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好きな人が義理の姉になった日から、距離感がバグり続けて毎日心臓が持ちません。  作者: あ


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10/22

第十話 知ったまま、隣にいることを選んだ

 自覚してから、最初の一週間のことを書く。

 月曜日の朝、詩織は悠馬の部屋の扉の前で、いつもより三十秒長く立っていた。

 三十秒というのは体感で、実際はもっと短かったかもしれないし、長かったかもしれない。ただ、ノックをするまでの間が、先週より確実に長くなっていた。

 立っている間、詩織は自分に問いかけた。

 やめるか。

 答えはすぐ出た。

 やめない。

 その答えが出るのが速すぎて、詩織は少しだけ呆れた。やめない理由を考えるより先に、やめないという結論が来た。好き、という言葉を知ってしまった人間の判断力というのは、こういうことになるらしかった。

 ノックした。

 扉を開けた。

 布団に入った。

「おはよう」

 言った。

 悠馬が目を開けた。目が合った。三秒で逸らした。

 布団から出て、台所へ向かいながら、詩織は廊下でひとつ息を吐いた。

 今日も、できた。

 できた、という言葉が、今週の詩織の基準になった。


 火曜日は、帰り道に雨が降った。

 昨日とは違って今日は二人とも傘を持っていたので、それぞれ差した。

 並んで歩いた。

 手は繋げなかった。両手に傘があったから。

 繋げない、ということに気づいた瞬間、詩織の胸に何かが落ちた。小石が水面に落ちるような感覚だった。静かで、でも確実に波紋を作るような。

 繋げないことが、寂しかった。

 寂しい、という言葉が来て、詩織はそれを受け取った。先週なら受け取らなかった。でも今週は、来た言葉を全部受け取ることにした。受け取って、胸の中にしまうことにした。言葉にはしない。でも受け取る。それが今週の詩織のやり方だった。

 悠馬は隣で傘を差して、前を向いて歩いていた。

 雨の音が、二つの傘の上に降っていた。


 水曜日の夜、詩織は台所で洗い物をしていた。

 悠馬が「手伝います」と言って横に来た。

 いつものことだった。詩織が洗って、悠馬が拭く。その分担は同居してすぐに決まって、今も続いていた。

 今日は台所が狭く感じた。

 いつもと同じ台所だった。いつもと同じ分担だった。でも今日は、悠馬が布巾で皿を拭く横顔が、いつもと違う密度で目に入ってきた。

 知っているから、入ってくる。

 詩織は洗い物に集中した。

 泡を流して、皿を渡して、次の皿を洗った。悠馬が受け取って、拭いて、棚に戻す音がした。その一連の音が、今日は妙によく聞こえた。

「今日の煮物、昨日より味が染みてましたね」

 悠馬が言った。

「昨日の夜から仕込んでいたので」

「なるほど。手間かけてもらってすみません」

「好きでやっています」

 言ってから、詩織は少し固まった。

 好きでやっています、という言葉の「好き」が、今日に限ってやけに大きく響いた。

 悠馬は「ありがとうございます」と言って、また皿を拭いた。

 詩織は洗い物に戻った。泡の中に手を入れて、黙って皿を洗った。


 木曜日の昼、屋上で弁当を食べていた。

 今日は風が強かった。詩織の髪が何度か顔にかかった。そのたびに手で払った。

 悠馬がそれを横目で見ていた。

 見ているのがわかった。でも何も言わなかった。詩織も何も言わなかった。

 風が来るたびに髪が乱れて、そのたびに払った。三回目の時、悠馬がわずかに体を動かした気がした。何かしようとして、やめた、という動き。

 何をしようとしたのか、詩織にはわからなかった。

 でも、その「やめた」という動きが、妙に頭に残った。

 弁当を食べながら、前を見た。

 空が青かった。風が強い日は、空が澄んで見える。

 悠馬も空を見ていた。

 二人で同じ空を見ていた。

 それだけのことが、今日の詩織には少しだけ重かった。


 金曜日の帰り道、手を繋いで歩いていた。

 今週で一番静かな帰り道だった。

 風もなく、空は夕方の橙色で、虫の声が遠くからしていた。

 悠馬は前を向いて歩いていた。

 詩織も前を向いて歩いていた。

 繋いだ手が温かかった。

 今週、火曜日だけ繋げなかった。あの日の寂しさを、詩織はまだ覚えていた。

 寂しかった、ということは、繋いでいるのが好きだ、ということだ。

 好きだ、ということを、今週は全部受け取ることにした。

 受け取って、胸の中にしまって、言葉にしないまま隣を歩いた。

 悠馬の手が、今日はいつもより少しだけゆっくり歩いている気がした。

 気がする、だけかもしれない。

 でも気がした。

 詩織は前を向いたまま、繋いだ手をほんの少しだけ握り返した。

 握り返した、かどうかも、本当のところはわからなかった。

 でも、そうしたかった。


 金曜日の放課後、ひよりは詩織を呼び止めた。

「詩織、今週なんか変わったよね」

 ひよりが言った。

 詩織は立ち止まって、ひよりを見た。

「変わった」

「うん。なんか、落ち着いた。先週まではどっかふわふわしてたのに、今週は地に足がついてる感じ」

「そう見える?」

「見える」

 ひよりはしばらく詩織を見て、それから少し目を伏せた。

「詩織、ゆーくんのこと、自分でわかった?」

 詩織は答えなかった。

 答えない、というのが答えだとひよりはわかっているはずだった。

「そっか」

 ひよりは静かに言った。

「私は何もしなくていい感じ?」

「……ひより」

「うん」

「もう、何かしなくていい」

 詩織は、ひよりをまっすぐ見て言った。

 責めているわけではなかった。感謝しているわけでも、怒っているわけでも、なかった。ただ、事実として言った。

「自分でやる」

 ひよりはしばらく詩織を見ていた。

 それから、口元がゆっくり笑った。いつものにやりとした笑いではなく、もっと柔らかい笑いだった。

「そっか」

 また言った。

「わかった。じゃあ見てるだけにする」

「うん」

「でも詩織が困ったときは言って」

「わかってる」

 二人はそれだけ言って、別れた。


 ひよりは帰り道、一人で歩きながら今日のことを考えた。

 詩織が「自分でやる」と言った。

 その言葉を、ひよりは今も胸の中で反芻していた。

 思えば、最初からそうしたかった。詩織が自分の意志で動けるように、少し後押ししたかっただけだった。背中を押しすぎたかもしれない、と思うこともあった。でも詩織は怒らなかった。怒るよりも先に、自分の足で立った。

 それが、ひよりには嬉しかった。

 悠馬のことは、最初から信頼していた。教室で話した日、あの子の目に悪意がなかった。詩織を傷つけるような人間ではないとわかった。だから仕掛けた。仕掛けながら、二人の反応を見ながら、途中から確信した。

 これは、うまくいく。

 うまくいく、というのは、詩織が幸せになる、ということだ。

 ひよりにとって、それ以上のゴールはなかった。

 夕方の住宅街を歩きながら、ひよりは空を見上げた。

 橙色が、だんだん紫に変わっていくところだった。

 詩織は今頃、悠馬と手を繋いで歩いているだろう。

 ひよりは前を向いて、一人で歩き続けた。


 土曜日の朝だった。

 詩織は布団の中で目を開けて、天井を見た。

 今日は学校がなかった。

 悠馬を起こしに行く必要がなかった。

 なかった、のに、六時半に目が覚めた。体がもう、その時間に起きることを覚えてしまっていた。

 起き上がって、顔を洗って、台所に立った。

 いつも通りに朝ごはんを作り始めた。

 お湯を沸かしながら、ふと手が止まった。

 今日は休日だから、悠馬が起きてくるのは遅いかもしれない。でも作ってしまっている。二人分、作ってしまっている。

 詩織は沸きかけのお湯を見た。

 止めるという選択肢は、浮かばなかった。

 このまま作ろう、と思った。

 起きてきたときに温かいものが食べられるように。

 それだけのことが、今週の詩織には自然にできた。

 ひよりに言われたわけでもなかった。

 ただ、そうしたかった。


 悠馬が台所に顔を出したのは、七時過ぎだった。

 髪が少し乱れていた。目がまだ半分眠そうだった。

「あ、おはようございます」

「おはようございます。今日は起こしに行かなくてすみません」

「いや、目が覚めたので」

 悠馬は椅子に座った。詩織は味噌汁をよそって、テーブルに置いた。

「今日、休みですね」

「そうですね」

「何か予定ありますか」

「特には。勉強しようかと」

「私も同じです」

 それだけ言って、二人で朝ごはんを食べた。

 今日は学校がない。

 ひよりもいない。

 予定もない。

 ただ、同じ屋根の下にいる。

 いつもの食卓で、いつもの味噌汁を飲んで、詩織はその「ただいる」ことの重さを、今週で初めてちゃんと感じた。

 一緒にいることが、自然になっていた。

 自然になっていることに、今更気づいた。

 気づいてから、その自然さが愛おしかった。

 愛おしい、という言葉が来た。

 詩織は受け取った。

 胸の中にしまった。

 言葉にはしなかった。

 でも、受け取った。


 昼過ぎ、二人は別々の部屋で勉強していた。

 詩織の部屋は静かで、参考書のページをめくる音だけがしていた。

 一時間ほど経ったころ、廊下から声がした。

「詩織さん、お茶入りましたけど、飲みますか」

 悠馬の声だった。

 詩織はペンを止めた。

「いただきます」

 返事をした。

 しばらくして扉が開いて、悠馬がマグカップを二つ持って入ってきた。詩織の机の端に一つ置いて、「失礼します」と言って出ていった。

 扉が閉まった。

 詩織はマグカップを手に取った。

 温かかった。

 ちょうどいい温度だった。

 飲みながら、詩織は思った。

 好き、という言葉を知ったまま、隣にいることを選んだ。

 それが今週の一週間だった。

 来週も、その次の週も、たぶん同じだ。

 言葉にはしない。でも知っている。知っているまま、隣にいる。

 それが今の詩織にできる、精いっぱいのことだった。

 お茶が、静かに冷めていった。

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