第十五話 気持ちが、溢れそうな朝に
夜中の十二時を過ぎても、詩織は眠れなかった。
布団に入って、目を閉じて、でも眠りが来なかった。
おかしくはなかった。眠れない理由が、ちゃんとあった。
胸の中が、満ちていた。
満ちている、というのが一番近い言葉だった。何かが溢れそうで、でも溢れきらないまま、胸の中に留まっていた。今日一日で起きたことがそうさせているのか、それとも今日だけではなくこの数週間の全部が積み重なってそうなっているのか、詩織にはわからなかった。
ただ、満ちていた。
壁の向こうが静かだった。
悠馬はもう眠っているだろう。明日の朝、詩織が行ったら、また目を開ける。目が合う。
そのことを考えたら、胸の中のものが少しだけ動いた。
好きだ、と思った。
今夜は声が出そうになった。出なかった。でも、出そうになった。それくらい、今夜は胸の中が満ちていた。
詩織は布団の中で寝返りを打った。
壁の方を向いた。
目を閉じた。
眠れなかった。
でも、不思議と、つらくはなかった。満ちているのが、苦しくなかった。温かかった。
気持ちが溢れそうなくらい温かいまま、詩織は夜の中にいた。
目が覚めたのは、五時五十分だった。
いつもより四十分早かった。
でも、もう眠れない気がした。
起き上がって、顔を洗った。
台所に立った。
いつもより早く、朝ごはんの支度を始めた。米をといで、出汁を取って、野菜を切った。手を動かしながら、昨夜眠れなかった理由を考えた。
正確には、眠れなかった理由はわかっていた。考えたのではなく、確認した。
好きだから、眠れなかった。
それだけだった。
それだけのことが、昨夜の詩織には眠れないくらい大きかった。
切った野菜を鍋に入れながら、詩織はふと気づいた。
口元が、笑っていた。
笑おうとしたわけではなかった。ただ、笑っていた。
自分で気づいてから、少しだけ恥ずかしかった。台所に一人しかいないのに、恥ずかしかった。
でも、笑いは消えなかった。
六時半が近づいて、詩織は廊下に出た。
今日はいつもより早く支度が全部終わっていたので、時間があった。
悠馬の部屋の前まで来た。
扉の前に立って、今日は昨日と違うことに気づいた。
昨日は、ここに来るまでに一度深呼吸が必要だった。今日は、必要なかった。
ただ、来た。
来たかったから、来た。
それだけだった。
ノックした。
三回。いつもより、少しだけゆっくりした音で。
「悠馬さん」
扉越しに呼んだ。
返事がなかった。
扉を開けた。
部屋の中に入った。
布団のそばまで来た。
悠馬は眠っていた。顔だけが外に出ていた。今日は少し、布団が口の近くまで上がっていた。
詩織は膝をついた。
布団を持ち上げた。
入った。
入って、今日はいつもより、近かった。
昨日より近かった。
先週より近かった。
同居してから一番近いかもしれなかった。
悠馬の呼吸が、今日ははっきり聞こえた。規則正しく、穏やかな呼吸だった。
詩織は少しの間、その呼吸を聞いていた。
聞きながら、胸の中の満ちているものが、また少し動いた。
「……おきて」
声が出た。
いつもより低い声が出た。
意図していなかった。でも、出た声がそういう声だった。
悠馬が少し動いた。眠りの浅いところに来たような動きだった。
詩織は少しだけ近づいた。
「悠馬」
今日は、さん、をつけなかった。
名前だけ呼んだ。
悠馬の眉が、かすかに動いた。
詩織は自分が今どんな顔をしているか、わからなかった。確認する方法がなかった。
ただ、今日の自分が今まで一番近いところにいる、ということだけはわかった。
距離が、近かった。
気持ちが、近かった。
どちらも、今日が今まで一番だった。
「おはよう」
最後に、そう言った。
悠馬の目が開いた。
目が合った。
今日の詩織の目は、今まで見たことがない目だった。
悠馬が気づいた。気づいた顔が、今日はいつもより何秒か固まった。
詩織も、今日はなかなか目が逸れなかった。
五秒。
今まで一番長かった。
五秒後に、詩織の方が先に逸らした。
布団から出た。
立ち上がった。スカートの裾を整えた。
「朝ごはん、できています」
言った。
声が、今日は少しかすれていた。
扉を閉めた。
廊下に出てから、詩織は壁に背中を預けた。
ずるずると、座り込んだ。
両手で顔を覆った。
手のひらが熱かった。顔が熱かった。耳が熱かった。
「おきて」と言ったとき、自分の声が低かった。
「悠馬」と名前だけ呼んだ。
目が合って、五秒いた。
全部、自分でやった。
ひよりに言われていない。理由もない。言い訳もない。
ただ、好きだから、やった。
気持ちが溢れそうだったから、やった。
詩織は膝を抱えて、顔を膝に埋めた。
暗くなった視界の中で、悠馬の目を思い出した。
固まった顔を、思い出した。
あの顔が、なんとなく、今日は違った気がした。
今まで見た「驚いて抑えている」顔とは、少し違った。
どう違ったか、詩織にはうまく言えなかった。
でも、違った気がした。
もう少しだけ、ここにいよう、と思った。
朝ごはんができていた。早く台所に戻らなければならなかった。
でも、もう少しだけ。
悠馬の部屋の中では。
扉が閉まってから、俺はしばらく動けなかった。
天井を見ていた。
今日の詩織が、今まで一番、近かった。
「おきて」という声が、今日は今まで一番低かった。
「悠馬」と呼ばれた。さん、がなかった。名前だけだった。
目が合って、今日は今まで一番長かった。
全部が、今日は今まで一番だった。
俺はその「今まで一番」たちを、布団の中で一つずつ受け取った。
心臓が、今日は今まで一番うるさかった。
いつもうるさい。でも今日は、種類が違った。
ただうるさいのではなく、何かを訴えているような音だった。
訴えている、というのが正しいかはわからない。でも、今日だけは、心臓の音が何かを言っている気がした。
何を言っているかは、まだわからなかった。
でも、何かを言っていた。
朝ごはんを食べた。
今日の詩織は、朝ごはんの時間、いつもより静かだった。
静かだが、暗くはなかった。
どちらかというと、何かを抱えて、でもそれが重くなさそうな静かさだった。
悠馬が「今日もうまいです」と言った。
詩織が「ありがとうございます」と言った。
いつも通りだった。
でも、今日のいつも通りは、今までのいつも通りより少しだけ密度が違った気がした。
俺にはうまく言えなかった。
ただ、今日の朝ごはんの時間が、今まで一番落ち着かない時間だった。
落ち着かないのに、悪くなかった。
登校中、詩織の手が来た。
今日の手は、いつもと握り方が少しだけ違った。
指の絡み方が、今日はいつもより深かった。
詩織は前を向いて歩いていた。
俺も前を向いて歩いた。
繋いだ手の温度が、今日は今まで一番鮮明だった。
手のひらの形が、わかった。体温の高さが、わかった。歩くたびに変わる力加減が、全部わかった。
わかりすぎて、前を向いていることに、今日は少し努力が必要だった。
昼休み、ひよりが屋上まで来た。
珍しかった。ひよりが屋上に来るのは初めてだった。
詩織と悠馬が弁当を食べているところに、ひよりが扉を開けて顔を出した。
「邪魔してごめんね。詩織に少しだけ話があって」
悠馬が「俺、席外しましょうか」と言った。
「いいよ。大した話じゃないから」
ひよりは詩織の反対側に座って、小声で言った。
「今日の詩織、顔が違う」
「そうですか」
「今日は昨日より、ずっと先に行った顔してる」
詩織はひよりを見た。
「先に行ったって」
「なんか、決意した顔。覚悟した顔。そういう感じ」
詩織はひよりから視線を外して、空を見た。
「今朝、言い訳なしで、自分から、今まで一番近いところで起こしました」
ひよりが黙った。
「ひよりには言わなかったことをやった。自分でやった」
「……うん」
「それだけです」
ひよりはしばらく詩織を見ていた。
それから、静かに言った。
「詩織」
「うん」
「もうすぐだと思う」
詩織はひよりの言葉の意味を、聞き返さなかった。
わかっていたから。
「……うん」
詩織は答えた。
空が青かった。
悠馬が横で弁当を食べていた。
今日の屋上の空気が、少しだけ重かった。
でも、悪くない重さだった。
夜、詩織は布団に入って天井を見た。
今日一日を思い返した。
眠れなかった夜。台所で笑っていた朝。布団の中で、今まで一番近かった距離。「おきて」という低い声。「悠馬」という名前だけの呼びかけ。五秒間の目。
全部、今日の自分がやったことだった。
ひよりが「もうすぐだと思う」と言った。
もうすぐ、何が来るのか。
詩織にはわかっていた。わかっていて、聞き返さなかった。
もうすぐ、何かが限界に来る。
自分の中の何かが、言葉を求め始めている。
今までは言葉にしなくていいと思っていた。胸の中にしまっておけると思っていた。
でも今夜の詩織には、それが少しずつ難しくなってきていることがわかった。
気持ちが、溢れそうだった。
昨夜も溢れそうだと思った。でも今夜はさらに一段、上に来ていた。
壁の向こうが静かだった。
悠馬がそこにいた。
詩織は目を閉じた。
今夜も眠れないかもしれないと思った。
でも、昨夜よりはもう少しだけ眠れる気がした。
今日一番近いところに行ったから。
それで、少しだけ、胸の中の満ちているものが落ち着いた気がしたから。




