第8話 不揃いの星空
修復を終えたのは、夜が明ける少し前だった。
最後の線へインクを置き、筆を離す。
魔導書に書かれた術式が、淡く青く光った。
「……できた」
小さく息を吐く。
元の魔導書に残っていた魔力は、今までで一番穏やかに流れている。
試しに発動させたい気持ちはあった。
ただ、この魔法を最初に見るべきなのは私ではない。
私は魔導書を閉じ、乾燥用の布をかけた。
それから椅子へ座る。少しだけ休むつもりだった。
目を閉じた次の瞬間、窓の外がすっかり明るくなっていた。
「……少し?」
どうやら、私の中の少しと、朝の考える少しには違いがあるらしい。
急いで顔を洗い、工房を整える。
老婦人へは、昨日のうちに修復が終わりそうだと手紙を送っていた。
昼頃には来る予定だ。
店の扉を開けてしばらくすると、鈴が鳴った。
「失礼する」
入ってきたのはルーカスだった。
今日も簡素な黒い上着を着ている。
手には、領主館から預かっている魔導書についての書類があった。
「おはようございます」
「おはよう? もう昼だが」
「私の中では、少し前まで朝でした」
「また夜通し作業していたのか?」
「少しだけ」
「……君のその言葉は信用しないことにする」
どうやら、ルーカスも私の中の『少し』を理解し始めている。
あまりありがたい成長ではない。
「依頼した魔導書について、確認したいことがある」
「はい。そちらへどうぞ」
私は領主館の魔導書を机の端から取り出した。
保存術式の構造について、いくつか不明な部分がある。
ルーカスは古い領地の記録も調べてくれていた。
二人で紙を見ながら話していると、再び扉の鈴が鳴った。
「あの……」
入口に、老婦人が立っていた。
前に来た時と同じ茶色の外套を着ている。
けれど今日は、少し落ち着かない様子だった。
「お待ちしていました」
私は立ち上がる。
老婦人は店内へ入り、ルーカスを見て足を止めた。
「まあ、辺境伯様」
「今日は別の用件で来ている。気にしないでくれ」
「そうでしたか」
老婦人は丁寧に頭を下げた。
ルーカスは持っていた書類を閉じる。
「私は後で来よう」
「あら」
老婦人が彼を呼び止めた。
「よろしければ、あなたも見ていってください」
「私も?」
「ええ。こちらの職人さんが修復してくださった魔法です。見てくださる方が多い方が、夫も喜ぶと思います」
ルーカスは少し迷うように私を見た。
私は頷く。
「私は構いません」
「……では、見届けさせてもらおう」
ルーカスは壁際へ下がった。
老婦人は作業机の前へ座る。
私は布を取り、修復した魔導書を両手で持ち上げた。
「お預かりしていた魔導書です」
老婦人は、差し出された魔導書をじっと見つめた。
すぐには手を伸ばさない。
表紙は預かった時とほとんど変わっていない。
色褪せた革も、錆びた留め具も、そのままだ。
新しく作り直すこともできた。
けれど、それではご主人が長く触れていた魔導書ではなくなる。
「表紙は、あまり変えていないのですね」
「はい。破れやすい部分だけ、裏側から補強しました」
老婦人が、そっと表紙へ触れる。
「この傷も」
「残しました。魔法の発動には影響がありませんでしたので」
「これは、夫が棚から落とした時についた傷です」
「では、残してよかったです」
「本人は私が落としたと言い張っていましたけれど」
「ご主人が?」
「ええ。私は棚に手が届きませんでした」
「……かなり無理のある主張ですね」
「そうでしょう?」
老婦人が小さく笑った。
緊張していた表情が、少しだけ柔らかくなる。
私は魔導書を開いた。
修復した術式が、淡い光を受けて浮かび上がる。
「残っていた術式と魔力から、できる限り元の形に戻しました」
「ありがとうございます」
「ただ、綺麗には直していません」
老婦人が目を瞬く。
「綺麗に?」
「曲がった線や、大きさの違う星も、そのまま残しています」
私は一つだけ大きく描かれた星を指した。
「標準的な術式へ直すと、きれいな星空は映りました。ですが、魔導書に残っていた魔力とは合わなかったんです」
「そうなのですね」
「直してしまうと、別の魔法になる気がしたので」
老婦人は、しばらく術式を見つめた。
それから、一つずつ線を目で追う。
「夫の字です」
小さな声だった。
「ここも。この曲がったところも、あの人が書いたものです」
「消えていた部分は、残った顔料と魔力を辿って補いました」
「では、まだあの人の書いたものが残っているのですね」
「はい」
老婦人は魔導書を胸へ抱いた。
すぐに涙が浮かびそうになるのを、少し堪えているようだった。
「発動させてみましょうか」
「ええ」
「魔力は、ゆっくり流してください。以前より紙が弱くなっていますから」
「わかりました」
老婦人は魔導書を机へ置いた。
両手を表紙へ添える。
指先から、淡い魔力が流れ込んだ。
術式が、ゆっくりと青く光る。
すぐには何も起こらなかった。
老婦人の指が、わずかに震える。
失敗したと思ったのかもしれない。
「大丈夫です」
私は静かに言う。
「この魔法は、元から発動に時間がかかるようです」
「夫は、いつも魔力を流してから天井を見ていました」
「では、もう少し待ちましょう」
数秒後。
工房の天井に、小さな光が一つ灯った。
淡い青白い星。
その隣に、もう一つ。三つ、四つと、ゆっくり増えていく。
光は天井だけではなく、壁の上まで広がった。
工房の中が、夜のように暗くなる。
窓から昼の光が入っているはずなのに、星空だけがはっきりと見えた。
星の位置は揃っていない。
右側には多く、左側にはほとんどない。
明るく輝く星の隣で、消えそうなほど弱い光が揺れている。
中央近くには、一つだけ不自然なほど大きな星があった。
周囲の星三つ分ほどある。
「……このような星空の形は見たことがないが」
壁際にいたルーカスが、わずかに眉を寄せた。
失敗している、と思っている顔だった。
私も、試験で初めて見た時は同じことを思った。
老婦人は天井を見上げている。
目を大きく開き、一言も話さない。
やはり違っていたのだろうか。
胸の奥が、少し冷たくなる。
その時……老婦人の口元が、ゆっくりと緩んだ。
「あの人の、魔法だわ」
笑うような声と一緒に、涙がこぼれた。
「あの人の星です」
老婦人は、中央の大きな星を指さす。
「あの人、星の位置を覚えるのが苦手だったの。庭で空を見てから戻ってくる頃には、もう半分ほど忘れていて」
以前も、そんな話をしていた。
「それで、いつも星が右側に寄ってしまうのです」
「左側の空白も、そのためですか?」
「ええ。左側まで覚えていられなかったのでしょうね」
老婦人は涙を拭いながら笑った。
「この大きな星も。何度直しても、いつも一つだけ大きすぎたの」
失敗ではなかった。
少なくとも、老婦人にとっては。
ご主人が見た空を、記憶だけで必死に書き写した跡だった。
「初めてこの魔法を見せてくれた時、夫は何度も謝ったのです」
老婦人の声が、星空の下へ静かに広がる。
「本物の星空とは全然違う。もっときれいに作るつもりだった、と」
「ご主人は、失敗したと思っていたのですね」
「ええ。でも、私は嬉しくて」
老婦人は魔導書へ手を置く。
「王都の外にある本物の星空より、ずっと綺麗だと言いました」
天井の星が、ゆっくりと瞬く。
大きな星だけが、少し遅れて強く光った。
「あの人が作った星だから、よかったのね」
老婦人の目から、また涙がこぼれる。
「綺麗だから好きだったのではありません。あの人が私のために、何年もかけて作ってくれたから」
老婦人は魔導書を抱きしめた。
「魔導書だけではなく、あの人と過ごした時間まで戻していただいたようです」
「私は、残されていた線を辿っただけです」
そう答えると、老婦人は首を横へ振った。
「その残されたものを、見つけてくださったのはあなたです」
私は何も言えなかった。
魔導書を直す時、いつも考えるのは術式のことだった。
どの線が消えているのか。どんなインクが使われていたのか。
どうすれば、以前と同じ魔力を流せるのか。
それが仕事だと思っていた。
もちろん、それは間違っていない。
けれど、この魔導書に残っていたのは術式だけではなかった。
ご主人が庭と机を何度も往復した時間。
失敗するたびに書き直した線。
妻へ星空を見せたいと思った気持ち。
それらも、インクの中に残っていた。
「本当に、ありがとうございます」
老婦人は何度も頭を下げた。
「大切に使ってください。ただ、紙が弱くなっていますので、毎日発動させるのは控えた方がいいと思います」
「ええ、毎日は使いません。夫の誕生日と、結婚記念日と、私の誕生日に」
「年に三回ですね」
「それから、夫を思い出した日にも」
「それは、これからかなり増えそうですね」
「ふふっ、そうかもしれません」
老婦人が笑う。
「大丈夫です。使った後は、きちんと休ませます」
「魔導書も、ご本人も休んでくださいね」
「私は健康ですから」
「前にも聞きました」
「ええ、まだ健康です」
数日前より、少しだけ元気に見えた。
星空がゆっくりと薄くなっていく。
最後に残ったのは、あの大きな星だった。
一度だけ強く瞬き、光が消える。
工房に昼の明るさが戻った。
老婦人は魔導書を大切そうに胸へ抱える。
「知り合いにも、この工房を紹介します」
「ありがとうございます」
「古い魔導書を持っている人は、意外と多いのですよ」
「無理に壊れたものを探さなくても大丈夫です」
「あら。商売に熱心ではないのですね」
「壊れていない方がいいですから」
「それもそうですね」
老婦人は最後にもう一度頭を下げ、工房を出ていった。
扉の鈴が鳴る。
ルーカスは何も言わず、閉じた扉を見ていた。
老婦人と私が話している間も、ほとんど口を挟まなかった。
ただ、星空と老婦人を静かに見ていた。
「……無事に直ってよかったです」
私が言うと、ルーカスは天井を見上げた。
「そうだな」
短い返事だった。
けれど、いつもより声が少し柔らかかった。
私は作業机へ残った試験紙を集める。
自分が直したのは、古い魔導書だけではなかった。
誰かが失いたくなかった景色。
もう一度会いたいと願った時間。
それを少しだけ、戻すことができた。
星空はもう消えていた。
それでも工房の中には、少しだけ暖かな光が残っているような気がした。
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