第十三話 全部、嘘だったのか
火曜日の昼休み、詩織は珍しく屋上ではなく教室で弁当を食べていた。
悠馬が今日は帰宅部仲間と購買に行くと朝に言っていたので、屋上には行かなかった。ひよりは今日は別のクラスの子と約束があると言っていた。
だから詩織は、同じクラスの女子数人と一緒に食べていた。
話は弾んでいた。今度の文化祭の準備のこと、共通の知人の話、他愛のない話。詩織はいつもより少しだけ口数が多かった。悪くない時間だった。
話の流れで、家族の話になった。
「うちの弟がさ、最近反抗期で全然喋ってくれないんだよね」
一人が言った。
「わかる。年が近い兄弟ってそういうの多くない?」
「でも仲いい姉弟もいるよね」
そこで一人が詩織を見た。
「一ノ瀬さんって、今義理の弟さんと一緒に住んでるんだよね?仲いいの?」
詩織は箸を持ったまま頷いた。
「まあ、普通に暮らしていますよ」
「へえ、いいな。年近い姉弟って、どんな感じ?」
詩織は少し考えて、自然に答えた。
「登下校のとき、手を繋いで歩いたりしますよ」
一瞬、空気が止まった。
聞いていた三人が、微妙な顔をした。
「……え、そうなの?」
「うちは絶対しない」
「うちも。てか、高校生でそれはちょっと」
詩織の手が、弁当箱の上で止まった。
「……そうなんですか」
「うん。てか、年近い姉弟こそしないんじゃないかな。恥ずかしいし」
「そっか。私の感覚がおかしいのかな」
「地域によるのかもしれないけど、うちの周りにはいないかな」
話は次の話題に移っていった。
詩織は弁当の続きを食べた。
口に何かを入れて、咀嚼して、飲み込んだ。
味が、よくわからなかった。
手を繋ぐのが姉弟として当然、というのは嘘だった。
弁当を食べ終わって、詩織は静かにその結論を受け取った。
受け取ってから、次に考えた。
朝、悠馬の布団に入って起こすのも。
屋上で弁当を持っていくのも。
お風呂の扉をノックしたのも。
全部、ひよりに「姉弟だから当然」と言われてやり始めたことだった。
全部、嘘だったのか。
詩織は机の上の、空になった弁当箱を見た。
怒り、という感情が、静かに、でも確実に、胸の中から上がってきていた。
午後の授業は、上の空だった。
先生の声が聞こえていたが、内容が入らなかった。
考えていることが多すぎた。
「全部嘘だった」ということが、授業中ずっと頭の中にあった。
でも考えていくうちに、もう一つの事実にぶつかった。
嘘から始まった行動だった。でも、詩織はそれを続けた。
手を繋いで歩くことを、一回目の翌日も、その翌日も、続けた。
屋上でのお昼を、二回目も三回目も、続けた。
朝の布団も、一度やってから、毎日続けた。
ひよりが「やれ」と言い続けていたわけではなかった。一度目はひよりの言葉があった。でも二度目以降は、詩織が自分でやっていた。
嘘から始まった。でも、続けたのは自分だった。
その事実が、怒りの下に、静かにあった。
放課後になって、詩織はひよりを探した。
廊下で見つけた。ひよりが詩織に気づいて、いつものように手を振った。
「詩織、今日は一緒に帰れる?ゆーくんと」
「ひより」
詩織の声のトーンに、ひよりが気づいた。手が、途中で止まった。
「……うん?」
「少しいい?」
「うん」
二人は人の少ない踊り場に移動した。
詩織はひよりの前に立って、ひよりを見た。
「手を繋いで登下校するのは、姉弟として当然じゃないって聞いた」
静かな声だった。
ひよりは一瞬、固まった。
固まった顔を、詩織はじっと見ていた。
「……そうなの?」
ひよりが言った。とぼけた言い方だったが、目が少し泳いでいた。
「ひより」
「うん」
「朝、布団に入って起こすのは?」
「……」
「屋上でお昼を届けるのは?」
「……」
「お背中を流すのは?」
ひよりは答えなかった。
答えない、というのが答えだった。
詩織はひよりを見ていた。
怒っていた。
でもどう怒ればいいかがわからなかった。怒鳴りたいわけではなかった。説教したいわけでもなかった。ただ、ひよりが全部仕組んでいたという事実が、胸の中でぷりぷりと熱を持っていた。
「ひより」
「うん」
「最低」
言いながら、詩織の右手がひよりの肩をポカポカと叩いた。
強くはなかった。でも続いた。叩きながら、詩織の顔がどんどん赤くなっていった。
「全部嘘だったじゃない。私が信じたのに」
「……ごめん」
「ごめんで済むと思ってるの」
「ごめんなさい」
ひよりは逃げなかった。叩かれながら、まっすぐ詩織を見ていた。その目に、笑いはなかった。
「詩織が怒るのは当然だと思う。ちゃんと謝る」
「謝ればいいってことじゃないんだけど」
「うん」
「私、恥ずかしかったんだよ。布団に入ったとき。お風呂のとき。全部、姉弟として当然だと思ってたから、恥ずかしいけどやれたの。でも本当は違ったんでしょ」
ひよりは黙っていた。
「恥ずかしいのに、嘘ついてやらせたんでしょ」
「……うん」
「最低」
もう一度叩いた。
ひよりは「最低だね」と静かに言った。否定しなかった。
詩織は叩く手を止めた。
ひよりを見た。
ひよりの目が、今日は少しだけ違った。笑っていなかった。でも後悔しているかと言われると、それも少し違った。複雑な目だった。
「ひより、なんで」
「詩織のためだよ」
「そんな言い方、ずるい」
「ずるいのはわかってる。でも、本当のことだよ」
詩織はひよりを見続けた。
怒りは、まだあった。でもその怒りの下に、もっと複雑な何かがあることに、詩織は気づき始めていた。
踊り場を出てから、詩織は一人で廊下を歩いた。
ひよりとは「また明日」と言って別れた。
歩きながら、頭の中を整理した。
ひよりの嘘から始まったことが、たくさんあった。
全部、「姉弟として当然」という建前があったから、詩織はやれた。
その建前が、嘘だった。
じゃあ、二度目からは何だったのか。
手を繋ぐことを、翌日も続けたのは。
屋上のお昼を、毎日続けたのは。
布団に入ることを、毎朝続けたのは。
建前はすでに嘘だとわかっていた。わかっていて、詩織はやっていた。
昨日気づいていたわけではなかった。今日初めて「嘘だ」と知った。
でも、続けていた理由は、建前ではなかった。
続けていた理由は、詩織の中にあった。
それが何かを、詩織はもう知っていた。
好き、という言葉が、もうそこにあった。
昇降口で、悠馬が待っていた。
いつも通りだった。
詩織が出てくるのを、悠馬が待っていた。
詩織は少しの間、その光景を見た。
今日、ひよりの嘘を知った。
手を繋ぐのは姉弟として当然ではなかった。
屋上でのお昼も、朝の布団も、当然ではなかった。
それでも詩織は、悠馬の隣に近づいた。
「お待たせしました」
「いいえ」
昇降口を出て、歩き始めた。
詩織の手が出た。
悠馬の手と絡んだ。
今日も、繋いだ。
姉弟として当然ではない、とわかっていて、繋いだ。
繋ぎながら、詩織は前を向いた。
怖かった。
でも、離さなかった。
離す理由が、今日はひとつもなかった。
夜、詩織は部屋で一人だった。
布団に横になって、今日のことを最初から思い返した。
昼休みのクラスメイトの言葉から、ひよりへの怒り、ひよりの顔、踊り場を出てから考えたこと、帰り道の手の温度まで。
全部を並べて、見た。
嘘から始まった。
でも続けたのは自分だった。
そして今日、嘘だとわかってもなお、手を繋いだ。
それが、答えだった。
言葉にしなくていい答えだった。誰かに見せなくていい答えだった。でも、詩織の中では、今夜はっきりと、形を持った。
好きだから、続けていた。
ひよりの嘘がきっかけだったとしても、好きだから、自分でやっていた。
その事実が、怖くなかった。
今夜は、怖くなかった。
ただ、重かった。
どこへも持っていけない重さが、胸の中にあった。
でも、今夜のこの重さは、今までより少しだけ温かかった。
同じ夜、悠馬の部屋では。
俺は布団に入って、今日の詩織のことを考えていた。
昇降口で待っていたら、詩織が出てきた。その顔が、少しだけいつもと違った。なんというか、何かを決めた後のような顔だった。
繋いだ手が、今日はいつもより少しだけ力が入っていた。
詩織の側から、力が入っていた。
その感触が、今も右手に残っていた気がした。
今日、詩織に何かがあったのだろうと思った。
でも聞けなかった。聞く言葉が見つからなかった。
ただ、今日の詩織の手の温度が、今夜は頭から離れなかった。




