第6話 老婦人の依頼
朝の光が、工房の窓から差し込んでいた。
作業机の上には、領主館の倉庫から運ばれてきた古い魔導書が開かれている。
中に書かれているのは、寒冷地用の保存魔法らしい。
「ここは、保温ではなく魔力循環……?」
私は拡大鏡を片手に、消えかけた線を見つめる。
古い術式は、現在使われているものと線の組み方が少し違う。
完全に読み解くには、もう少し時間がかかりそうだ。
それでも、難しい仕事は嫌いではない。
むしろ、少し楽しい。
以前なら、この魔導書を修復しても、完成品にはマリエルの名前が記されていただろう。
けれど今回は違う。
依頼書に書かれていた担当職人の名前は、リネット。
それだけのことなのに、何度見ても少し嬉しい。
「……集中しないと」
私は依頼書から目を離し、魔導書へ向き直った。
筆を取ろうとしたところで、扉につけた鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
顔を上げる。
入口に立っていたのは、一人の老婦人だった。
灰色の髪を後ろで一つにまとめ、濃い茶色の外套を着ている。
年齢は、六十を少し過ぎた頃だろうか。
両腕には、古びた魔導書を抱えていた。
ただ持っているだけじゃなく、大切そうに抱えている。
「あの……こちらで、古い魔導書を直していただけると聞いたのですが」
「はい。状態にもよりますが、修復はお受けしています」
老婦人は少しだけ安心したように息を吐いた。
「どうぞ。こちらへ」
私は作業机の横にある椅子を引いた。
「今、少し散らかっていますけれど」
「まあ、少し?」
老婦人が机を見る。
開かれた魔導書。小瓶。筆。
細かく分けられた鉱石粉。
確かに、少しではないかもしれない。
「かなり散らかっていますね」
「……仕事中ですから」
「ふふっ、そういうことにしておきます」
老婦人は小さく笑い、椅子へ座った。
少し緊張が解けたようだった。
「魔導書を拝見してもよろしいですか?」
「はい」
老婦人は頷いた。
けれど、すぐには魔導書を手放さなかった。
表紙を一度撫でてから、両手でそっと差し出す。
「大切なものなのですね」
「ええ。夫が作ったものです」
「ご主人が?」
私は魔導書を受け取った。
表紙は色褪せ、留め具も錆びている。
市販されている魔導書ではなさそうだ。
表面に刻まれた印も、工房や商会のものではない。
「夫は、数年前に亡くなりました」
「……そうでしたか」
「魔術師ではありませんでした。魔力も、人より少ないくらいで」
老婦人は膝の上で両手を重ねる。
「それでも若い頃、私のためにこの魔導書を作ってくれたのです」
私は留め具を外し、ゆっくりと表紙を開いた。
中の紙は黄色く変色している。
書かれている術式は、見慣れたものとはかなり違う。
「これは……光を映す魔法でしょうか」
「ええ、星空です」
「星空?」
「部屋の天井いっぱいに、星を映す魔法なのです」
老婦人の目元が、少しだけ柔らかくなる。
「若い頃、夫と一緒に王都の外へ星を見に行こうと約束していました」
王都の外には、夜空を遮る建物も灯りも少ない場所がある。
星を見るために訪れる人もいると聞いたことがあった。
「でも、暮らしに余裕がなくて。毎年、来年こそはと言いながら、結局一度も行けませんでした」
「それで、ご主人が魔法を?」
「ええ。外へ連れていけないなら、家の中に星空を作ればいいと言って」
ずいぶん思い切った考え方だ。
そして、おそらく簡単ではなかったはずだ。
「ご主人は、魔法の勉強をされていたのですか?」
「ほとんどしていませんでした」
「ほとんど」
「初めは、天井に小さな光が一つ出ただけでした」
老婦人は懐かしそうに笑う。
「夫は星だと言い張りましたが、私には虫が光っているようにしか見えなくて」
「かなり小さかったのですね」
「ええ。星空というには、少し寂しい光景でした」
それでも夫は諦めなかったらしい。
仕事を終えた夜に術式を調べ、休みの日には材料を集めた。
失敗しては書き直し、少し光る星が増えるたび、妻へ見せた。
「完成まで、どのくらいかかったのですか?」
「五年ほどです」
「五年……」
「途中で本人も、星を見に行った方が早かったと言っていました」
「それは、たぶんそうですね」
「私もそう思いました」
二人で小さく笑う。
けれど老婦人の指は、魔導書の表紙へ触れたままだった。
「ようやく完成した夜、部屋中が星でいっぱいになったのです。きれいでした。少し形は変でしたけれど」
「形が?」
「星の位置も大きさも、かなり適当だったと思います。でも、私にはどんな夜空よりもきれいに見えました」
それから夫は、結婚記念日や老婦人の誕生日になると、この魔法を使ったらしい。
何度も、何年も。
老婦人にとっては、夫婦二人だけの星空だった。
「夫が亡くなってからも、しばらくは使えたのです」
老婦人の声が、少しだけ小さくなる。
「でも、少しずつ星の数が減って。去年は三つしか出ませんでした」
「今は?」
「……何も」
私は魔導書のページへ視線を落とした。
術式の多くが薄れている。
魔力を通すための線も、途中でいくつも途切れていた。
「何度魔力を流しても、光らなくなってしまいました」
老婦人は膝の上で、ぎゅっと手を握った。
「もう古いものです。夫もいません。仕方がないとは思っています」
そう言いながらも、諦め切れていないことは伝わった。
だから、この工房まで来たのだろう。
「それでも」
老婦人が私を見る。
「もう一度だけ、あの人の星を見てみたいのです」
静かな声だった。
強く願っているのに、無理を言わないよう抑えている。
私は魔導書へ視線を戻した。
まず、表面を傷つけないよう紙の状態を確かめる。
乾燥しすぎている部分がある。
端には小さな破れもあった。
術式へ使われているインクは、市販品ではない。
色は黒に近いが、光へ透かすと青と銀が混じっている。
一般的な星空投影魔法なら、星属性用の銀光インクを使う。
けれど、これは違う。
もっと安価な材料をいくつも組み合わせたような色だ。
「少しだけ、魔力を流してもよろしいですか?」
「はい」
指先から、ほんのわずかに魔力を流す。
魔導書の文字が、一瞬だけ淡く光った。
けれどすぐに消える。
流れは弱い。欠けた術式も多い。
それでも、完全には失われていなかった。
紙の中に、まだ魔力が残っている。
「……どう、でしょうか」
老婦人が不安そうに尋ねる。
私はすぐには答えなかった。
直せる可能性はある。
ただ、簡単な仕事ではない。
欠けた線を間違って補えば、違う魔法になってしまうかもしれない。
「元通りにできるとは、まだお約束できません」
正直に伝える。
老婦人の表情が曇った。
その顔を見て、胸が少し痛む。
けれど、安心させるためにできない約束をするわけにはいかない。
「そう、ですか……」
「ですが」
私は魔導書の一ページを、光へ傾けた。
消えた文字の下に、わずかな顔料の跡が残っている。
「紙にはまだ魔力が残っています。インクの跡も、すべて消えたわけではありません」
老婦人が顔を上げた。
「できる限り、調べさせてください」
「……よろしいのですか?」
「はい。ただ、時間は少しいただくと思います」
「もちろんです。何日でも、何カ月でも待ちます。私が死ぬ前なら」
「……身体のどこかが悪いのですか?」
「いえ、いたって健康です」
老婦人は少しいたずらっぽく笑った。
その笑顔が愛らしく、ご主人が好きになった笑顔なのだろうと思った。
「ならよかったです。お元気でいてくださいね、星空をまた見るためにも」
老婦人は、ほっとしたように笑う。
「報酬は、どのくらい必要でしょうか」
私は材料費と作業料を頭の中で計算する。
まだ使われている材料もわからない。
すべてを正確に出すことはできない。
「まずは調査費と、最低限の材料費として、このくらいで」
紙へ金額を書き、老婦人へ見せる。
彼女は数字を見て、目を瞬いた。
「それでは安すぎませんか?」
「まだ直せると決まっていませんから」
「でも、何日も調べてくださるのでしょう?」
「調査した結果、直せない可能性もあります。その場合、高い金額をいただくわけにはいきません」
「直ったら、もう少し受け取ってください」
「その時に相談しましょう」
老婦人は口元へ手を当て、静かに笑った。
「では、その時は私が頑張って多く払います」
「では私は、受け取りすぎないように頑張ります」
「ふふっ、話がまとまりませんね」
「直ってから考えましょう」
「そうしましょう」
老婦人は立ち上がり、魔導書を名残惜しそうに見た。
長い間、手元から離したことがなかったのかもしれない。
「大切にお預かりします」
「ええ、お願いします」
深く頭を下げ、老婦人は工房を出ていった。
扉の鈴が鳴り、工房に静けさが戻る。
私は作業机の中央へ、預かった魔導書を置いた。
改めて、一ページずつ確認する。
術式には何度も書き直した跡があった。
同じ線の上に、別の線が重なっている。
途中で曲がっている文字。妙に太い部分。
反対に、今にも消えそうなほど細い線。
専門家が書いた術式ではない。
正しい手順を知っていれば、もっと簡単にまとめられたはずだ。
それでも、一つ一つの線から伝わってくるものがある。
失敗して、書き直して。
少しだけ星が増えるたび、また次の線を書いた。
五年という時間をかけて、妻のためだけに作り上げた魔導書。
私は拡大鏡を手に取った。
これは、消えた文字を埋めるだけの仕事ではない。
あの人が妻へ見せたかった星空を、残された線の中から探し出す仕事だ。
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