何も言わなかった。

 浴室の扉一枚を挟んで、二人がそこにいた。

 詩織は脱衣所の中で、自分が今どこにいるかを改めて理解した。

 悠馬が入浴している浴室の、扉一枚向こうにいる。

 その事実が、今さらになって全身に降りてきた。

 耳が熱くなった。顔が熱くなった。

「あの」

 詩織が言った。

「はい」

「お背中、流しましょうか」

 言ってから、詩織は自分の口を手で覆いたくなった。

 覆わなかった。覆う手が動かなかった。

「……だ、大丈夫です」

 悠馬の声が、今日は第六話の夜より少しだけ固かった。かすれていた。

「そうですか」

「大丈夫です」

「……わかりました。お邪魔しました」

 詩織は洗面所の外扉を閉めた。

 廊下に出た。


 廊下の床が、冷たかった。

 詩織はその場にしゃがみ込んだ。壁に背中を預けて、両膝を胸の前に抱えた。

 両手で顔を覆った。

 手のひらが熱かった。

 何をやってるんだろう、と思った。

 でも今日の「何をやってるんだろう」は、以前とは少し違った。

 以前は、「こんなことをしてしまった、どうしよう」という後悔に近い感覚だった。

 今日は違った。

 今日は、「私はこんなことをする人間になったんだな」という、静かな確認に近かった。

 好きだから、心配した。心配したから、扉を開けた。開けてから、声をかけた。声をかけたら、あの言葉が出た。

 全部が、自分の中から来ていた。

 ひよりの言葉は、今日は一切なかった。

 脱衣所に一人で入って、浴室の扉越しに「お背中流しましょうか」と言ったのは、全部、詩織自身だった。

 詩織は膝に顔を埋めた。

 暗くなった視界の中で、悠馬の「だ、大丈夫です」という声を思い返した。

 一音目が重なっていた。

 声がかすれていた。

 あの声が、今も耳の中に残っていた。

 廊下が静かだった。

 浴室の方から、また湯の音がした。

 詩織はその音を聞きながら、しばらく廊下に座っていた。


 浴室の中で、俺は湯船に沈んだまま動けなかった。

 「大丈夫です」と言ってから、詩織が出ていく音がして、廊下が静かになって。

 それからもう五分くらい経つのに、まだ動けなかった。

 詩織が脱衣所にいた。

 扉一枚向こうに、詩織がいた。

 「お背中流しましょうか」という声が、扉越しに来た。

 今日の声は、第六話の夜と違った。

 あの夜の声は、どこかぎこちなかった。緊張がある声だった。

 今日の声は、違った。

 低くて、落ち着いていた。でも、落ち着いているのとも少し違った。

 なんというか。

 覚悟がある声だった。

 覚悟がある、という言葉が、今頭の中で出てきた。

 詩織が、何かを決めてここに来た気がした。

 心配、というのは本当だと思う。返事がなかったから来た、というのも本当だと思う。

 でも、それだけではない気がした。

 それだけではない、という感覚だけがあって、でもそれが何なのかを、俺はまだ言葉にできなかった。

 湯が冷めてきた。

 俺は立ち上がって、シャワーを浴びた。

 いつもより少しだけ、水を冷たくした。


 風呂から上がって、廊下に出た。

 詩織の部屋に明かりがついていた。

 リビングを通ると、詩織のお茶のカップが置いてあった。まだ少し温かそうだった。

 俺はそのカップを見た。

 詩織がここに座って、お茶を飲みながら、俺が風呂から上がるのを待っていたのだと思った。

 五十分近く入っていたのは、俺の落ち度だった。心配させた。

 自分の部屋に向かいながら、詩織の部屋の前を通った。

「詩織さん」

 扉越しに声をかけた。

 少しの間があって、扉が開いた。

 詩織が顔を出した。

 今日の詩織の顔が、廊下の灯りの中でも赤かった。

「今日は心配かけました。すみません」

「……いいえ」

「長く入りすぎました」

「大丈夫でしたか」

「大丈夫でした。ただ、ぼんやりしていたので、気配に気づくのが遅れて」

「そうですか」

 詩織はそれだけ言った。

 目が合った。

 今日の詩織の目に、今まで見たことのない何かがあった。

 名前のつかない何かが、はっきりと、目の中にあった。

 俺はその目を、三秒見た。

 三秒後、詩織の方が先に逸らした。

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 扉が閉まった。


 自分の部屋に入って、扉を閉めた。

 机の前に座ったが、何もする気になれなかった。

 今日の詩織の目を、思い返した。

 名前のつかない何か、と思った。

 でも、本当に名前がつかないのかと考えたら、わからなかった。

 名前が来かけていた。

 来かけているのに、受け取るのが怖かった。

 受け取ったら、自分の中の何かが変わる気がした。

 変わることが、怖かった。

 でも今夜初めて、怖いとわかりながら、受け取ってみようかと思った。

 思って、まだ受け取れなかった。

 でも、今夜初めて、そう思った。


 夜中に、ひよりからメッセージが来た。

「詩織が何かやらかしたって言ってた。ゆーくん大丈夫?」

 俺はしばらく画面を見た。

 詩織が、ひよりにもう話したのか、と思った。

「大丈夫です」

 送った。

「そっか。詩織、かなり動揺してたよ」

「……そうでしたか」

「ゆーくんは?」

 俺はその問いを受け取った。

 動揺しているか、と聞かれたら、していた。

 でも、それだけじゃなかった。

「動揺してます」

 と、打った。

「でも、それだけじゃないです」

 送ってから、自分でも何を言っているかよくわからなかった。

 ひよりからしばらく返信がなかった。

 一分後に来た返信は、一言だった。

「うん、知ってる」

 それだけだった。

 俺はスマートフォンを置いて、天井を見た。

 ひよりが「知ってる」と言った。

 何を知っているのか、聞かなかった。

 聞けなかったのではなく、聞かなかった。

 聞いたら、自分も知ることになる気がしたから。

 まだ、もう少しだけ、知らないままでいたかった。

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