第9話 領主ルーカスから見たインク職人
リネットが老婦人の魔導書を修復してから、数日が経った。
領主館の執務室には、紙をめくる音だけが響いている。
机の上には、各地から届いた報告書が積まれていた。
北門の結界記録。街道沿いで確認された魔物の数。
どれも後回しにはできない。
私は一枚ずつ内容を確認し、必要な指示を書き込んでいった。
「南の倉庫は、予定より修繕が遅れているな」
「資材の到着が三日ほど遅れたようです」
向かい側に立つアベルが答える。
アベルは私の側近を長く務めている。
茶色の髪を短く整え、いつも穏やかな表情を崩さない男だ。
ただし、その穏やかな顔で余計なことを言う。
そこは、もう少し崩してもいいと思う。
「冬までには間に合わせろ。必要なら人員を増やせ」
「承知しました」
私は次の報告書へ手を伸ばした。
領主館の倉庫で発見された古代魔導書についての記録。
寒冷地用の保存魔法が記されているらしいが、文字の多くが薄れ、現在は発動しない。
今は、リネットの工房へ預けている。
「本日も工房へ行かれるのですか?」
不意に、アベルが尋ねた。
私は報告書から顔を上げる。
「古代魔導書の進捗確認だ」
「昨日も確認なさいました」
「一日あれば進むだろう」
「便利な理由ですね」
「何が言いたい」
「いえ、何も」
何も言っていない顔ではなかった。
口元は笑っていない。
だが、目には明らかに何か含まれている。
「進捗を細かく確認するのは、依頼主として当然だ」
「以前、鍛冶工房へ城門の部品を依頼した時は、完成まで一度も確認に行かれませんでした」
「鍛冶と魔導書は違う」
「薬師へ冬用の薬を依頼した時も、報告書だけで済ませておられました」
「今回の魔導書は、領地の古い記録にも関わる」
「なるほど」
アベルは素直に頷いた。
納得したようには見えない。
「何だ」
「閣下が職人の進捗へ関心を持たれるのは、よいことだと思いまして」
「言い方に含みがあるな」
「気のせいです」
私はそれ以上相手にせず、報告書へ視線を戻す。
だが、文字が少し頭へ入りにくくなった。
リネットの工房へ行く回数が増えている。
その指摘自体は、間違っていない。
城門の結界を修復した後も、領主館からいくつか仕事を依頼している。
古代魔導書の修復。
結界用インクの予備の調合。寒冷地で使う素材についての確認。
理由はある。
少なくとも、今のところは。
数日前の光景を思い出す。
リネットの工房に広がった、不揃いな星空。
右側には多くの星が集まり、左側には不自然な空白があった。
中央近くには、周囲の三倍ほどもある大きな星が浮かんでいた。
初めて見た時は、修復に失敗したのかと思った。
だが、老婦人は涙を流しながら、あれこそが夫の星だと言った。
リネットは、曲がった線をきれいに整えなかった。
大きすぎる星も、小さくしなかった。
依頼人が取り戻したいものが、美しい星空ではないと見抜いたからだ。
老婦人が何度礼を言っても、リネットは自分の功績を誇らなかった。
残っていた線を辿っただけだと答えた。
あれだけの仕事を、特別なことではないように。
最初に彼女の工房を訪れた時も、そうだった。
街へ来たばかりで、北門の結界に使われたインクの異常を見抜いた。
だが、勝手に触れなかった。
自分が正しいと証明するより、誰かが結界を確認することを優先した。
できることと、できないこともはっきり分ける。
修復できる可能性はある。
だが、状態を見るまでは断言しない。
必要な報酬について尋ねれば、金にはかなり執着があると即答した。
その一方で、老婦人からの依頼は、採算が取れないとわかった上で引き受けている。
『採算は取れるのか?』
『取れません』
迷いのない返事だった。
だが、同情だけで受けたわけではない。
領主館に残っていた夜光草も、無償では受け取らなかった。
古い在庫でも材料には違いない。
仕事として引き受けた以上、必要な費用を払い、結果へ責任を持つ。
優しいだけではない。
職人としての筋を、自分の中に持っている。
最初は、領地に必要な人材だと思った。
辺境には専門の職人が少ない。
結界用インクだけでなく、生活用インクも作れる。
古い魔導書を修復し、個人が作った独特なインクまで再現できる者など、王都でもほとんどいないだろう。
だから領地公認の職人になるよう誘った。
しかし、リネットはすぐには受けなかった。
自分の名前で工房を開いたばかりだから、もう少し自分でやってみたい。
そう言った。
完全に断られたわけではない。
それでも、残念に感じた。
あの時は、優秀な職人を領地へ繋ぎ止められなかったからだと思っていた。
今も、その考えが間違っているわけではない。
だが、彼女について考えるうちに、別の疑問も浮かんでいた。
「アベル」
「はい」
「リネットについて、少し調べてくれ」
アベルの目が、わずかに細くなる。
「工房へ行く理由を増やすためでしょうか」
「違う」
「そうですか」
「なぜ少し残念そうなんだ」
「気のせいです」
私は机の上にある、古代魔導書の記録へ視線を落とした。
「彼女は王都のエルフォード商会にいたと言っていたな」
「はい。商業ギルドへ提出された紹介状にも、そのように記載されております」
「エルフォード商会の魔法インクは、王都でも知られている。保存用インクや魔力軽減用の商品も扱っていたはずだ」
「私も聞いたことがあります」
「だが、職人としてリネットの名前は聞いたことがない」
あれほどの腕を持つ職人が、これまでまったく名を知られていなかった。
それは不自然だった。
王都で評判になるほどの商品を作れる工房なら、中心となる職人の名も残る。
少なくとも、大規模な術式や魔導書を修復できる者なら、一度くらいは記録に出てくるはずだ。
だが、リネットという名はなかった。
彼女自身も、自分の技術を隠しているようには見えない。
むしろ、自分の名前が仕事の上に残ることを、ひどく大切にしていた。
領主館からの依頼書に、自分の名前が書かれている。
ただそれだけのことを、彼女は嬉しそうに見ていた。
自分で書いた工房の看板もそうだ。
少し不格好だと言いながら、消そうとはしなかった。
「名前を出すことを避けていた職人には見えない」
「では、誰かが出さなかったと?」
「まだわからない」
家族の工房で働いていた。
その家族から離れ、一人で辺境へ来た。
詳しい事情を、私は聞いていない。
本人が話そうとしていないことを、領主という立場で無理に聞くつもりもなかった。
ただ、彼女ほどの腕を持つ職人の功績が、単に裏方だったというだけで説明できるのだろうか。
誰かの名前の後ろへ隠されていたのか。
あるいは、最初から彼女の仕事ではなかったことにされていたのか。
「エルフォード商会の商品と、これまで発表された技術を調べろ」
「リネット殿が在籍していた時期のものを中心に?」
「ああ。特に、魔力軽減用インク、保存用インク、魔導書の修復記録だ」
「承知しました」
「誰の名義で発表され、誰が実際に工房で作業していたのか。可能な範囲でいい」
アベルは手元の紙へ内容を書き留める。
「本人には知られないようにした方がよろしいでしょうか」
「今はな。まだ何もわかっていない。余計な不安を与える必要はない」
「かしこまりました」
今回の調査は必要なことだ。
彼女の技術が誰かに奪われていたのなら、今後、同じことが起きないようにしなければならない。
この領地で働く限り、少なくとも彼女の仕事は彼女の名前で残す。
それは領主として当然のことだった。
私は報告書をまとめ、椅子から立ち上がる。
「午後の予定は?」
「二時間後に結界管理官との打ち合わせがございます」
「それまでは?」
「空いております」
「なら、工房へ行く」
「古代魔導書の進捗確認ですね」
「そうだ」
「一日あれば進みますからね」
「……最近、口数が増えたな」
「閣下が話題を提供してくださいますので」
やはり、アベルは穏やかな顔を少し崩した方がいい。
――彼女の工房へ着くと、扉の向こうから硝子の触れ合う音が聞こえた。
鈴を鳴らして中へ入る。
「いらっしゃいませ」
作業机の前にいたリネットが顔を上げた。
髪を後ろで簡単に束ね、指先には青いインクがついている。
「ルーカス様。今日はどうされましたか?」
「古代魔導書の進捗を確認しに来た」
「昨日もお話ししましたが」
「一日あれば進むだろう」
「まあ、確かに進んでいますが」
リネットは机の上を少し片づけ、領主館から預けた魔導書を開く。
「昨日より、二ページほど進みました」
「本当に進んでいるな」
「一日ありましたので」
「……そうか」
アベルに聞かせたい言葉だった。
リネットは消えかけた文字を指した。
「こちらは保存の術式ではなく、内部の魔力を循環させるためのものだと思います。ただ、現代の術式とは流れが逆です。こちらのほうがこの土地に合っていたのかもしれませんね」
彼女は説明しながら、紙へ簡単な術式を書く。
迷いなく動く筆先。
仕事の話をしている時のリネットは、普段より少しだけ表情が明るい。
本人に自覚があるかは、わからない。
「随分と楽しそうだな」
「そう見えますか?」
「ああ」
「では、表にも出るようになったのでしょうか」
「何が?」
「楽しさです。以前は内側にしか出ていないと言われましたので」
「少しだけな」
「成長しました」
「誇るほどではない」
「少しでも成長は成長です」
真顔で言うから反論しにくい。
説明を聞き終え、魔導書を閉じる。
本来なら、これで用件は終わりだった。
だが、すぐに工房を出る気にはならなかった。
棚へ目を向けると、透明な液体が入った小瓶がいくつか並んでいる。
「新しいインクか?」
「書類用の保護インクです」
リネットは小瓶を一つ取り、こちらへ差し出した。
「ちょうどよかったです。こちらを」
「何だ?」
「夜光草を探していただいたお礼です」
「俺に?」
「はい。領主様は書類が多そうなので」
「……そういう理由か」
思わず口にすると、リネットが首を傾げた。
「他に何か必要でしたか?」
「いや、それでいいが」
受け取った小瓶を光へ傾ける。
無色に近い液体の中に、青い粒がわずかに浮かんでいた。
「乾いた文字の上へ薄く塗れば、水や湿気で滲みにくくなります」
「古い書類にも使えるのか?」
「紙の状態によります。傷んでいるものへ大量に塗ると、紙より先にインクだけ元気になります」
「インクが元気になるとは、どういう状態だ」
「文字だけ長く残りますが、紙から先に痛むと思います」
「書類としては意味がないな」
「はい。ですから、薄く塗ってください」
随分と注意の必要な贈り物だった。
だが、彼女が作ったものなら、説明通りに使えば問題はないだろう。
「材料費は?」
「これはお礼なので、必要ありません」
「古い在庫でも材料だと言っていたのは君だろう」
「今回は私が勝手に作ったものです」
「それでも材料は使っている」
「では、領主館の魔導書を修復した報酬へ少し上乗せしてください」
「……結局受け取るのか」
「工房の経営は大切ですから」
「老婦人の依頼では採算を捨てていたが」
「あれは特別です」
迷いのない返事だった。
私は小さく息を吐く。
「わかった。正当な額を支払う」
「ありがとうございます」
「ただし、これは礼として受け取る」
「はい。最初からそのつもりです」
私が少し遠回りをしただけらしい。
小瓶を上着の内側へしまう。
リネットはすぐに作業机へ向き直った。
彼女にとっては、仕事の手助けに対する礼にすぎない。
それでも、受け取ったものを側近へ預ける気にはならなかった。
「では、私は戻る」
「はい。明日までに、さらに調べておきます」
「無理はするな」
「無理はしていません」
「はい、ぐっすりと」
「そうか、それならよかった。あの老婦人のように、健康にな」
「はい、ルーカス様も」
そう話してから、工房を出る前に一度だけ振り返る。
自分の名前で依頼を受け。
自分の工房で、自分の技術を使う。
彼女が望んでいたものは、きっとそれほど大きなことではなかった。
だが、それすら今まで与えられていなかったのかもしれない。
まだ、何もわからない。
だからこそ、調べる必要がある。
領地に必要な職人だから、気になる。
今は、それで十分だった。
ただ、上着の内側にある小瓶を、誰かへ預ける気になれない理由までは……。
まだ考えないことにした。




