第10話 辺境領に合った商品を
老婦人の魔導書を修復してから、しばらく経った。
それまで静かだった工房にも、少しずつ人が来るようになっていた。
「こちらで、古い魔導書を直していただけると聞きまして」
「はい。状態を見せていただけますか?」
「この魔道具も見てもらえるかい?」
「もちろんです」
朝から、そんなやり取りが何度か続く。
老婦人が知人へ話してくれたらしい。
その話は思っていた以上に早く広まった。
古い魔導書を抱えてくる人。文字が薄れて使えなくなった魔道具を恐る恐る机へ置く人。
以前より、工房らしくなってきた気がする。
とても嬉しい、嬉しいのだけれど。
「……修復ばかりですね」
客が帰った後、私は机の上へ並んだ依頼書を見つめた。
仕事があるのはありがたい。
ただ、修復には時間がかかる。
魔導書なら、まず紙の状態を調べる。
使われているインクを調べる。
術式を読み取り、消えている箇所を探す。
必要なら材料を取り寄せる。
一件終えるまでに、数日かかることも珍しくない。
当然、材料費も安くはない。
報酬はそれなりにいただける。
けれど、毎日修復依頼が来るわけでもない。
工房の家賃。材料費。筆や瓶の買い替え。
帳面へ数字を書き込んでいく。
「……やはり生きていくには、お金が必要ですね」
当たり前のことだった。
実家にいた頃は、工房の家賃を考えたことなどなかった。
材料も商会の倉庫にあった。
今は違う。自分で稼いで、自分で買う。
自由というものは、思ったより少し高い。
でも、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、自分で考えられることが嬉しい。
「修復以外の商品も必要ね」
私は棚を見る。
そこには、自分で作った生活用インクがいくつか並んでいる。
書類用の保護インク。簡単な補修用インク。
ただ、どれも毎日のように買うものではない。
もっと、この土地で暮らす人が普通に使えるもの。
辺境だからこそ必要になる商品。
「そろそろ冬ね……」
窓の外を見る。
空気は、以前よりずっと冷たくなっていた。
朝になると、窓の端が白く曇っていることもある。
街を歩く人の外套も、少しずつ厚くなっていた。
この辺境では、冬は長い。
なら、冬の困り事を聞いてみればいい。
その日の午後。
工房へ来た女性へ、依頼が終わった後に尋ねてみた。
「冬になると、何か困ることはありますか?」
「困ること?」
「はい。生活の中で、不便だと思うことです」
女性は少し考える。
「うーん、雪で靴がびしょびしょになるね」
「靴ですか」
「外套の裾もね。乾かしても、次の日にはまた濡れる」
私は帳面へ書き込む。
防水。布や革へ使えるものなら、需要はありそうだ。
「他には?」
「薪かな。湿ると火がつかなくて」
「薪……」
「朝なんて大変よ。寒いのに、火がつかないんだから」
それはかなり困る。
寒いから暖炉を使いたい。
けれど、寒い時ほど雪や湿気で薪が使いにくい。
「水桶も朝には凍っているよ」
「全部凍るんですか?」
「寒い日はね」
「……冬の寒さというのは、かなり仕事熱心ですね」
「ふふっ、そうね。余計なところでね」
女性が笑った。
私は帳面へ、さらに書き足す。
靴や衣服の防水。薪の乾燥。水桶の凍結防止。
どれも作れそうな気はする。
翌日。
近くの農家から来た男性にも尋ねてみた。
「冬に一番困ることは何ですか?」
「寒いことだな」
「……魔法インクで解決できそうなものをお願いします」
「じゃあ、冬を消すインクは?」
「かなり難しいです」
「そうか。残念だ」
本当に少し残念そうだった。
そこまで期待されても困る。
「冬の食べ物は?」
私が尋ねる。
「ああ、それならある」
男性はすぐに頷いた。
「冬は外に置いておくと凍る」
「外に?」
「倉庫に置いても、ほとんど外気と同じくらいの温度になるからな」
凍った野菜は、解けた後に水っぽくなる。
種類によっては、味も食感も大きく落ちるらしい。
「では、家の中に置けば?」
「今度は暖かすぎる」
「なるほど、暖炉があるから?」
「そう。腐りやすくなるんだ」
私は筆を止める。
「外へ置くと凍って、中へ置くと腐るのですか?」
「そうなんだよ」
「ちょうどいい場所は?」
「そんな場所があれば、みんな使っているよ」
「それもそうですね」
男性は苦笑しながら続ける。
「だから、天気を見ながら場所を変えるんだ。今日は外、明日は中って」
「毎日ですか?」
「ひどい時は、一日に何度もだ」
「食料の方が忙しそうですね」
「俺より出たり入ったりで忙しいかもしれん」
笑いながら話している。
けれど、実際にはかなり面倒なのだろう。
別の日に来た女性からも、似た話を聞いた。
「夜は外に出して、朝になったら中へ入れているよ」
「毎日ですか?」
「毎日さ。食料の方が私より丁寧に出入りしているよ」
「かなり大切にされていますね」
「私も同じくらい大切にされたいものだね」
女性は笑った。
ただ、家庭によっては夜中に起きて様子を見ることもあるらしい。
寒さが厳しくなれば、短時間で凍ってしまう。
逆に暖炉の近くへ置けば、すぐに温まりすぎる。
肉や魚は、さらに扱いが難しい。
商店の中には保存用の魔道具を持っているところもある。
けれど、価格が高い。
しかも、常に冷却魔法を動かすため、大量の魔力を使う。
魔力の少ない人には使い続けられない。
家庭向けとは言いにくかった。
何人かへ話を聞くうちに、帳面の一ページが冬の困り事だけで埋まった。
私は工房へ戻り、机の上へ帳面を広げる。
防水。乾燥。凍結防止。そして、食料保存。
一つずつ見ていく。
防水インクは、それほど難しくないと思う。
革や布の表面に薄い魔力膜を作ればいい。
薪も、表面の水分だけを飛ばす程度なら作れるかもしれない。
問題は、食料だった。
「外だと凍る。中だと腐る……」
声に出してみる。
当たり前のようで、難しい。
外気を完全に遮断するだけなら、箱の中は徐々に室温へ近づく。
暖炉のある部屋なら、結局は暖まりすぎる。
逆に冷却魔法を使えば、今ある保存用魔道具と同じだ。
魔力消費が大きくなる。
「暖めるわけでも、冷やし続けるわけでもない」
必要なのは、その間。
凍らない。
でも、腐りやすいほど暖かくもならない。
一定の温度を保つこと。
私は棚から、領主館から預かっている古代魔導書を取り出した。
修復を進めている、寒冷地用の保存術式。
そこに書かれていたのは、魔力を一方向に流す現在の術式とは違うものだった。
内部に魔力を留めず、ゆっくりと循環させる。
温度が一か所へ偏らないようにするような構造。
「これを使えば……」
私は紙を取り出す。
古代魔導書の術式をそのまま使うことはできない。
規模が大きすぎる。
もともとは倉庫か、大型の保存室で使うものだった可能性が高い。
でも、小さく組み直せば。
普通の木箱に書けるくらいまで、術式を簡単にすれば。
高価な保存魔道具を買わなくてもいい。
今ある箱へ、専用のインクで術式を書くだけ。
少量の魔力を流せば、箱の中の温度を安定させる。
「……できるかもしれない」
筆を取る。
保存箱に使うなら、強い魔力は必要ない。
むしろ、強すぎれば中身に影響する。
野菜を保存したいのに、魔力を受けすぎて腐ったりしたら本末転倒だ。
「まずは、普通の木箱で試してみましょう」
工房の隅に置いてある箱を見る。
材料を入れていた、何の変哲もない木箱だ。
これで成功すれば、特別な箱を買う必要はない。
どこの家にもある箱が、そのまま保存箱になる。
専用のインクだけを買えばいい。
それなら、家庭でも使える。
私は新しい帳面を開き、上の方へ大きく書いた。
『冬用保存インク』
その下へ、必要な条件を書いていく。
少ない魔力。
既存の木箱で使用可能。
凍結を防ぐ。
暖まりすぎるのも防ぐ。
安価な材料。
一つずつ書くたびに、頭の中で術式が形になっていく。
修復とは違う。
残っているものを辿るのではない。
今度は、自分で最初から作る。
けれど、古い魔導書に残されていた技術が、その助けになっている。
昔の誰かが辺境の寒さに悩み、考えた術式。
それを今の暮らしに合わせて作り直す。
そう考えると、少し楽しくなった。
たぶん、表情にも少しくらい出ている。
筆先をインクへ浸した。
食料を凍らせず、暖めすぎない箱を、冷蔵できる箱を作る。




