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好きな人が義理の姉になった日から、距離感がバグり続けて毎日心臓が持ちません。  作者: あ


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第十一話 自分から、動いた

 月曜日の朝だった。

 詩織は悠馬の部屋から出て、台所で朝ごはんの支度をして、七時前には二品並べていた。

 悠馬が洗面所から出てきて、椅子に座った。

 いつも通りだった。

 いつも通りに「いただきます」を言って、いつも通りに食べ始めた。

 悠馬がご飯を食べながら、制服の袖のボタンを留めようとしていた。片手で持った箸を置いて、もう片方の手でボタンを探していた。袖口のボタンは小さいから、片手だとうまくいかないらしかった。何度かやって、諦めたのか、そのまま食べ始めた。

 詩織はそれを見ていた。

 見て、何も言わなかった。

 食べ終わって、片づけをして、着替えた。昇降口で靴を履いた。扉を開けようとした、その瞬間だった。

 悠馬の襟が、片方だけ内側に折れていた。

 詩織の目に、それが入った。

 入った瞬間に、手が動いた。

 考えるより先に動いた。詩織の右手が伸びて、悠馬の襟に触れた。折れていた部分を、外側に返した。それだけだった。一秒もかからなかった。

 でも、手が悠馬の首の後ろのすぐそばにあった。

 その事実に、詩織は一拍遅れて気づいた。

 手を引いた。

 悠馬が固まっていた。振り向けない角度だったから、詩織には悠馬の横顔しか見えなかった。でも、その横顔が、耳の先まで赤かった。

「……襟が、折れていたので」

 詩織が言った。

 声が少し低くなった気がした。

「あ、ありがとうございます」

 悠馬が言った。声がかすかに固かった。

 二人とも、それ以上何も言わなかった。

 扉を開けた。

 外に出た。

 歩き始めた。

 詩織の手が来た。悠馬の手と指が絡んだ。いつもと同じだった。

 でも詩織の胸の中では、さっきのことが静かに波紋を作っていた。

 ひよりに言われていない。

 自分で、動いた。


 学校に着くまでの二十分間、詩織はそのことを考えていた。

 考えながら、前を向いて歩いた。

 ひよりに最初に手を繋ぐよう言われた日のことを思い出した。「姉弟は手を繋ぐものだ」と言われて、詩織はそれを信じて、次の日の帰り道に実行した。あの日は「ひよりがそう言ったから」という理由があった。

 でも今朝の襟は、理由がなかった。

 誰かに言われたわけでもなく、「姉弟だから」という言い訳を作ったわけでもなく、ただ、折れていたから直した。

 それだけだった。

 それだけのことが、なぜか胸の中でひとつの意味を持った。

 自分から、動いた。

 その言葉が、登校中の住宅街の中で、静かに詩織の頭の中に定着した。


 午前中の授業は、頭の半分が別のところにあった。

 板書をノートに写しながら、右手を見た。

 さっき悠馬の襟に触れた手だった。

 触れた、という感触は残っていない。でも、やった、という記憶は残っていた。

 やった。

 自分でやった。

 詩織はペンを持ち直して、黒板の続きを写した。

 何かが始まった気がした。何が始まったのかはまだわからなかった。でも、何かが少し動いた、という感覚だけはあった。


 昼休み、ひよりが来た。

 弁当を持って、詩織の隣に座った。

「詩織」

「うん」

「今日なんかした?」

 詩織は箸を止めた。

「なんかって」

「顔が違う。なんか、今朝何かあった?」

 ひよりの目が、細くなった。観察する目だった。でも今日のひよりは、踏み込んでくる気配がなかった。聞きながら、一歩引いていた。

 詩織はひよりを見た。

「……小さいことだけど」

「うん」

「悠馬さんの、襟が折れてたから直した」

 ひよりは少しの間、詩織を見ていた。

「ひよりに言われてないけど?」

「うん」

「自分で?」

「うん」

 ひよりはまた少しの間、詩織を見た。

 それから前を向いて、弁当の卵焼きを箸でつまんだ。

「そっか」

 それだけ言った。

 詩織はひよりの横顔を見た。今日のひよりは、何も言わなかった。にやりともしなかった。ただ「そっか」と言って、弁当を食べた。

 その「そっか」が、今日はどこかひよりらしくなくて、でも詩織には温かかった。


 放課後、帰り道だった。

 手を繋いで歩いていた。

 今日の帰り道は、今週で一番静かだった。お互い、何も言わなかった。でも沈黙が重くなかった。

 悠馬が前を向いたまま言った。

「今朝は、ありがとうございました」

「いえ」

「気づかなかったので」

「ふとしたことです」

 それだけだった。

 でも悠馬が「ありがとうございました」と言ったとき、声の奥に何かがあった気がした。何かが、というのは、言葉の意味以上の何かだった。うまく受け取れなかった。

 詩織は前を向いたまま、その声の感触を胸の中にしまった。


 夜になった。

 夕ごはんを食べて、片づけをして、詩織は自分の部屋に戻った。

 宿題を片づけて、参考書を閉じた。

 時計を見ると、二十二時を過ぎていた。

 廊下に出ると、悠馬の部屋の扉の下に、細く光が漏れていた。

 まだ起きていた。

 詩織はその光を見て、少しの間立っていた。

 何も考えていなかった、というのは嘘で、台所に向かうかどうか考えていた。

 お茶を入れようとしていた。

 ひよりに言われたわけではなかった。

 ただ、まだ起きていることがわかって、勉強しているなら何か温かいものがあればいいと思って、そう思ったのは自分だった。

 台所に向かった。

 お湯を沸かした。

 急須で緑茶を入れた。湯加減を一度確認してから、少し冷ました。

 マグカップに注いで、持った。

 悠馬の部屋の前まで来た。

 ノックした。

 三回、いつもより少し小さい音で。

「はい」

 扉の向こうから声がした。

「お茶、よかったら」

 詩織が言った。

 少しの間があった。

「……いただきます」

 扉が開いた。

 悠馬が出てきた。参考書を持ったまま、少し驚いた顔をしていた。

 詩織はマグカップを差し出した。悠馬が受け取った。受け取るとき、指が触れた。

 今日二回目だった。

「ありがとうございます」

「夜は冷えるので」

「助かります。詩織さんはもう休みますか」

「少しだけ読書してから寝ようと思います」

「そうですか。おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 扉が閉まった。

 詩織は廊下に立ったまま、一瞬だけそこにいた。

 自分でやった、と思った。

 今夜も、自分でやった。

 小さいことだった。お茶を入れて、持ってきただけだった。でも今日の詩織にとっては、それが精いっぱいの、確実な、自分からの行動だった。

 自分の部屋に戻った。


 扉を閉めてから、詩織はベッドに腰掛けた。

 マグカップを渡したとき、悠馬の手が温かかった。

 夜に勉強していたから、手が少し冷えていると思っていた。でも温かかった。いつも温かい。繋いで歩くときも、拭いた皿を受け渡すときも、今夜も。

 詩織は自分の手を見た。

 今日一日で、二回触れた。

 どちらも、ひよりのせいではなかった。

 自分でやった。

 好き、という言葉を知ったまま、自分でやった。

 それが怖かった。

 怖かったけれど、やれた。

 やれた、という事実が、今夜の詩織の胸の中に、小さく灯っていた。


 一方、悠馬の部屋では。

 俺はマグカップを両手で持って、机の前に座っていた。

 お茶が温かかった。

 詩織が持ってきてくれた。それだけのことなのに、なんとなく今夜は勉強に戻れなかった。

 今日一日のことを、順番に思い返した。

 朝、襟を直してくれたこと。

 あれは、ひよりの指示ではない気がした。今まで詩織がやってきたことと、少し感触が違った。今までは、どこかに「そういうものだから」という理由があるような雰囲気があった。でも今朝の詩織の動きには、その雰囲気がなかった。

 ただ、折れていたから、直した。

 それだけの動きだった。

 それだけの動きが、なぜか一日中頭に残った。

 夜のお茶も同じだった。来るとは思っていなかった。だから扉が開いたとき、少し驚いた。驚いた顔が出てしまったかもしれなかった。

 詩織は「夜は冷えるので」と言った。

 その言葉が、今もマグカップの温度と一緒に、手のひらに残っていた。

 俺はお茶を一口飲んだ。

 うまかった。

 うまい、というより、温かかった。

 温かさの種類が、今夜は少し違う気がした。

 違う、けれど、どう違うのかがうまく言えなかった。

 俺はマグカップを机に置いて、参考書を開いた。

 開いたまま、三分くらい同じページを見ていた。

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