第十四話 言い訳のない朝に、それでも行った
翌朝、六時半前に目が覚めた。
天井を見た。
今日は昨日と違う朝だ、と思った。
昨日、ひよりの嘘がわかった。手を繋いで歩くのは姉弟として当然ではなかった。朝の布団も、屋上のお昼も、扉越しのあの言葉も、全部「姉弟だから」という建前の上に成り立っていた。
その建前が、昨日の昼休みに崩れた。
詩織は布団の中で、少しの間動かなかった。
今日の朝は、どうするか。
考えるまでもなかった。
今日も行こう、と思った。
思ってから、今日初めて、その「行こう」が何に基づいているかを正面から見た。
姉弟だから、ではない。
ひよりに言われたから、でもない。
行きたいから、だ。
その答えが、今朝は怖くなかった。昨日の夜に一度受け取ったものだったから、今朝はもう馴染んでいた。
起き上がった。
顔を洗った。廊下に出た。
悠馬の部屋の扉の前まで来た。
昨日まであった「姉弟だから」という言い訳が、今日はなかった。
その代わりに、ただ自分がいた。
ノックした。
「悠馬さん」
扉を開けた。
近づいた。
布団を持ち上げた。
入った。
入りながら、詩織は今までと違うことに気づいた。
今日は、入ることに理由がなかった。
あったのは、入りたい、という気持ちだけだった。
その気持ちだけで、詩織は今日、悠馬の布団の中に入った。
「おはよう」
悠馬が目を開けた。
目が合った。
今日の詩織の目に、何かが違うものが入っていたかもしれない。自分ではわからなかった。でも、今日だけは、目を逸らすのが今まで一番遅かった。
四秒。いつもの二秒を、二倍越えた。
逸らしてから、布団を出た。
「朝ごはん、作ります」
言って、扉を閉めた。
廊下で、詩織は一度だけ深呼吸した。
今日の自分が、昨日の自分と少し違った。
言い訳のない朝に、それでも行った。
その事実が、廊下の空気の中に静かにあった。
朝ごはんを食べながら、悠馬が言った。
「今日、詩織さんの目、いつもと少し違いましたね」
詩織は箸を止めた。
「違いましたか」
「なんか、直接見てくる感じがして」
「……そうですか」
「はい。なんか、今日は少し、目が逸れるのが遅かった気がしました」
悠馬は何でもない顔で言った。でも耳が少し赤かった。
詩織は「そうでしたか」と言って、味噌汁を飲んだ。
気づかれていた。
気づかれていたことが、怖いとは思わなかった。
むしろ、なんとなく、胸の中が少しだけ温かくなった。
学校に着いて、一時間目が始まるまでの間に、ひよりが来た。
詩織の席の隣に来て、静かに立った。いつものひよりと少し違って、今日は遠慮がちな立ち方だった。
「詩織」
「うん」
「昨日は、ごめん」
詩織はひよりを見た。
ひよりの顔が、今日は真剣だった。笑みがなかった。
「ちゃんと謝りたくて。嘘ついてごめん。詩織の気持ちを勝手にどうにかしようとして、ごめん」
詩織は少しの間、ひよりを見ていた。
「ひより」
「うん」
「なんで、あんなことしたの」
「……詩織がゆーくんのこと、気にしてるの、最初から見えてたから」
詩織は黙った。
「気にしてるけど、詩織は自分から動けない。それはずっとそうじゃん。好きな人の前でも、苦手な人の前でも、詩織はいつも同じ顔してる。それが詩織の良いところでもあるんだけど、私にはもったいなく見えて」
「だから嘘ついた?」
「嘘をついたのは、よくなかった。でも、詩織に動いてほしかったのは本当だよ。詩織が自分の気持ちに気づいて、自分で動けるように」
詩織はひよりの目を見た。
まっすぐな目だった。謝りながら、でも後悔しきってはいない目だった。
「ひよりは、私がゆーくんのことが好きだって、最初からわかってたの?」
「最初からではないけど、早い段階で」
「私より先に?」
「うん」
詩織は少しの間、その事実を処理した。
ひよりが自分より先に、気づいていた。
それが悔しいかと思ったら、悔しくなかった。むしろ、なんとなく、おかしかった。自分の気持ちを、自分より先に親友に見られていた。
「……ひより、次に嘘ついたら許さないから」
詩織が言った。
「うん。もうしない」
「本当に」
「本当に。もう必要ないし」
最後の言葉の意味を、詩織は聞き返さなかった。
代わりに、右手を伸ばして、ひよりの肩を一回だけ軽く叩いた。
昨日のポカポカではなく、一回だけ、静かに。
ひよりが「ありがとう」と言った。
詩織は「昨日のは謝って」と言った。
「ごめんなさい」
「よし」
チャイムが鳴った。
昼休み、詩織は屋上に来た。
悠馬がすでにいた。弁当箱を膝に置いて、空を見ていた。
詩織が来たことに気づいて、こちらを向いた。
「今日は来るかと思いませんでした」
「なぜですか」
「なんか、今日は一人で考えたいことがある顔をしていたので」
詩織は悠馬の隣に座りながら、その言葉を少し考えた。
「よく見てますね」
「……そうですか」
「今朝も言われましたよ。目が違うって」
悠馬が少し固まった。
「それは、朝のことを言ったわけでは」
「いいえ。さっきのは別の話です」
詩織は弁当箱を開いた。
「でも、よく見てるんですね、悠馬さんは」
言いながら、顔には出さなかった。でも胸の中は、ちょうどいい温度だった。
悠馬は何も言わなかった。
耳が赤かった。
二人で弁当を食べた。今日の空は少し雲があって、でも晴れていた。
午後の授業が終わって、詩織は一人で廊下を歩いた。
今日一日のことを、頭の中で整理していた。
ひよりの嘘がわかった。
怒った。
でも許した。
ひよりが最初から自分の気持ちに気づいていた、ということも知った。
そして、言い訳のない朝に、それでも布団に入った。
全部が、今日一日で起きた。
じゃあ今まで自分は何をしていたのか。
詩織は廊下を歩きながら、その問いに向き合った。
手を繋いで歩いていた。毎日。
屋上で弁当を食べていた。毎日。
布団に入っていた。毎朝。
嘘の建前があったから、できた。
でも続けたのは、自分だった。
嘘の建前があっても、自分の中に何もなければ続けられなかった。恥ずかしくて、やめていたはずだった。
続けた理由が、自分の中にあった。
その理由は、今は名前を知っている。
好き、という名前だった。
詩織は廊下の窓から外を見た。校庭の木が風に揺れていた。
ひよりの嘘が、詩織に「動く理由」を与えた。でも動き続けたのは、詩織の中にあった気持ちだった。
嘘がなければ、最初の一歩はなかったかもしれない。
でも、嘘だけでは、こんなに続かなかった。
その両方が本当だった。
帰り道、手を繋いで歩いた。
今日の手は、昨日より少しだけ違った。
違う、というのは、詩織の中の話だった。
今日は言い訳なしで繋いでいた。姉弟だからでも、ひよりに言われたからでもなく、ただ繋ぎたかったから繋いでいた。
その違いは、悠馬には見えないかもしれなかった。
でも詩織には、大きかった。
悠馬は前を向いて歩いていた。
詩織も前を向いて歩いた。
夕方の住宅街を、二人で歩いた。
夜、詩織は布団の中で今日のことを思い返した。
ひよりが言った言葉が、頭の中にあった。
「詩織がゆーくんのことが好きなの、最初から見えてた」
最初から。
詩織には見えていなかったのに、ひよりには見えていた。
ということは、詩織の気持ちは、詩織が気づく前からそこにあったということだ。
ひよりの嘘が生まれる前から、詩織の中に何かがあった。
ひよりはそれを見て、動かそうとした。
嘘という方法は間違っていた。でも、見えていたものは本物だった。
詩織は天井を見た。
好き、という言葉の輪郭が、今日はいつもより少しだけくっきりしていた。
嘘から始まったかもしれない。でも、今ここにあるこの気持ちは、嘘ではなかった。
それだけは、確かだった。
壁の向こうが静かだった。
悠馬がそこにいた。
詩織は目を閉じた。
今夜は、早く眠れる気がした。
同じ夜、悠馬の部屋では。
俺は布団の中で、今朝のことを考えていた。
今朝の詩織の目が、いつもと違った。目が逸れるのが、いつもより遅かった。
それを朝ごはんのときに言ったら、詩織は「そうですか」と言った。
驚いた顔でも、慌てた顔でもなかった。
どこか、受け入れているような顔だった。
昼休みに屋上で言った言葉も気になっていた。
「よく見てるんですね、悠馬さんは」
責めているわけではなかった。でも確認するような言い方だった。
俺はあれにうまく返せなかった。耳が赤くなるのがわかった。
よく見ている、というのは本当だった。
今日の詩織が、昨日と何かが違って見えた。何が違うのかはうまく言えなかったが、何かが変わっていた。
変わった詩織が、今日は少しだけ、近かった気がした。
距離が縮まったわけではない。でも、何かが近かった。
その近さが、今夜は眠れない理由になっていた。




