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第3話 城門の修復

「城門の結界について報告した職人は、君か?」


 低く、落ち着いた声だった。

 私は持っていた筆を置く。


「はい。私です」


 銀灰色の髪の男は、私の返事を聞いても表情を変えなかった。

 ただ、淡い青の瞳で私を静かに見ている。


「私はルーカスだ」


 名乗ったのは、それだけだった。

 家名も役職もない。後ろに立つ男も何も言わない。


 おそらく、領主館の役人か、結界を管理している騎士なのだろう。

 少なくとも、ただの客ではなさそうだった。


「リネットです」

「店の看板を見ればわかる」

「ああ、そうでした」


 店の前には、私が自分で書いた名前がある。

 名乗る必要はなかったらしい。


 少し恥ずかしい。

 ルーカスはそんな私を気にする様子もなく、まっすぐ本題に入った。


「城門の結界について、詳しく聞きたい」

「わかりました」

「報告には、補修に使われたインクが土地の気候に合っていないとあった」

「はい」

「術式そのものに問題はないのか?」

「ありません」


 私は作業机の上に置いていた紙を一枚取った。

 それから、城門で見た術式を簡単に書き起こす。


「術式の構造は正しいです。線の太さも、魔力を流す順序も問題ありません」


 筆先で、補修されていた部分を示す。


「ただ、ここだけ魔力の流れが悪くなっています」

「なぜだ?」

「寒さでインクの成分が分離し始めているからです」


 ルーカスは紙へ視線を落とした。


「分離?」

「補修に使われていたのは、高純度の銀鉱粉を混ぜたインクです。品質はとてもいいと思います」

「王都から取り寄せたものだ」

「やはり」


 王都では高価なインクだ。

 乾燥した地域で使うなら、長く安定した効果を保てる。


「ですが、この土地は王都より寒く、雨も多いです。インクに含まれている樹脂が冷えて固くなり、顔料と魔力を留める成分が分かれ始めています」

「そのせいで、魔力が通りにくくなっているのか」

「はい。今はまだ完全には途切れていません。ただ、長い雨や強い吹雪があれば、効力がさらに落ちる可能性があります」


 少し考えてから、続ける。


「あるいは、すでに一部の効果が落ちているかもしれません」


 ルーカスの目が、わずかに細くなった。


「北門付近だけ、魔物避けの効果が弱まっている」

「やはり、そうですか」

「ここ一月ほど、街の近くまで小型の魔物が寄ってくることが増えた。結界が消えているわけではないが、以前よりも距離が近い」


 ルーカスは淡々と話す。


「魔力の供給量も増やした。だが、効果は上がらなかった」

「供給量を増やしても、インクが魔力を正しく通せなければ意味がありません」

「むしろ負担になる可能性もあるか?」

「あります」


 魔力が通りにくい場所へ、さらに多くの魔力を流す。

 水の通りが悪い細い管へ、無理に水を押し込むようなものだ。


「今の状態で供給を増やし続ければ、補修部分から術式が傷むかもしれません」

「結界管理官は、魔力炉の出力不足だと考えていた」

「術式の光だけを見れば、そう思うかもしれません」

「君は、門を通っただけでそこまでわかったのか?」

「インクの色が濁っていましたから」


 私は答える。

 ルーカスはしばらく私を見た。


「それだけで?」

「それだけではありません。流れている魔力も、補修部分だけ少し遅れていました」

「普通の人間に見えるものなのか?」

「インク職人なら、わかると思います」


 たぶん。

 少なくとも、私はずっとそうしてきた。

 妹の杖も、魔導書も、色と光の変化を見て状態を確認していた。


 ルーカスは何も言わず、店の中へ視線を向けた。


 棚に並べた小瓶を見る。


 火属性の赤いインク。

 水属性の青いインク。

 魔力を安定させる灰色のインク。

 生活魔法用の安価な黒いインク。


 まだ数は多くない。

 けれど、少ない道具で作れるものは一通り並べていた。


「ずいぶん種類が多いな」

「そうでしょうか」

「一人で作っているのか?」

「はい」


 ルーカスは棚へ近づく。

 瓶を勝手に触ることはせず、札に書かれた説明だけを読んでいた。


「魔力消費軽減。耐水。耐寒。魔力拡散防止……」

「必要なものを少しずつ作っています」

「王都では、属性ごとに職人が分かれていると聞いたが」

「大きな工房では、そうかもしれません」

「君はすべて扱えるのか?」

「材料があれば」


 ルーカスの後ろにいた男が、わずかに眉を上げた。

 何か変なことを言っただろうか。

 実家の工房では、必要なものは私が作っていた。


 妹の魔力はその日の状態によって変わるため、一種類だけ作れればいいというものではなかった。


 ルーカスは次に、作業机の上へ視線を向けた。

 そこには、商業ギルドから預かった古い魔導書が置かれている。


 子ども用の初級魔法書だ。

 表紙は擦れ、何ページか術式の文字が薄くなっていた。


「これは?」

「修復の依頼です」

「インクの補充か?」

「いいえ。消えかけた術式を復元しています」


 私は魔導書を開いた。


 薄くなった文字の横に、新しく書き直した線がある。

 まだ半分ほどしか終わっていない。


「元のインクの跡と、紙に残っている魔力から配合を調べています。同じ性質のインクを作ってから、欠けた部分を書き直します」


 ルーカスは魔導書を覗き込んだ。


「……待て」

「はい」

「魔導書の修復は、普通のインク職人にはできないはずだ」

「そうなのですか?」

「そうなのか、ではない」


 初めて、ルーカスの声に少しだけ困惑が混じった。


「それは魔導書修復士の仕事だろう」

「インクを作って、消えた文字を書き直すだけですよね?」

「その『だけ』ができないから、別の職業として扱われている」

「でも、インク職人なのですから、できて当然では?」

「……」


 ルーカスは黙った。後ろの男も黙っている。

 二人とも、何とも言えない顔で私を見ていた。


「……何かおかしいでしょうか」

「君の中のインク職人は、仕事の範囲が広すぎる」

「便利でいいと思います」

「自分で言うのか」

「便利なのは本当ですから」


 ルーカスは小さく息を吐いた。

 呆れているのかもしれない。

 ただ、口元がほんの少し緩んだようにも見えた。


 彼は魔導書へ指を近づける。

 すでに修復した部分へ指を近づけた。


 触れてはいない。

 ただ、そこに流れている魔力を確かめているようだった。


「安定している」

「まだ乾燥の途中なので、完全ではありませんが」

「それでも、修復前の部分より魔力の乱れが少ない」


 どうやら、ルーカスは結界術だけでなく、術式そのものにも詳しいらしい。

 ただの役人ではないのかもしれない。

 結界管理官。あるいは、領主館に仕える魔術師だろうか。


「城門の結界を直せるか?」


 ルーカスが尋ねた。

 私はすぐには答えなかった。

 門を通った時に見た状態だけなら、おそらく修復できる。


 けれど、防護結界は小さな魔導書とは違う。

 街全体を囲む大規模な術式だ。


「近くで状態を確認しなければ、断言はできません」


 私は正直に答えた。


「ただ、私の見立て通りなら修復可能です」

「どの程度の時間がかかる?」

「劣化している範囲によります。補修部分だけなら、半日ほどで終わると思います」

「結界を止める必要は?」

「完全に止める必要はありません」


 私は先ほど描いた術式へ、いくつか線を書き加える。


「結界を区画ごとに分け、魔力を繋ぎ直しながら作業します。修復する部分だけ魔力を弱め、他の区画で流れを維持します」

「そんなことができるのか?」

「結界の流れを理解している方が協力してくだされば」

「どの程度、理解していればいい?」

「私が説明した時に、眉間に皺を寄せない程度でしょうか」

「……随分と曖昧だな」

「説明してもわからない方は、だいたい途中から眉間に皺が寄るので」


 ルーカスの後ろにいた男が、小さく咳き込んだ。

 笑いを誤魔化したらしい。

 ルーカスは今度こそ振り返った。


「何か?」

「いえ、何も」

「そうか」


 短いやり取りだった。

 けれど、後ろの男は少しだけ楽しそうだった。


「結界管理官で足りるか?」


 ルーカスが再び尋ねる。


「結界全体の流れを理解していて、細かく魔力を調整できる方なら」

「わかった」


 ルーカスは迷わず頷いた。


「明日の朝、北門へ来てくれ」

「明日ですか?」

「ああ。必要な人員はこちらで揃える」


 話が早い。


「報酬については?」

「修復できると確認してから、正式に決める」

「わかりました」

「不満はないのか?」

「直せるか確認する前に金額を決めても、どちらかが困るだけですから」

「君は金に執着がないのか?」

「あります」


 私は即答した。


「工房を借りたばかりなので、かなり」

「……正直だな」

「ただ、できない仕事でお金をいただくほど困ってはいません」

「では、できる仕事なら?」

「遠慮なくいただきます」


 ルーカスはわずかに目を細めた。

 今度は、たしかに笑った気がした。


「必要な材料はあるのか?」

「インクをこれから配合して、今日中に揃えます」

「不足があれば、商業ギルドを通して申請してくれ。代金はこちらが受け持つ」

「ありがとうございます」


 ルーカスは頷き、店を出ようとする。

 その前に、一度だけ振り返った。


「明朝、日の出から一時間後だ。遅れないでくれ」

「はい。寝過ごさなければ」

「寝過ごす可能性があるのか?」

「今夜、インクを作るので」

「……必ず来てくれ」

「努力します」

「必ずだぞ」

「はい」


 二人が出ていくと、工房は急に静かになった。

 私はしばらく閉じた扉を見ていた。


「……少し変わった人だったわね」


 おそらく、向こうも同じことを思っているだろう。

 私は店の札を裏返し、営業中から準備中へ変えた。

 修復中の魔導書を布で包み、作業机の端へ移す。


 それから、必要な材料を書き出した。

 寒さでも固まりにくい樹液。

 水を弾く性質を持つ魔獣の脂。


 魔力を安定させる灰色の鉱石粉。

 王都で使われている補修インクとは、材料を大きく変える必要がある。

 この土地の寒さと雨に耐えられるもの。


 それでいて、元の術式の魔力を邪魔しないもの。

 私は上着を脱ぎ、すぐに作業へ取りかかった。

 樹液を弱い火で温める。


 魔獣の脂から不純物を取り除き、細かく砕いた鉱石粉を少しずつ混ぜる。

 量が多すぎれば、魔力が重くなる。

 少なすぎれば、流れを安定させられない。


 硝子棒を回すたび、液体の色が黒から深い青へ変わっていく。

 冷たい窓辺へ少量を置き、固まり方を確認する。


「……悪くない」


 私は少しだけ息を吐いた。

 これなら使える。

 夜遅くまでかけて、必要な量のインクを作った。


 完全に同じものを二瓶。

 少し粘度を下げたものを一瓶。


 現地で状態を見て、使い分けるためだ。


 翌朝。私は道具とインクを鞄へ入れ、指定された北門へ向かった。


 北門へ近づくと、人影が見えた。

 昨日のルーカスと、後ろにいた男。


 それだけではない。鎧を着た騎士が何人もいる。

 厚い書類を抱えた結界管理官らしき者たちもいた。

 門の周囲は封鎖され、通行人は別の入口へ案内されている。


「……思っていたより、大がかりね」


 私は足を止めた。


 昨日は簡素な服装だったルーカスも、今日は騎士たちの中央に立っている。

 周囲の者たちは、彼の指示を待つように姿勢を正していた。


 ただの役人ではなさそうだ。

 少なくとも、私が考えていたより、ずっと高い立場の人間らしい。


「来たか」


 ルーカスが私に気づいた。


「はい。寝過ごしませんでした」

「それは何よりだ」


 彼は真顔だった。やはり冗談を楽しむのは苦手らしい。

 それは私もだけど。


「必要なものは用意しました」

「では始めよう」


 彼は当然のように城門の内側へ向かう。


 そこには、結界へ魔力を送るための制御盤があった。

 普通なら、結界管理官が扱うものだろう。


 けれどルーカスは迷いなく、その中央へ手を置いた。

 淡い青の光が広がる。

 城門に刻まれた術式が、呼応するように明るくなった。


 昨日まで滞っていた魔力が、ゆっくりと別の区画へ流れていく。

 正確で、無駄のない制御だった。


 私は思わず、ルーカスを見る。

 彼は制御盤へ手を置いたまま、こちらへ視線を向けた。


「私が魔力の流れを維持する」


 低く、落ち着いた声が響く。


「君はインクの修復に集中してくれ」


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