第十話 知ったまま、隣にいることを選んだ
自覚してから、最初の一週間のことを書く。
月曜日の朝、詩織は悠馬の部屋の扉の前で、いつもより三十秒長く立っていた。
三十秒というのは体感で、実際はもっと短かったかもしれないし、長かったかもしれない。ただ、ノックをするまでの間が、先週より確実に長くなっていた。
立っている間、詩織は自分に問いかけた。
やめるか。
答えはすぐ出た。
やめない。
その答えが出るのが速すぎて、詩織は少しだけ呆れた。やめない理由を考えるより先に、やめないという結論が来た。好き、という言葉を知ってしまった人間の判断力というのは、こういうことになるらしかった。
ノックした。
扉を開けた。
布団に入った。
「おはよう」
言った。
悠馬が目を開けた。目が合った。三秒で逸らした。
布団から出て、台所へ向かいながら、詩織は廊下でひとつ息を吐いた。
今日も、できた。
できた、という言葉が、今週の詩織の基準になった。
火曜日は、帰り道に雨が降った。
昨日とは違って今日は二人とも傘を持っていたので、それぞれ差した。
並んで歩いた。
手は繋げなかった。両手に傘があったから。
繋げない、ということに気づいた瞬間、詩織の胸に何かが落ちた。小石が水面に落ちるような感覚だった。静かで、でも確実に波紋を作るような。
繋げないことが、寂しかった。
寂しい、という言葉が来て、詩織はそれを受け取った。先週なら受け取らなかった。でも今週は、来た言葉を全部受け取ることにした。受け取って、胸の中にしまうことにした。言葉にはしない。でも受け取る。それが今週の詩織のやり方だった。
悠馬は隣で傘を差して、前を向いて歩いていた。
雨の音が、二つの傘の上に降っていた。
水曜日の夜、詩織は台所で洗い物をしていた。
悠馬が「手伝います」と言って横に来た。
いつものことだった。詩織が洗って、悠馬が拭く。その分担は同居してすぐに決まって、今も続いていた。
今日は台所が狭く感じた。
いつもと同じ台所だった。いつもと同じ分担だった。でも今日は、悠馬が布巾で皿を拭く横顔が、いつもと違う密度で目に入ってきた。
知っているから、入ってくる。
詩織は洗い物に集中した。
泡を流して、皿を渡して、次の皿を洗った。悠馬が受け取って、拭いて、棚に戻す音がした。その一連の音が、今日は妙によく聞こえた。
「今日の煮物、昨日より味が染みてましたね」
悠馬が言った。
「昨日の夜から仕込んでいたので」
「なるほど。手間かけてもらってすみません」
「好きでやっています」
言ってから、詩織は少し固まった。
好きでやっています、という言葉の「好き」が、今日に限ってやけに大きく響いた。
悠馬は「ありがとうございます」と言って、また皿を拭いた。
詩織は洗い物に戻った。泡の中に手を入れて、黙って皿を洗った。
木曜日の昼、屋上で弁当を食べていた。
今日は風が強かった。詩織の髪が何度か顔にかかった。そのたびに手で払った。
悠馬がそれを横目で見ていた。
見ているのがわかった。でも何も言わなかった。詩織も何も言わなかった。
風が来るたびに髪が乱れて、そのたびに払った。三回目の時、悠馬がわずかに体を動かした気がした。何かしようとして、やめた、という動き。
何をしようとしたのか、詩織にはわからなかった。
でも、その「やめた」という動きが、妙に頭に残った。
弁当を食べながら、前を見た。
空が青かった。風が強い日は、空が澄んで見える。
悠馬も空を見ていた。
二人で同じ空を見ていた。
それだけのことが、今日の詩織には少しだけ重かった。
金曜日の帰り道、手を繋いで歩いていた。
今週で一番静かな帰り道だった。
風もなく、空は夕方の橙色で、虫の声が遠くからしていた。
悠馬は前を向いて歩いていた。
詩織も前を向いて歩いていた。
繋いだ手が温かかった。
今週、火曜日だけ繋げなかった。あの日の寂しさを、詩織はまだ覚えていた。
寂しかった、ということは、繋いでいるのが好きだ、ということだ。
好きだ、ということを、今週は全部受け取ることにした。
受け取って、胸の中にしまって、言葉にしないまま隣を歩いた。
悠馬の手が、今日はいつもより少しだけゆっくり歩いている気がした。
気がする、だけかもしれない。
でも気がした。
詩織は前を向いたまま、繋いだ手をほんの少しだけ握り返した。
握り返した、かどうかも、本当のところはわからなかった。
でも、そうしたかった。
金曜日の放課後、ひよりは詩織を呼び止めた。
「詩織、今週なんか変わったよね」
ひよりが言った。
詩織は立ち止まって、ひよりを見た。
「変わった」
「うん。なんか、落ち着いた。先週まではどっかふわふわしてたのに、今週は地に足がついてる感じ」
「そう見える?」
「見える」
ひよりはしばらく詩織を見て、それから少し目を伏せた。
「詩織、ゆーくんのこと、自分でわかった?」
詩織は答えなかった。
答えない、というのが答えだとひよりはわかっているはずだった。
「そっか」
ひよりは静かに言った。
「私は何もしなくていい感じ?」
「……ひより」
「うん」
「もう、何かしなくていい」
詩織は、ひよりをまっすぐ見て言った。
責めているわけではなかった。感謝しているわけでも、怒っているわけでも、なかった。ただ、事実として言った。
「自分でやる」
ひよりはしばらく詩織を見ていた。
それから、口元がゆっくり笑った。いつものにやりとした笑いではなく、もっと柔らかい笑いだった。
「そっか」
また言った。
「わかった。じゃあ見てるだけにする」
「うん」
「でも詩織が困ったときは言って」
「わかってる」
二人はそれだけ言って、別れた。
ひよりは帰り道、一人で歩きながら今日のことを考えた。
詩織が「自分でやる」と言った。
その言葉を、ひよりは今も胸の中で反芻していた。
思えば、最初からそうしたかった。詩織が自分の意志で動けるように、少し後押ししたかっただけだった。背中を押しすぎたかもしれない、と思うこともあった。でも詩織は怒らなかった。怒るよりも先に、自分の足で立った。
それが、ひよりには嬉しかった。
悠馬のことは、最初から信頼していた。教室で話した日、あの子の目に悪意がなかった。詩織を傷つけるような人間ではないとわかった。だから仕掛けた。仕掛けながら、二人の反応を見ながら、途中から確信した。
これは、うまくいく。
うまくいく、というのは、詩織が幸せになる、ということだ。
ひよりにとって、それ以上のゴールはなかった。
夕方の住宅街を歩きながら、ひよりは空を見上げた。
橙色が、だんだん紫に変わっていくところだった。
詩織は今頃、悠馬と手を繋いで歩いているだろう。
ひよりは前を向いて、一人で歩き続けた。
土曜日の朝だった。
詩織は布団の中で目を開けて、天井を見た。
今日は学校がなかった。
悠馬を起こしに行く必要がなかった。
なかった、のに、六時半に目が覚めた。体がもう、その時間に起きることを覚えてしまっていた。
起き上がって、顔を洗って、台所に立った。
いつも通りに朝ごはんを作り始めた。
お湯を沸かしながら、ふと手が止まった。
今日は休日だから、悠馬が起きてくるのは遅いかもしれない。でも作ってしまっている。二人分、作ってしまっている。
詩織は沸きかけのお湯を見た。
止めるという選択肢は、浮かばなかった。
このまま作ろう、と思った。
起きてきたときに温かいものが食べられるように。
それだけのことが、今週の詩織には自然にできた。
ひよりに言われたわけでもなかった。
ただ、そうしたかった。
悠馬が台所に顔を出したのは、七時過ぎだった。
髪が少し乱れていた。目がまだ半分眠そうだった。
「あ、おはようございます」
「おはようございます。今日は起こしに行かなくてすみません」
「いや、目が覚めたので」
悠馬は椅子に座った。詩織は味噌汁をよそって、テーブルに置いた。
「今日、休みですね」
「そうですね」
「何か予定ありますか」
「特には。勉強しようかと」
「私も同じです」
それだけ言って、二人で朝ごはんを食べた。
今日は学校がない。
ひよりもいない。
予定もない。
ただ、同じ屋根の下にいる。
いつもの食卓で、いつもの味噌汁を飲んで、詩織はその「ただいる」ことの重さを、今週で初めてちゃんと感じた。
一緒にいることが、自然になっていた。
自然になっていることに、今更気づいた。
気づいてから、その自然さが愛おしかった。
愛おしい、という言葉が来た。
詩織は受け取った。
胸の中にしまった。
言葉にはしなかった。
でも、受け取った。
昼過ぎ、二人は別々の部屋で勉強していた。
詩織の部屋は静かで、参考書のページをめくる音だけがしていた。
一時間ほど経ったころ、廊下から声がした。
「詩織さん、お茶入りましたけど、飲みますか」
悠馬の声だった。
詩織はペンを止めた。
「いただきます」
返事をした。
しばらくして扉が開いて、悠馬がマグカップを二つ持って入ってきた。詩織の机の端に一つ置いて、「失礼します」と言って出ていった。
扉が閉まった。
詩織はマグカップを手に取った。
温かかった。
ちょうどいい温度だった。
飲みながら、詩織は思った。
好き、という言葉を知ったまま、隣にいることを選んだ。
それが今週の一週間だった。
来週も、その次の週も、たぶん同じだ。
言葉にはしない。でも知っている。知っているまま、隣にいる。
それが今の詩織にできる、精いっぱいのことだった。
お茶が、静かに冷めていった。




