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第5話 家族の今とこれから


 リネットが屋敷を出てから、十日ほどが経っていた。

 その日、王宮では若い魔術師たちによる披露会が開かれていた。

 広間の中央に立つマリエルは、いつものように華やかな笑みを浮かべている。


 腰まで伸びた蜂蜜色の髪。宝石を散りばめた杖。

 周囲には、彼女の魔法を楽しみにする貴族たちが集まっていた。


「マリエル嬢の新しい魔法だそうです」

「先日の銀色の鳥も見事だったわ」

「さすがは天才魔術師ですな」


 称賛の声を聞き、マリエルは満足そうに目を細めた。

 少し離れた場所には、婚約者となったセドリックもいる。

 彼は期待に満ちた目で、マリエルを見つめていた。


 すべて、いつも通りだった。

 ただ一つ。

 マリエルの手にある杖へ施されたインクだけが、以前とは違っていた。


「本当に、これで大丈夫ですの?」


 披露会の前。

 マリエルは控室で、父オズワルドへ尋ねていた。

 机の上には、小さなインク瓶が置かれている。


 リネットが残していった、マリエル専用のインク。

 残りは、瓶の底にわずかにあるだけだった。


「問題ない」


 オズワルドはそう言って、別の液体を瓶へ注いだ。

 色の薄い、魔力をほとんど含まない補充液だった。


「少しくらい薄めても、効果は変わらん」

「でも、お姉様は配合を変えるなと言っていましたわ」

「リネットは何事も大げさなのだ」


 オズワルドは苛立ったように言った。


「ただのインクだ。減ったなら増やせばいい」


 随分と単純な話だった。

 マリエルも、それ以上は何も言わなかった。

 自分の魔法は、自分の才能によって生まれている。


 インクは、少し手助けをしているだけ。

 ずっと、そう思っていたからだ。


「では、始めます」


 広間へ戻ったマリエルは、杖を掲げた。

 空中に、淡い銀色の光が集まっていく。

 本来なら、その光は無数の花びらとなり、大きな白い竜へ変わるはずだった。


 マリエルが新たに考えたことになっている魔法。

 実際には、リネットが術式を調整し、専用インクを作っていたものだ。


 光が広がる。花びらが生まれる。

 けれど、その数は以前より明らかに少なかった。


「……あら?」


 誰かが、小さく声を漏らした。

 花びらは空中で揺れた。

 形が崩れ、一部が光の粒となって消えていく。


 マリエルは慌てて杖へ魔力を注いだ。

 しかし、注げば注ぐほど術式は不安定になった。

 やがて花びらは無理やり一つに集まり、小さな鳥のような形になる。


 だが全く竜には見えない。

 その光も、広間を一周する前に消えた。


 静寂が落ちる。


 以前なら、すぐに大きな拍手が起きていた。

 今日は違った。


「……せ、繊細な魔法でしたわね」


 一人の令嬢が、気を遣うように言った。

 繊細。威力が弱い時に使われる、便利な言葉だった。


「その、今日は少し体調が悪かったのです」


 マリエルはすぐに笑みを作った。


「本来なら、もっと美しい竜になるのですけれど」

「そうだったのですね」


 周囲も一応は頷いた。

 けれど、先ほどまでの熱気は戻らない。

 セドリックも拍手をしながら、わずかに眉を寄せていた。


 彼はマリエルの魔法を何度も見ている。

 体調が悪いだけにしては、あまりにも威力が落ちていた。

 それから数日後。


 エルフォード家へ、王宮から一冊の古代魔導書が運び込まれた。

 古い保存魔法について記された、貴重な魔導書だった。

 何ページか文字が消え、術式の一部も欠けている。


「天才魔術師マリエル嬢なら、修復できると聞いております」


 王宮の使者はそう言った。

 マリエルは一瞬だけ黙った。


 これまで魔導書を修復していたのは、すべてリネットだ。

 マリエルは、完成した魔導書を受け取っていただけだった。


「もちろんですわ」


 それでも、断ることはできなかった。

 天才魔術師として知られている自分が、できないとは言えない。


 マリエルはリネットの残した配合帳を開いた。

 そこには材料の名前と分量が書かれている。


「この通りに混ぜればいいのでしょう?」


 何度か失敗したものの、黒いインクらしきものは完成した。

 マリエルは細い筆へインクを含ませる。


 消えた文字の上へ、見よう見まねで線を書き足した。

 次の瞬間、インクが紙の上で大きく滲んだ。


「えっ」


 黒い染みが広がっていく。

 隣の文字まで飲み込み、残っていた術式の一部さえ見えなくなった。


「どうして……」


 マリエルは青ざめた。


 配合帳の通りに作ったはずだった。

 けれど、そこに書かれていたのは材料と大まかな分量だけだ。


 紙に残された魔力の読み方。

 古いインクの性質。混ぜる温度や順番。


 リネットが手元で調整していた細かな違いまでは、どこにも書かれていなかった。


「そ、そんな……なんで!」


 マリエルの悲鳴が、工房に響いた。

 異変は、それだけではなかった。

 エルフォード商会には、保存用インクを購入した客から苦情が届き始めていた。


「三月は効果が続くと聞いていたのに、一月も持たなかったぞ!」

「保存箱の術式が消えて、中の食料が駄目になった!」

「以前の商品とは、明らかに品質が違う!」


 商会の応接室には、怒った客たちの声が響いていた。


 リネットが残した保存用インクも、すでに残り少ない。

 オズワルドは、それを補充液で薄めて販売させていた。


 色はほとんど同じだった。瓶へ入れれば、見分けもつかない。

 ただし、効果まで同じになるわけではなかった。


「職人たちは何をしている!」


 オズワルドは机を叩いた。


「同じ配合帳があるのだろう! すぐに同じものを作らせろ!」

「それが……何度試しても、以前と同じ効果になりません」

「ではリネットを呼べ!」


 工房の責任者が、困ったように顔を上げた。


「リネット様は、旦那様が勘当なさったのでは?」

「そんなことはわかっている!」

「では、どちらへ行かれたのかご存じですか?」


 オズワルドは答えられなかった。

 リネットがどこへ向かったのか。


 どこで暮らしているのか。

 誰も知らなかった。


「すぐに探せ!」

「どちらを?」

「……まずは王都の外だ!」


 随分と広い範囲だった。

 セドリックは、少し離れた場所からそのやり取りを聞いていた。


 王宮での魔法の失敗。古代魔導書の修復。商会の商品への苦情。

 すべて、リネットがいなくなってから始まっている。


「まさか……」


 セドリックは、隣にいるマリエルを見た。


「これまでの魔法も、魔導書の修復も……すべてリネットの仕事だったのか?」

「違いますわ!」


 マリエルはすぐに声を上げた。


「魔法を使っていたのは私です。お姉様は、少しインクを調整していただけですもの」

「少し、か」

「そ、そうですわ」


 マリエルの声は強かった。

 けれど、顔色は悪い。

 オズワルドも苛立ったように首を振る。


「リネット一人に、それほどのことができるはずがない。ただ、あれしか知らない細かな調整があるだけだ」

「……そうですか」


 部屋の中に、重い沈黙が落ちる。

 誰も認めようとはしない。

 けれど全員が、同じことを考え始めていた。


 リネットがいなくなった。


 ただ、それだけで。

 今まで当然に動いていたものが、次々と止まり始めている。



 一方、辺境の職人街。


 リネットは朝の光の中で、自分の工房を見上げていた。


 『リネットの魔法インク工房』


 少し不格好な文字。けれど、誰かの名前ではない。

 自分の名前だ。


 扉の前には、一通の封書が届いていた。

 グランフェルト辺境伯家の紋章が押されている。


 中を開く。

 領地の古い倉庫から発見された魔導書。


 効果を失い、文字の半分ほどが消えているらしい。

 その修復を依頼したいと書かれていた。


「古い魔導書……」


 リネットの口元が、自然と緩んだ。

 難しい仕事になりそうだ。

 だからこそ、楽しみだった。


 誰かの功績にされることはない。

 完成した魔導書には、修復者としてリネットの名前が記録される。

 自分の技術を、自分の名前で使える。


 それだけのことが、今は嬉しかった。

 リネットは鍵を取り出し、工房の扉を開ける。

 棚に並んだインクが、朝の光を受けて淡く輝いた。


「さあ、今日も仕事を始めよう」


 誰かを輝かせるためだけではない。


 度は、自分の人生を作るために。


 リネットの新しい一日が、静かに始まった。



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