第4話 城門の修理と領主
「君はインクの修復に集中してくれ」
私は城門の内側へ近づき、術式の前にしゃがみ込んだ。
昨日は通りすがりに見ただけだった。
けれど、間近で見ると状態は思っていたより悪い。
補修された部分の表面には、ほとんど傷がない。
問題は、その内側だった。
銀色の顔料の下に、細かなひびが何本も走っていた。
「やはり……」
「どうだ?」
制御盤へ手を置いたまま、ルーカスが尋ねる。
「予想通りです。以前の補修に使われたインクが、内側からひび割れています」
後ろにいた結界管理官が息を呑んだ。
「そんなはずはありません。使用したのは、王都でも最高級とされる結界用インクです」
「はい。品質はとてもいいと思います」
「では、なぜ」
「品質が悪いわけではありません。この土地に適していないだけです」
私はひび割れた部分を指した。
「王都のような温暖で乾燥した場所なら問題ありません。でも、ここは寒くて雨も多い。低温で樹脂が硬くなり、顔料との間に隙間ができています」
管理官は、少し悔しそうに眉を寄せた。
「私の判断が間違っていたと?」
「いいえ。高価な外套でも、真夏に着れば暑いです」
「……外套?」
「外套が悪いのではなく、季節が合っていないだけです」
少し離れた騎士が俯いた。
笑ったのだろうか。
「例えとしてはわかりやすいな」
ルーカスが言った。
「だが、今は冬だ。季節的にはわかりにくいな」
「では、外套の話は忘れてください」
「自分から出した例えだろう」
「もう例えの役目は終わりました」
ルーカスの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「結論として、管理官の判断だけに問題があったわけではないのだな」
「はい。王都から品質を保証されれば、選んでしまうのも無理はありません」
私は鞄から、昨夜作った深い青色のインクを取り出した。
「修復を始めます。劣化した部分を取り除く間、魔力を別の区画へ逃がしてください」
「わかった」
ルーカスが制御盤へ魔力を流す。
城門全体を巡っていた光が形を変え、補修部分だけが弱くなった。
滑らかで、無駄のない制御だった。
「やります」
私は細い刃を差し込み、古いインクを少しずつ削った。
一度に剥がせば、術式そのものを傷つける。
薄く、慎重に。ひび割れた層だけを取り除いていく。
「思ったより深いな」
「はい。表面だけ塗り直しても、すぐに同じことが起きたでしょう」
下地を整え、新しいインクを筆へ含ませる。
深い青の線を、元の術式へ繋げていく。
筆を動かすたび、インクが淡く光った。
「粘度は問題ないか?」
「今のところは」
「今のところ?」
「実際に効果が現れるまでは、完全にはわかりません」
「君は本当に断言しないな」
「インクはたまに職人を裏切りますから」
「人間のように言うな」
「人間より正直ですよ。合わなければ、すぐに濁るので」
後ろで、また誰かが咳き込んだ。
寒いからだろうか。
作業は半分ほどまで順調に進んだ。
その時だった。
術式の光が、不意に揺れた。
「止めてくれ」
ルーカスの声が飛ぶ。
私はすぐに筆を離した。
次の瞬間、城門に刻まれた線の一部が激しく明滅する。
「右側の区画が不安定です!」
管理官が声を上げる。
「わかっている」
ルーカスはすぐに魔力の流れを変えた。
強く押さえ込むのではなく、乱れた魔力を外側へ逃がしていく。
光の揺れが少しずつ収まった。
私は修復したばかりの線を見る。
術式との相性は悪くない。
ただ、城門の石が予想以上に冷えていた。
「インクが少し柔らかすぎますね」
「調整できるか?」
「できます」
私は小さな器へインクを移し、灰色の鉱石粉を加えた。
「その場で配合を変えるのか?」
「予想より石が冷たいので」
「失敗しないのか?」
「失敗しない量だけ入れます」
「それがわかるのか?」
「わからなければ、今頃やめて工房に逃げています」
「逃がすつもりはない」
「逃げるつもりは今のところないので問題ありません」
「なら成功させてくれ」
「そのつもりです」
硝子棒で混ぜ、粘度を確認する。
先ほどよりわずかに重い。
これなら広がらない。
「もう一度、魔力を流してください。先ほどの半分ほどで」
「わかった」
ルーカスが魔力を調整する。
私は新しいインクで線を繋ぎ直した。
今度は滲まない。魔力も均一に流れている。
「安定しました」
管理官の声にも、少し安堵が混じっていた。
「続けます」
そこからは大きな問題もなく進んだ。
ルーカスが術式全体の魔力を維持する。
私が古いインクを取り除き、新しい線を書く。
私が筆を止めれば、彼は魔力を弱める。
線を繋げれば、少しずつ流れを戻す。
余計な説明をしなくても、次に何をするのか理解してくれていた。
仕事がしやすい。
最後の文字へ筆を入れる。細い線を引き、元の術式と繋げた。
「終わりました」
ルーカスがゆっくりと魔力を戻す。
深い青のインクへ、光が走った。
次の瞬間、城門全体が、澄んだ青白い光に包まれた。
術式を駆け抜けた光が、石壁の向こうへ広がっていく。
空気がわずかに震えた。
「魔物避けの効果が、本来の範囲まで戻っています」
管理官が驚いた声を上げる。
「魔力の消費量も、以前の七割ほどです」
周囲の騎士たちから、安堵したような声が漏れた。
私は筆を置き、息を吐く。
「無事に直ってよかったです」
「それだけか?」
ルーカスが言った。
「何か他に?」
「もう少し喜んでもいいと思うが」
「喜んでいます。内側では、かなり」
「そうなのか、わかりにくいな」
「表に出すと疲れるので」
ルーカスは小さく息を吐いた。
呆れているのかもしれない。
けれど、その表情は少し柔らかかった。
私は修復した術式を、もう一度確認する。
「同じインクを使った箇所は、他にもありますか?」
「いくつかあります」
管理官が答えた。
「すべて点検した方がいいです。それから、この土地向けの補修インクを常備してください。冬用と雨季用で粘度を変えると安心です」
「他には?」
「補修履歴を残してください。場所、日付、天候、使ったインクの配合まで」
管理官が少し黙った。
「配合までは、残していませんでした」
「これから残せば大丈夫です」
失敗したことより、同じ失敗を繰り返さない方が大切だ。
ルーカスは修復された城門を見上げた。
「今日直すだけではなく、今後の管理まで考えるのだな」
「また壊れれば、困るのは街の方々ですから」
「君の仕事が増えるかもしれない」
「それはそれで、報酬をいただきます」
「やはり金には執着があるらしい」
「今はかなりあります」
工房を借りたばかりだ。
正当な報酬は大切だった。
「だが、必要のない修理を増やすつもりはない」
「はい、もちろん」
ルーカスは短く頷いた。
「その考え方も含めて評価する」
評価……その言葉が、少しだけ胸に残った。
家では、私が働くのは当然だった。
けれど今は、私の仕事も考え方も、きちんと見てもらえている。
「ありがとうございます」
私は道具を鞄へ戻した。
「では、報酬についてはギルドの担当者へ確認すればよろしいでしょうか」
「その必要はない」
「では、どちらへ?」
「依頼したのは私だ」
「はい。それはわかっていますが」
「報酬を決めるのも私だ」
私はルーカスを見る。
周囲の騎士たちは、誰も驚いていない。
驚いているのは私だけらしい。
「まさか……」
「名乗るのが遅くなった」
ルーカスは静かに言った。
「この地を治める辺境伯、ルーカス・グランフェルトだ」
私はしばらく黙った。
昨日、簡素な服で工房へ来た男性。
結界に詳しい役人か騎士だと思っていた。
まさか、領主本人だったとは。
「……看板を見れば私の名前はわかったのに、ご自分は家名を隠していたのですね」
「そこを気にするのか?」
「少しだけ不公平です」
後ろにいた男が、また咳き込んだ。
やはり笑っている。
「肩書きを先に出せば、君が率直に話せないかもしれないと思った」
「変わらなかったと思います」
「今なら、そう思う」
ルーカスは否定しなかった。
「修復には正式な対価を支払う。それとは別に、領地公認の魔法インク職人にならないか」
「公認、ですか?」
「ああ。領主館から仕事を回し、素材の仕入れも支援する」
工房を開いたばかりの私には、ありがたい話だった。
それでも、すぐに頷くことはできない。
「とても嬉しいです」
「なら」
「ですが、今はもう少し自分でやってみたいです」
ルーカスが私を見る。
「せっかく、自分の名前で工房を開いたばかりなので」
誰かの名前の下ではなく。
まずは、自分の名前だけで仕事をしてみたい。
「ただ、公認の話をいただけたことは、本当に嬉しく思います」
「……領地公認の話を完全に断るわけじゃない、と?」
「今すぐではない、ということです」
「わかった」
ルーカスは無理に勧めなかった。
「では、まずは仕事を依頼する形にしよう」
「はい」
私は鞄を持ち、工房へ戻るため歩き出した。
「リネット」
呼ばれて振り返る。
ルーカスは修復された城門の前に立っていた。
「これからも君の力を借りたい」
淡い青の瞳が、まっすぐ私を見る。
「仕事として――まずは、そこから」
「……はい」
私は頷き、再び歩き出した。
仕事として。そこまではわかる。
けれど。
「まずは、って何かしら……」
少しだけ気になった。
まあ、今はまだ仕事の話なのだろう。たぶん。




