第2話 辺境で工房を開く
辺境の街へ着いたのは、王都を出てから五日後だった。
長かった。乗合馬車の座席は硬く、道も途中からひどく揺れた。
最後の一日は、眠ろうとするたびに頭を窓へぶつけた気がする。
それでも、馬車を降りた時には少しだけ息が軽くなった。
「ここが、グランフェルト辺境領……」
目の前には、高い石壁に囲まれた街がある。
王都ほど華やかではない。
けれど城門の前には多くの馬車が並び、荷物を抱えた商人や旅人たちが行き交っていた。
職人の姿も多い。
腰に金槌を下げた鍛冶職人。
木材を積んだ荷車を押す大工。
背負い籠から薬草を覗かせている女性もいた。
王都ではあまり見なかった光景だった。
少なくとも、ここでは職人が隠れるように歩いてはいないらしい。
それだけで、少し気分がよかった。
「次の者」
門兵に呼ばれ、私は荷物を持って進んだ。
身分証と商業ギルドから発行された紹介状を見せる。
「王都から来たのか」
「はい。こちらで工房を開きたいと思っています」
「職人か。最近は珍しくもないな」
門兵は紹介状を確認し、私へ返した。
「入っていい。商業ギルドは中央通りを真っすぐだ」
「ありがとうございます」
私は書類を鞄へ戻し、城門をくぐった。
その時だった。
「……ん?」
足を止める。
門の内側に刻まれた大きな術式が、淡く光っている。
街全体を囲む防護結界の一部だろう。
魔獣や外敵の侵入を防ぎ、異常な魔力を感知するためのものだ。
術式そのものに問題はない。
線の太さも、魔力の流れる方向も正しい。
けれど、一部だけ色が違っていた。
私は少しだけ近づいて見る。
元の術式は、青みを帯びた黒色。
補修された部分は、わずかに白く濁っている。
高純度の銀鉱粉を使った、高価なインクだ。
王都の工房でも、上級品として扱われていた。
けれど……。
「合っていない……」
小さく呟く。
この土地は王都より寒い。
ここへ来るまでにも、雨が何度か降った。
空気にも湿り気があり、石壁は少し冷たい。
補修に使われたインクは、乾燥した温暖な地域で使うものだ。
品質が悪いわけではない。むしろ非常にいい。
ただ、この土地には向いていない。
寒さで顔料と魔力を留める樹脂が分離し始めている。
そのせいで、術式の流れが補修部分だけわずかに滞っていた。
「どうした?」
門兵に声をかけられた。
私は術式から視線を外す。
「すみません。少し気になることがあって」
「結界か?」
「はい。ただ、今ここで触れるようなものではありません」
防護結界は街の重要な設備だ。
気になったからといって、知らない職人が勝手に手を出していいものではない。
「すぐに消えるわけではないと思います。でも、強い雨か吹雪が来れば、補修部分が耐えられない可能性があります」
「結界はずっと正常に動いているぞ」
「今は動いています」
私はもう一度、濁った部分を見る。
「ただ、魔力の流れが弱くなっています。すでに一部の効果が落ちている可能性もあります」
門兵は眉を寄せた。
私の顔と術式を交互に見る。
当然だろう。
今この街へ着いたばかりの女に、街の防護結界がおかしいと言われたのだ。
すぐに信じろという方が無理がある。
「商業ギルドへ行くので、そちらから正式に報告します」
「あ、ああ。よくわからんが、そうしてくれ」
私は軽く頭を下げ、その場を離れた。
気にはなる。けれど、私にできるのはここまでだ。
街の中へ入ると、石畳の道が続いていた。
王都より建物は低く、看板には工房や商店の名前が多い。
金属を打つ音。木を削る音。
どこかから漂ってくる、焼きたてのパンの匂い。
賑やかだ。
華やかではないが、街全体が働いているような音がする。
「悪くないかも」
私は鞄を持ち直した。
商業ギルドは、教えられた通り中央通りにあった。
二階建ての大きな建物で、正面には商人や職人らしき人々が並んでいる。
受付で紹介状を出し、工房を開きたいと伝えた。
「魔法インク職人ですか」
受付の女性が、少し珍しそうに私を見る。
「はい」
「王都では、エルフォード商会の工房に?」
「以前は」
私はそれだけ答えた。
受付の女性は何か察したようだったが、それ以上は聞かなかった。
「道具と作業場所があれば、開業自体は可能です。ただし、危険物を扱う場合は申請が必要になります」
「わかりました」
「店舗はもう決まっていますか?」
「まだです。できれば住居が一緒になっているところを探しています」
「予算は?」
私は金額を伝えた。
受付の女性は少し黙った。正直な反応だった。
「街の中心は難しいですね」
「やはり」
「外れなら、いくつかあります。古くてもよければ」
「古いのは構いません。雨漏りさえしなければ」
「そこが最低条件なのですね」
「インクに水漏れは困るので」
受付の女性は、少しだけ笑った。
それから物件の書類を用意してくれる。
私は必要な申請を書き終え、最後に城門の結界についても報告した。
「防護結界のインクが?」
「補修部分だけ、この土地の気候に合っていません。すぐに壊れるとは言い切れませんが、確認した方がいいと思います」
「あなたは結界技師でもあるのですか?」
「いいえ。魔法インク職人です」
「では、なぜわかるのです?」
「インクの状態ならわかります」
受付の女性は半信半疑の顔をしていた。
まあ、そうだろう。
「記録には残しておきます。報告が上がるかは、担当部署の判断になりますが」
「それで構いません」
必要なのは、私が正しかったと証明することではない。
街の誰かが確認してくれることだ。
報告を受理してもらい、私はギルドを出た。
それから数日、街の宿に泊まりながら物件を見て回った。
ようやく借りられそうな店を見つけたのは、街へ着いて二日目だった。
職人街の外れにある、小さな二階建ての建物。
一階が店舗と工房。二階には、寝室と狭い台所がある。
壁は少し煤け、床には埃が積もっていた。
棚も何年使われていないのかわからない。
「……悪くない」
私は店の中央に立ち、辺りを見回した。
窓は大きい。昼なら十分に光が入る。
雨漏りもない。鼠も、今のところは見当たらない。
十分だった。
契約を済ませ、鍵を受け取る。
それからは掃除の日々だった。
床を掃き、壁を拭き、棚を磨く。
使えない家具は外へ運び、残った机を何度も拭いた。
工房で働くことには慣れている。
けれど、工房そのものを作るのは初めてだった。
腕よりも腰が痛い。
「職人になる前に、掃除屋になれそうね……」
一人で呟いてみる。
屋敷では、工房に籠もっていても外から誰かの声が聞こえた。
ここには私しかいない。
静かで、息苦しくはなかった。
持ってきた道具を作業机へ並べる。
実家の工房にあったものと比べれば、あまりにも小さな設備だ。
それでも、すべて私のものだった。
最後に、店の前へ看板を出した。
自分で作った黒いインクを筆へ含ませる。
木の板へ、ゆっくりと文字を書く。
『リネットの魔法インク工房』
書き終えてから、しばらくその名前を見つめた。
私の名前だ。
商会の商品にも、研究の発表にも書かれなかった名前。
それが今は、店の一番目立つ場所にある。
「……少し恥ずかしいわね」
誰も見ていないのに、そんなことを呟く。
けれど、消そうとは思わなかった。
そして、店を開けてから数日。
残念ながら、客が押し寄せることはなかった。
一日に一人来ればいい方だ。
初日に来たのは、子ども用の練習魔導書へ使うインクを買いに来た母親だった。
二日目は、安価な火属性インクを一本。
三日目は、誰も来なかった。
店の前を通り過ぎる人はいる。看板を見る人もいる。
ただ、中へは入ってこない。
当然か。どこから来たのかもわからない職人が、突然開いた工房だ。
信用も実績もない。
王都で何を作っていたと言っても、それはすべてマリエルや商会の名前で発表されている。
リネットという職人を知る者はいない。
私は商業ギルドから、小さな仕事を受けることにした。
報酬は多くない。
最初から大きな仕事が来るとは思っていない。
私の名前で、一つずつ実績を積めばいい。
そう思いながら、作業机で魔導書を開いていた時だった。
扉につけた鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
顔を上げる。
二人の男性が入ってきた。
一人は、銀灰色の短い髪をした長身の男。
簡素な黒い上着を着ている。身なりは派手ではない。
けれど姿勢がよく、淡い青の瞳には鋭さがあった。
その後ろにいる男は、側近か護衛のように見える。
二人とも、普通の客とは少し雰囲気が違った。
銀灰色の髪の男は店内を見回す。
そして、私を見た。
「城門の結界について報告した職人は、君か?」




