第二十二話 また明日の、その先に
翌朝、目が覚めたとき、俺は今日が昨日の続きだということを確認した。
夢ではなかった。
詩織が「悠馬さんのことが、好きです」と言った。
俺が「俺も、好きです」と言った。
最後に手を握って、「また明日」と言われた。
全部、本当にあったことだった。
天井を見た。
見知らぬ天井だった、はずが、今では一番よく知っている天井になっていた。右の端にひびが一本あることも、照明の取り付け位置が少し左に寄っていることも、全部知っていた。
廊下から、足音が聞こえてきた。
ノックが三回。
「悠馬さん」
扉が開いた。
足音が近づいてきた。
布団が持ち上がって、詩織が入ってきた。
今日も来た。
昨夜あったことの後でも、今日も同じように来た。
俺はそれが、なんとなく詩織らしいと思った。
言葉になった後でも、日常は続く。朝は来る。布団に来る。それが詩織だった。
「おきて」
声が来た。
低くて、柔らかくて、息が混ざっているような声。
ずっと聞いてきた声だった。
「悠馬」
名前だけ呼ばれた。
俺は目を開けた。
詩織の顔があった。
今まで一番近い距離に、詩織の顔があった。
いつもと同じだった。
でも今日は、同じことの全部が違う色をしていた。
「おはよう」
詩織が言った。
俺は今まで、この声を受け取るだけだった。
目が合って、固まって、詩織が逸らしてから、布団を出ていくのを見ていた。
でも今日は、違った。
「おはよう」
俺も言った。
詩織が、止まった。
俺がおはようと返したのは、同居してから初めてだった。
今まで声が出なかった。でも今日は出た。
詩織の目が、今朝も目の前にあった。
その目が、今日は今まで見た中で一番、柔らかかった。
昨夜、笑っていた目と同じ目だった。
管理されていない目だった。
俺はその目を見て、今朝は逸らさなかった。
詩織も逸らさなかった。
どちらも逸らさないまま、しばらくそこにいた。
数えなかった。
今日から、数えなくていいと思った。
詩織が布団から出た。
立ち上がって、スカートの裾を整えた。
扉の方へ向かって、扉に手をかけた。
今日は、そこで一度止まった。
振り返った。
「悠馬さん」
「はい」
「昨夜のこと、夢じゃなかったですよね」
俺は少し笑った。
笑った、というのは、表情に出た笑いだった。今まで笑いを出さないようにしていたのが、今日は出た。
「夢じゃなかったです」
「よかった」
詩織が言って、扉を開けた。
でも今日の詩織は、扉を閉める前にもう一度こちらを見た。
その顔が、廊下の朝の光の中で、赤かった。
でも今日は、赤い顔で目を逸らさなかった。
「朝ごはん、できたら呼びます」
「ありがとうございます」
扉が閉まった。
廊下で、詩織は一度深呼吸した。
でも今日は、壁に背を預けて座り込まなかった。
深呼吸一回で、台所へ向かった。
歩きながら、「おはよう」と返ってきたことを、胸の中で受け取った。
今まで一度も、おはようと返ってきたことはなかった。
今日初めて、返ってきた。
それだけのことが、今朝の詩織には大きかった。
台所に立って、鍋に火をかけながら、詩織は昨夜のことを思い出した。
「待ってください」と言ったこと。
「悠馬さんのことが、好きです」と言ったこと。
「俺も」と返ってきたこと。
手を握られたこと。
「また明日」と言ったこと。
全部が昨日のことで、全部が今日に続いていた。
鍋の中の出汁が、静かに温まっていった。
朝ごはんの時間、向かい合って座った。
いつも通りに「いただきます」を言って、食べ始めた。
でも今日のいつも通りは、今まで一番、いつも通りであることが自然だった。
緊張が抜けていた。
正確には、今まであった種類の緊張が抜けていた。言葉にしていないものを抱えた緊張が。代わりに、別の種類の、もっと柔らかい何かがあった。
「今日の味噌汁、いつもと少し違いますか」
悠馬が言った。
「少し、出汁を多くしました」
「うまいです」
「ありがとうございます」
いつもと同じやり取りだった。
でも今日は、ありがとうございますと言うときの詩織の声が、昨日より少しだけ明るかった。
悠馬がそれに気づいたかどうかは、わからなかった。
でも、気づいていてほしかった。
昇降口を出て、歩き始めた。
いつもなら詩織の手が来るタイミングだった。
でも今日は、来なかった。
一歩、二歩。
来ない。
詩織が横を向いた。悠馬を見た。
悠馬が、詩織の手を取った。
詩織からではなく、悠馬から。
指が絡んだ。
今日は、悠馬が先だった。
詩織は前を向いた。
耳が熱くなった。顔が熱くなった。
でも今日は、それを隠さなかった。
隠せなかった、のかもしれない。
でも、隠さなくていい気がした。
悠馬も前を向いて歩いていた。
その耳が、今日も赤かった。
二人とも、赤いまま、並んで歩いた。
学校に着いて、昇降口で別れる前に、ひよりが来た。
詩織を見て、悠馬を見て、二人の手を見た。
今日も繋いでいた。昇降口の前まで繋いでいた。
ひよりはしばらく、その手を見ていた。
顔を上げて、詩織を見た。
詩織は頷いた。
ひよりの目が、少し潤んだ。
泣かなかった。でも潤んだ。
それをひよりは気づかれないようにしたらしく、すぐに明後日の方向を向いた。
「あー空が青いなー」
何でもない声で言った。
詩織は「ひより」と言った。
「なに」
「ありがとう」
ひよりはまだ明後日を向いていた。
「私なんもしてないし」
「してた」
「嘘ついてごめんね」
「もういいです」
「うん」
ひよりが振り返った。今度は目が潤んでいなかった。代わりに、いつものにやりとした笑いがあった。
「ゆーくん」
ひよりが悠馬に言った。
「はい」
「詩織のこと、よろしく」
「はい」
「嘘ついてごめんね」
「俺には大きなお世話でしたけど」
「そうだったね」
「でも、まあ」
悠馬が少し止まって、続けた。
「ありがとうございました」
ひよりが、一瞬だけ、また目を潤ませた。
また明後日を向いた。
「空が青いなー」
昼休み、屋上に来た。
詩織がすでにいた。
いつもの場所に座って、弁当箱を膝に置いて、空を見ていた。
俺が来たことに気づいて、こちらを向いた。
その顔が、今日は違った。
今まで詩織の顔は、いつも何かを抑えていた。感情が管理されていた。俺に向ける目も、どこかに何かをしまっていた。
でも今日は、しまっていなかった。
ただ、俺を見ていた。
それだけなのに、今日の詩織の顔が今まで一番きれいだった。
「来ましたね」
「はい」
隣に座った。
今日は、いつもより少しだけ近かった。
詩織も、少し近い気がした。
弁当箱を開いた。
今日の卵焼きを食べた。
甘かった。
いつもの甘さだった。
でも今日のいつもの甘さは、今まで一番、ただうまかった。
「詩織さん」
「はい」
「卵焼き、うまいです」
「ありがとうございます」
詩織が少しだけ笑った。
いつもの小さな笑いより、今日は少し大きかった。
俺はその笑いを、隣から見た。
見て、正面から受け取った。
帰り道、手を繋いで歩いた。
今日も悠馬から手を取った。
詩織は少しだけ驚いた顔をして、でもすぐに前を向いた。
夕方の住宅街を、二人で歩いた。
今日の帰り道は、いつもと同じ道だった。同じ曲がり角、同じ信号、同じ景色。
でも今日は、全部が少しだけ違う色をしていた。
知っているから、違う色をしていた。
繋いだ手が温かかった。
歩くたびに変わる力加減が、今日もわかった。
でも今日は、わかることを意識しなかった。
ただ、温かかった。
それだけで、十分だった。
「悠馬さん」
詩織が言った。
「はい」
「この道、何回歩きましたか」
俺は少し考えた。
「二か月弱なので、四十回くらい」
「そんなに」
「毎日ですから」
詩織が少しの間黙って、それから言った。
「最初の頃と、同じ道なのに」
「違いますね」
「全然違います」
詩織が言って、前を向いた。
俺も前を向いた。
同じ道が、全然違かった。
夜、夕ごはんを食べて、片づけをして、リビングに来た。
二人でソファーに座った。
昨夜と同じリビングだった。
昨夜と違うのは、昨夜は「言葉にしていないもの」があったが、今夜はなかった。
今夜のリビングには、言葉にしたものが静かに残っていた。
「悠馬さん」
「はい」
「最初の夜、覚えていますか」
「覚えています」
「荷解きして、夕ごはんを食べて」
「はい」
「あのときから、こうなるとは思っていませんでした」
「俺も」
詩織が少し俯いた。
「でも、今は」
「はい」
「こうなってよかったと思っています」
俺は詩織を見た。
詩織がこちらを向いた。
「俺も」
言ったら、詩織がまた笑った。
今日何度も見た、管理されていない笑いだった。
俺はその笑いを、今夜も受け取った。
おやすみなさいを言う前に、俺は詩織の手を取った。
昨夜と同じように。
今日も三秒だけ、握った。
離す前に、詩織の方から少しだけ握り返してきた。
ほんの少しだった。
でも、確かにあった。
離した。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
詩織が部屋に入った。
今日は振り返らなかった。
でも、扉が閉まる直前に、詩織の声が聞こえた。
「また明日」
扉が閉まった。
自分の部屋に入って、布団に横になった。
天井を見た。
今夜の胸の中を確認した。
静かだった。
温かかった。
満ちていた。
詩織が最初の夜のことを言っていた。荷解きをして、夕ごはんを食べた夜。あの夜の俺は、テーブルに並んだ夕ごはんを見て、胸のあたりがじんわりと温かくなった。
あの温かさは本物だった。
あのときすでに、何かがあったのだと思う。名前のないまま、でも確かにあった。
今夜の温かさは、あの夜の温かさの続きだった。
名前が、ついた続きだった。
壁の向こうに、詩織がいた。
好きな人が、そこにいた。
そして、好きな人は、俺のことが好きだと言ってくれた。
明日の朝も、詩織が来る。
布団に入ってくる。
「おきて」と言って、「悠馬」と呼んで、「おはよう」と言う。
俺は今日初めて「おはよう」と返した。
明日も、返す。
あさっても、返す。
これからずっと、返せる。
その事実が、今夜の布団の中で、静かに温かかった。
目を閉じた。
今夜は、すぐに眠れる気がした。
翌朝、廊下に足音が来た。
六時半前。いつものタイミング。
扉の前で止まった。
ノックが三回。
「悠馬さん」
扉が開いた。
足音が近づいてきた。
布団が持ち上がって、詩織が入ってきた。
「おきて」
低くて、柔らかくて、息が混ざっているような声。
「悠馬」
名前だけ。
俺は目を開けた。
詩織の顔が、今日もすぐそこにあった。
「おはよう」
詩織が言った。
「おはよう」
俺が言った。
目が合った。
どちらも逸らさなかった。
朝の光が、薄い布団の向こうに差し込んでいた。
詩織が、少しだけ笑った。
俺も、少しだけ笑った。
どちらも、笑いを隠さなかった。
今日も、また明日が来た。
それだけで、十分だった。




