第十二話 外から見た私たちの話
木曜日の午後のことだった。
五時間目が終わって、詩織はトイレに立った。
廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから声が聞こえた。クラスメイトの声だった。二人か三人、まとまって話しているようだった。詩織の足音は上履きで静かだったから、向こうは気づいていなかった。
角を曲がりかけて、止まった。
自分の名前が聞こえた気がしたからだ。
立ち聞きしようとしたわけではなかった。ただ、足が止まった。
「一ノ瀬さんって、佐伯くんと義理の姉弟なんだって」
「知ってる。苗字一緒になったじゃん」
「屋上でいつも二人でお昼食べてるって聞いたよ」
「え、二人で?」
「うん。毎日らしい」
しばらく間があった。
「なんか、意外だよね」
「何が」
「一ノ瀬さんが、毎日誰かと二人でご飯食べてるって。あの人ってなんか、いつも綺麗にまとまってるじゃん。クラスの中心にいても、どこか遠い感じがあって」
「わかる。話しかけにくいっていうか」
「でも最近、なんか違くない?」
「違う?」
「なんか、ちょっとだけ、人間っぽい気がする。前は完璧すぎてちょっと怖かったけど、最近は、たまに表情が崩れる瞬間があって」
「それ私も思った。この間廊下で、すっごい慌てた顔してた。あんな顔するんだって思って」
「佐伯くんのこと見てるときって、なんか、ちょっと違う感じがするんだよね」
「え、それどういう意味」
「うまく言えないんだけど。なんか、普通の人みたいな顔するっていうか」
笑い声がした。悪意のない笑い声だった。
「別に、义理の姉弟なんだから仲いいのは当然じゃないの」
「そうなんだけど。なんかね、見てると、ちょっと気になるんだよね。二人が廊下ですれ違うとき、佐伯くんがちょっとだけ詩織さんの方見るんだよ」
「え、そうなの」
「うん。本人気づいてないと思うけど」
また笑い声がした。
詩織は廊下の角で、動けなかった。
声が遠ざかっていった。
詩織はしばらく、その場に立っていた。
心臓が、少しだけ速くなっていた。
聞こえた言葉を、頭の中で反芻した。
人間っぽい、という言葉が、妙に引っかかった。
自分がそんな風に見られていたとは思っていなかった。クラスの中心にいて、何でもこなして、感情をあまり表に出さない、と自分では思っていた。でも外から見ると、それが「完璧すぎて怖い」に見えていたらしかった。
そして、悠馬の前では「普通の人みたいな顔をする」と言われた。
普通の人みたいな顔。
詩織はその言葉を、もう一度頭の中でなぞった。
自分ではわかっていなかった。でも外からは見えているらしかった。悠馬の前でだけ、顔に何かが出ている、ということが。
悠馬がちょっとだけ詩織の方を見る、とも言っていた。
本人気づいていないと思うけど、と。
詩織はゆっくり歩き出した。
トイレに向かいながら、聞いてしまったことを整理しようとした。
整理できなかった。
トイレから出て、廊下を歩きながら、詩織は今度は別のことを考えていた。
外から見た、自分と悠馬の話。
毎日屋上で二人でお昼を食べている。廊下ですれ違うとき、悠馬がちょっとだけ詩織を見る。詩織の顔が、悠馬の前でだけ変わる。
全部、詩織の中では「当たり前のこと」だった。
屋上のお昼は、一緒に住んでいるから。廊下ですれ違うときに顔を見るのは、同じ家の人間だから自然なことだと思っていた。顔が変わる、というのは、自覚はなかった。
でも外からはそう見えているらしかった。
外から見ると、自分と悠馬は、普通の義理の姉弟とは少し違って見えるらしかった。
詩織は教室の前まで来て、扉に手をかけた。
かけて、少しの間そのままでいた。
悠馬がちょっとだけ詩織の方を見る。
その言葉が、まだ頭から出なかった。
六時間目の授業中、詩織は黒板を見ていた。
見ていたが、内容は半分も頭に入っていなかった。
窓の向こうに、校庭が見えた。
外から見た自分たちの話を、ずっと考えていた。
考えながら、気づいたことがあった。
今まで詩織は、自分の気持ちのことだけを考えていた。自分が好きだということ。自分がどうするかということ。自分がどこまで行動できるかということ。
でも今日初めて、外から見たという視点が入ってきた。
外から見たとき、どう見えるか。
そして、悠馬から見たとき、どう見えるか。
悠馬は詩織のことをどう思っているのか。
今まで考えないようにしていたことが、今日の廊下での会話をきっかけに、頭の中に入ってきた。
チャイムが鳴った。
詩織はノートを閉じた。
今日初めて、悠馬の気持ちのことを、真正面から考えた。
放課後、ひよりが来た。
いつものように詩織の隣に来て、「帰ろ」と言った。
昇降口まで並んで歩きながら、ひよりが言った。
「今日なんかあった?顔がいつもと違う」
「……少し、聞いてしまったことがあって」
「聞いた?」
「クラスメイトの話を」
ひよりは詩織を横目で見た。
「私たちの話?」
「私と、悠馬さんの話」
「ふうん。何か悪いこと言われてた?」
「いいえ。悪意は全然なかった。でも」
詩織は少しの間黙った。
「外から見ると、私と悠馬さんは、少し変に見えるみたい」
「変、じゃなくて?」
「変、というより、普通の義理の姉弟と少し違って見える、ということ」
ひよりは何も言わなかった。
「私が悠馬さんの前で顔が変わるって、言われた。それと、悠馬さんが、廊下で私を見るって」
「へえ」
「本人気づいていないと思うけど、って言ってたけど」
「うん」
「どう思う?」
ひよりは昇降口の扉を開けながら、少し考えた。
「どう、って言われても」
「悠馬さんは、私のことを、どう思ってると思う?」
扉を抜けながら、ひよりはその問いを受け取った。
詩織がひよりに「悠馬の気持ち」を聞いてきた。
今まで一度もなかったことだった。
ひよりは靴を替えながら、少しの間黙っていた。
「詩織」
「うん」
「それは、私に聞くことじゃないと思う」
詩織は靴ひもを結ぶ手を止めた。
「ひよりなら知ってるんじゃないかと思って」
「知ってるかどうかより」
ひよりはまっすぐ詩織を見た。
「それは、ゆーくんに聞くか、自分で感じるしかないことだよ」
詩織はひよりを見た。
ひよりは続けた。
「私が答えを教えたら、詩織が自分で感じたことじゃなくなる。それは、よくないと思う」
詩織は少しの間黙って、靴ひもを結んだ。
「……そうだね」
「うん」
「でもひより、知ってるんでしょ」
ひよりは一瞬だけ、口端が動いた。
「知ってるかどうかは言わない」
「ずるい」
「親友だから言わないの」
詩織はため息をついた。ひよりは「帰ろ」と言って外に出た。
帰り道、悠馬が昇降口の前で待っていた。
いつも通りだった。詩織が出てきて、悠馬が気づいて、並んで歩き始めた。
手が来た。指が絡んだ。
今日の詩織は、繋いだ手を、今まで見たことのない目で見た。
外から見たら、これはどう見えるのだろう。
住宅街を歩く男女が、手を繋いでいる。義理の姉弟だと知らない人が見たら、何に見えるのだろう。
知っている人が見たら、どう見えるのだろう。
詩織は前を向いた。
悠馬の横顔を、二秒だけ見た。
廊下ですれ違うとき、悠馬がちょっとだけ詩織の方を見る。本人気づいていないと思うけど。
あの言葉が、今この瞬間もまだ頭の中にあった。
悠馬は前を向いて歩いていた。
今も、詩織の方を見ているのか、見ていないのかは、わからなかった。
夜、詩織は部屋で一人だった。
布団に横になって、天井を見ていた。
今日の廊下での会話を、もう一度最初から思い返した。
人間っぽい、という言葉。
普通の人みたいな顔をする、という言葉。
悠馬が詩織の方を見る、という言葉。
全部を並べて、見た。
詩織は今まで、自分の気持ちのことだけを考えてきた。好き、という言葉を受け取ってから、その重さと一緒に毎日を過ごしてきた。
でも今日、初めて、外から見た視点が入った。
外から見ると、何かが見えているらしい。
そして、悠馬の側にも、何かがあるかもしれないらしい。
詩織はそれを考えると、胸の中に、今まで感じたことのない種類の緊張が生まれた。
今まで「自分だけが知っている」と思っていた。自分の中だけにある言葉だと思っていた。
でも、外からは何かが見えている。
それは、詩織の思っていた以上に、二人の間に何かがある、ということかもしれなかった。
あるかもしれない、という言葉が、怖かった。
怖かったのと同じくらい、どこかで息ができるような気がした。
自分だけが抱えているわけではないかもしれない、という感覚が、初めて来た。
来て、詩織はそれを受け取った。
今夜も、来た言葉を全部受け取ることにしていたから。
同じ夜、悠馬の部屋では。
俺は布団に入って、天井を見ていた。
今日、六時間目が終わってから廊下を歩いていたとき、クラスメイトの男子に声をかけられた。
「佐伯ってさ、一ノ瀬さんと本当に義理の姉弟なの?」
「そうだけど」
「なんか、一緒にいるところよく見るから。廊下でも、なんか、お前気づかないうちに見てるよ」
俺は「そうですか」と言った。
それだけで話は終わった。
でも、「気づかないうちに見ている」という言葉が、今も頭の中にあった。
気づいていなかった。
自分では、そんなつもりはなかった。でも、外からそう見えているなら、おそらくそうなのだろう。
俺は天井を見ながら、そのことを考えた。
気づかないうちに見ている、ということは、見たくて見ているのか、それとも目が勝手に向くのか。
どちらだろうと思った。
しばらく考えて、わからなかった。
わからなかったが、どちらだとしても、見ているのは本当だろうと思った。
詩織の方を、俺は見ている。
それは、たぶん本当だった。
その事実を、今夜初めて、ちゃんと受け取った。
受け取って、どうするかはわからなかった。
ただ、受け取った。
壁の向こうが、静かだった。




