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第7話 綺麗に直さない


 老婦人から預かった魔導書を調べ始めて、三日が経った。

 作業机の上には、薄く削り取った顔料と、小さな試験紙が並んでいる。


 黒。青。銀。光へ透かすと色が変わる。

 普通の星空投影用インクなら、高純度の銀粉を使う。


 けれど、この魔導書に残っている銀色は、少し鈍かった。

 光を当てると、表面だけが淡く輝いた。


「光鉱石ね」


 王都でも売られている、安価な鉱石だ。

 強い光は出ない。魔力を長く保つこともできない。


 けれど、細かく砕けば銀粉の代わりになる。

 銀粉の十分の一ほどの値段で手に入るため、練習用の魔導書にも使われていた。


 ご主人は、高価な材料を買えなかったのだろう。

 その代わりに、手に入るものを工夫して使った。


 次は、青い顔料。

 星属性のインクなら、星砂や月光花を混ぜることが多い。


 けれど、この匂いは違う。

 乾いた草のような香りが、わずかに残っている。


 魔力を流すと、淡い青色の光が浮かんだ。

 強くはない。けれど、暗い場所なら十分に見える。


 昔、夜道を照らすために使われていた薬草に似ている。

 名前は確か――。


「夜光草」


 今では、ほとんど使われていない。

 光量が弱く、育てるのにも時間がかかる。


 より明るく、簡単に育つ月灯草が広まってから、扱う店は減ったと聞いている。

 現在使われているものより扱いにくい。


 温度が少し変わるだけで、固まり方にも差が出る。


「よく、これで作ったわね……」


 思わず声が漏れた。


 材料は安い。けれど、安いから簡単というわけではない。

 むしろ品質が安定しない分、調整は難しい。


 同じ量を混ぜても、毎回同じインクにはならなかったはずだ。


 ご主人は何度も試したのだろう。

 失敗するたび、材料を変えて。濃さを変えて。


 それでも諦めずに、星を増やしていった。


 私は試験紙へ、推測した配合でインクを作る。

 黒かった液体が、少しずつ深い青へ変わっていく。


「……近い」


 魔導書に残る色と比べる。

 完全には同じではない。けれど、方向は間違っていないと思う。


 問題は、術式の方だった。


 私は魔導書を開き、星空を映す術式を紙へ写し取る。

 星の配置を示す文字。光の強さを決める線。天井へ像を広げるための術式。


 一つずつ見れば、意味は理解できる。

 ただ、全体になると少しおかしい。


「この星、位置がずれている」


 一般的な星空投影魔法なら、星は一定の間隔で配置する。

 けれど、この魔導書では右側へ星が寄っている。


 左側には空白が多い。

 同じ光点を示す文字も、場所によって形が違う。


 一つだけ、他の三倍ほど大きく書かれた星まであった。


「これは、書き損じかしら」


 線が重なった跡もある。

 途中で太くなり、急に細くなる。


 専門家が見れば、書き直したくなる形だった。

 私も書き直したくなった、とても。


 筆を持つ手が、少し落ち着かない。


「まずは、標準的な形で試しましょう」


 私は試験用の紙へ、星空投影の術式を書いた。

 先ほど作ったインクを使い、魔力を流した。


 次の瞬間、工房の天井に星が広がった。

 青白い光が、均等に並んでいる。


 明るさも揃っていた。きれいだ。

 少なくとも、魔法としては成功している。


「……でも」


 何かが違う。

 魔導書へ残っている魔力と、噛み合っていない。


 古い魔力の痕跡は、もっと不規則だった。

 強く光る場所。ほとんど消えかけている場所。


 整えた術式には、その揺れがない。

 完成度は高い。


 けれど、ご主人が作った魔法ではないように思えた。


 星が消える。

 工房の天井が、元の木目へ戻った。


「きれいすぎるのね」


 きれいであることが、悪いわけではない。

 ただ、老婦人が見たいものは、これではないのかもしれない。


 私は元の魔導書へ視線を戻した。

 その時、扉の鈴が鳴った。


「いらっしゃいませ」

「邪魔をする」


 入ってきたのはルーカスだった。

 今日も簡素な黒い上着を着ている。


 辺境伯だと知った後でも、この姿で工房へ来られると、領主というより結界に詳しい客に見える。

 実際、最初はそう思っていた。


「依頼した魔導書の進み具合を確認しに来た」

「そちらは、まだ少しかかります」

「そうか」


 ルーカスは作業机を見る。


 領主館から預かった魔導書は、端へ丁寧に置いてある。

 中央に広がっているのは、老婦人の魔導書と試験紙だ。


「別の仕事か?」

「はい。数年前に亡くなったご主人が作った魔導書です」


 私は老婦人から聞いた話を簡単に説明した。


 妻のために星空を映す魔法を作ったこと。

 今は文字が薄れ、発動しなくなったこと。


 もう一度だけ見たいと望んでいること。


 ルーカスは魔導書へ視線を落とした。


「個人で作ったのか」

「そうです。専門家ではなかったようですが、五年かけて完成させたそうです」

「五年もか」

「星を見に行った方が早かったと、ご本人も途中で気づいたそうです」

「それでも続けたのか」

「はい。気づくのが遅かったのかもしれません」

「そういう問題ではないだろう」


 ルーカスは小さく息を吐いた。

 けれど、少しだけ口元が緩んでいる。


「修復はできそうか?」

「まだ調査中です。インクの材料は、ほとんど特定できました」


 私は紙に書いた一覧を見せる。


「高価な銀粉ではなく光鉱石。星属性素材ではなく夜光草。それと、現在は使われていない古い樹液です」

「手に入るのか?」

「光鉱石はあります。樹液も代用品を作れます。ただ、夜光草だけが見つかりません」

「夜光草……」


 ルーカスは少し考える。


「昔の祭礼で使われていたはずだ」

「祭礼に?」

「夜になると、道沿いへ淡い光を並べていたらしい。今は別の魔道具を使っているが、領主館の古い倉庫に残っているかもしれない」


 私は顔を上げた。


「本当ですか?」

「確認してみよう」

「よろしいのですか?」

「使われずに眠っているなら、その方がいい」

「では、材料費は依頼していただいた魔導書の報酬から引いてください」

「……わかった。この依頼の報酬は、いくらだ?」


 私は金額を伝えた。

 ルーカスは少し黙った。


「採算は取れるのか?」

「取れません」

「即答するのか」

「すでに計算しましたので」

「なら、なぜ引き受けた」

「採算が取れないことと、引き受けたくないことは別です」


 ルーカスは、また黙った。

 今度は少し長かった。


「……君は商売に向いていないのではないか?」

「毎回これでは困りますが、今回は特別です」

「特別?」

「直せる可能性があるなら、直したいと思いました」


 老婦人が魔導書を手放す前に、表紙を撫でていた。

 もう一度だけ、夫の星を見たいと言った声。


 あれを聞いた後で、利益が少ないからと断る気にはなれなかった。


「ただし、仕事として引き受けた以上、必要な費用はきちんと計算します」

「夜光草を無償で受け取る気もない?」

「はい」

「古い在庫だぞ」

「古くても材料です」

「そうすると、この以来の報酬はほとんど残らないぞ」

「最初から、ほとんど残らない予定です」

「胸を張るところではない」

「ですが、仕事ですから」


 ルーカスは呆れたように私を見る。

 けれど、その目は少し柔らかかった。


「わかった。倉庫を確認させる」

「ありがとうございます」

「見つかった場合は、正式に材料として計上する」

「お願いします」

「本当に残らなくなるぞ」

「まだ少しは残ります」

「少しか」

「少しです」


 思っていたより、工房の経営は難しい。

 技術だけでは、家賃は払えない。


 インク瓶も勝手には増えない。

 世の中は厳しい。けれど、今回はそれでよかった。


 ルーカスは試験紙へ視線を向ける。


「これは?」

「先ほど作った星空です」

「成功したのか?」

「魔法としては」

「曖昧だな」

「綺麗に発動しました。でも、元の魔導書に残る魔力とは合いませんでした」

「綺麗なのに駄目なのか」

「老婦人が見たいのは、きれいな星空ではないかもしれません」


 私は一つだけ大きく描かれた星を指した。


「ご主人の術式には、ずれや歪みが多くあります。最初は直すべきだと思いました」

「今は違う?」

「まだ、わかりません」


 ルーカスは魔導書を見つめた。


「直しすぎれば、別の魔法になるか」

「その可能性があります」

「難しい仕事だな」

「はい。だから、とても楽しいです」

「楽しそうには見えない」

「内側では、かなり」

「以前も聞いたな、それは」


 覚えていたらしい。

 ルーカスはそれ以上何も言わず、工房を出ていった。


 翌日の昼前。

 再び扉の鈴が鳴った。


「見つかった」


 入ってきたルーカスは、小さな木箱を抱えていた。

 中には、乾燥した青白い草が入っている。


 古いものだが、魔力はまだ残っていた。


「夜光草……」

「祭礼倉庫の奥にあった。箱には二十年前の日付が書かれていた」

「かなり古いですね」

「倉庫の管理については、後で確認する」

「見つかったので、今回はよかったのでは?」

「領主としては、よくない」

「そうですか」

「そうだ」


 私は夜光草を受け取る。


 乾いているが、指先で触れると淡い光が浮かぶ。

 これなら使える。


「ありがとうございます。材料費は」

「後で請求する」

「忘れないでくださいね」

「払う側が念を押すのか?」

「仕事ですから」

「仕事熱心で何よりだ」


 ルーカスが帰った後、私はすぐに調合を始めた。


 夜光草を細かく砕く。

 光鉱石と混ぜ、樹液を少しずつ加える。


 一度目。

 インクは強く光りすぎた。


 天井に映った星は、昼間でも目が痛いほど明るい。


「夜空というより、朝ね」


 二度目。

 光量を落とし、線の太さを揃えた。


 星は均等に並び、穏やかに輝く。

 綺麗だった。けれど、やはり魔導書に残る魔力とは噛み合わない。


 私は光が消えた天井を見上げる。


 正しい星空なら作れる。

 けれど、老婦人が見たいのは正しい星空ではない。


 私は魔導書へ残る、曲がった線へ指を近づけた。


 一つだけ大きすぎる星。

 不揃いな文字。何度も書き直された跡。


 直すべき傷だと思っていた。

 けれど、違うのかもしれない。


 これこそが老婦人が見たい、夫が作った不揃いな星空なのだろう。


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