第1話 インク職人、家出する
大広間の中央で、銀色の鳥が羽ばたいた。
光でできた翼が広がり、無数の羽根が舞い落ちる。
羽根は床へ触れる前に小さな花へ変わり、招待客たちの周囲をきらきらと飛び回った。
「まあ……!」
「なんて美しい魔法なの」
「さすがは天才魔術師、マリエル嬢だ」
広間のあちこちから歓声が上がる。
その中心で、妹のマリエルは杖を掲げていた。
腰まで伸びた蜂蜜色の髪。明るい緑の瞳。
光を受けた華やかなドレスが輝き、まるで彼女自身が魔法の一部になったようだった。
私は、その光景を会場の隅から見ていた。
正確には、マリエルを見ていたわけではない。
彼女が握っている杖を見ていた。
白い木で作られた杖には、細い銀色の線が刻まれている。
私が三日前に書き直した術式だ。
光の鳥が大きく旋回する。翼の形は崩れていない。
魔力の流れも安定している。
杖に施した増幅用のインクも、正しく働いているようだった。
「……よかった」
小さく息を吐く。
マリエルの魔力は強い。
ただし、流れが荒く、普通の杖や魔導書では制御しきれない。
だから私は、彼女の魔力に合わせた専用インクを作ってきた。
余分な魔力を逃がし、必要な部分だけを増幅する。
杖に刻まれた術式も、少しでも薄くなれば私が書き直した。
今夜の魔法も、失敗すれば広間の装飾を吹き飛ばしていたかもしれない。
けれど、問題はない。
銀色の鳥は最後まで美しい姿を保ち、マリエルの杖へ吸い込まれるように消えた。
大きな拍手が広間を満たす。
「見事だ、マリエル!」
父が誇らしげに声を上げた。
「今の魔法は、娘が自ら改良したものです。新たに開発した魔力軽減の技術も使われております」
「お若いのに素晴らしい」
「エルフォード家には、まさに天才が生まれたのですな」
客たちの称賛を受け、マリエルが嬉しそうに微笑む。
父も母も、満足そうだった。
私が作った魔力軽減用インク。私が改良した杖の術式。
私が何度も失敗し、材料の割合を変えながら完成させた技術。
そのすべてが、今夜もマリエルの功績として紹介された。
いつものことだった。
初めて消えかけた魔導書を復元した時も。
保存箱に使う生活用インクを開発した時も。
家の商会で販売された商品には、天才魔術師マリエルの名がつけられた。
私の名前は、どこにもない。
この世界では、魔法の威力や安定性は、術式を書くインクによって大きく変わる。
正しい術式があっても、インクが合わなければ十分な効果は出ない。
魔力を無駄に消費し、最悪の場合は暴発する。
だから魔法インク職人は、術式や使い手に合わせてインクを調合する。
けれど、私たちは裏方だ。
誰も、光の鳥を支えているインクまでは見ない。
目に映るのは、美しい魔法を使った者だけ。
それでも私は、この仕事が好きだった。
材料を混ぜる時間も。少しずつ色や粘度が変わっていく様子を見ることも。
効果を失った魔導書が、再び淡く光り始める瞬間も。
すべて楽しかった。
誰にも名前を知られなくても、家族の役に立てるなら。
私が作ったもので、誰かの生活が少し楽になるなら。
そう自分に言い聞かせてきた。
だから、祝いの輪へ入ることもなく、会場の隅から魔道具の発動を見届けていた。
私の役目は、それで終わりだった。
パーティーが終わり、最後の客が帰った頃。
私は父に呼ばれ、屋敷の応接室へ向かった。
部屋には父と母、マリエルがいた。
そして、私の婚約者であるセドリックも。
マリエルは先ほどの華やかなドレスのまま、セドリックの隣へ座っていた。
距離が、少し近い。
「リネット、話がある」
父が言った。
「お前とセドリック殿の婚約を解消することになった」
「……婚約を?」
「ああ。そして、マリエルとセドリック殿が婚約する」
私はしばらく、二人を見た。
セドリックは気まずそうにしながらも、マリエルの手を握っている。
どうやら、私の知らないところですべて決まっていたらしい。
「悪く思わないでくれ、リネット」
セドリックが口を開いた。
「君は真面目だが、私の妻になるなら、マリエルの方がふさわしい」
「なぜですか?」
「彼女は天才魔術師だ。華やかで、人々を惹きつける力がある」
セドリックは、うっとりとマリエルを見る。
「今夜の魔法も素晴らしかった。工房に籠もって、インクを混ぜているだけの君より、彼女の方が私にふさわしい」
インクを混ぜているだけ。
その言葉が、妙に胸に残った。
幼い頃から、私は工房で働いてきた。
手を染め、指先を傷つけ、眠る時間を削ってインクを作った。
それらはすべて、ただ混ぜているだけに見えていたらしい。
「仕方ありませんわ、お姉様」
マリエルが優しい声で言った。
「セドリック様は、私の魔法を誰よりも理解してくださっていますもの」
理解している?
マリエルの魔法を一番理解しているのは、私だろう。
当人のマリエル以上に、私のほうが詳しい。
「リネット。お前も納得したな」
父が言った。
「婚約の件は以上だ。それより、来月の王宮での発表に向けて、マリエルの専用インクを用意しておけ」
私は父を見る。
「……私が作るのですか?」
「当然だろう」
「婚約者を妹に譲った後も?」
「それと仕事は別だ」
父は少し苛立ったように眉を寄せた。
「お前はこれまで通り工房で働けばいい。マリエルを支えることが、お前の役目だ」
「そうですわ、お姉様」
マリエルも頷く。
「お姉様には、魔法を使う才能がないのですもの。これまで通り、私を支えてくださればいいでしょう?」
……この人たちは、本当に私を一人の人間だと思っていない。
マリエルを輝かせるための職人。商会の商品を作るための手。
婚約者を奪われても、功績を奪われても、黙って働き続ける便利な娘。
私はずっと、そういうものだったらしい。
「――お断りします」
部屋が静かになった。
「……何だと?」
父が低い声を出す。
「もう、マリエルの専用インクは作りません」
「お姉様?」
「婚約者も、これまでの功績も差し上げます」
私はマリエルを見る。
それから、セドリックと両親を順番に見た。
「ですが、私の技術まで差し上げ続けるつもりはありません」
「馬鹿なことを言うな!」
父が机を叩いた。
「お前の技術は、エルフォード家のものだ!」
「工房も、商会の配合帳も、家のものです」
私は静かに答える。
「ですが、私が自分で考えた技術と研究は、私のものです」
「誰に育ててもらったと思っている!」
「ですから、今まで働いてきました」
十分すぎるほどに。けれど、もういい。
私は自室へ戻り、荷物をまとめた。
服を数着。自分で買った筆と調合道具。個人で記録してきた研究帳。
それから、これまで個人で受けた仕事で貯めてきたお金。
家の商会から受け取ったものではない。
私が自分の技術で稼ぎ、少しずつ蓄えてきたものだ。
玄関へ向かうと、父が追ってきた。
「本気で出ていくつもりか」
「はい」
「この家を出て、お前に何ができる」
その言葉に、足が少し止まった。
家も、身分も、工房も失う。不安がないわけではない。
けれど私は、もう振り返らなかった。
「今ここを出るなら、お前を勘当する!」
父の怒鳴り声が背中に届く。
「泣いて戻ってきても、二度と家には入れんぞ!」
「承知しました」
私は屋敷を出た。
その日のうちに、王都を離れる乗合馬車へ乗った。
目指すのは、辺境にある職人街。
腕さえあれば、身分を問わず仕事を得られる場所だと聞いている。
窓の外で、王都の街並みが遠ざかる。
家族はきっと、私がすぐに戻ると思っている。
残してきたインクもある。配合帳もある。
だから私がいなくても、何も変わらないと考えているのだろう。
私は膝の上の鞄へ手を置く。
怖い。けれど、それ以上に胸が軽かった。
今まで私は、誰かを輝かせるためにインクを作ってきた。
これからは違う。
「今度こそ」
馬車が王都の門を抜ける。
私は遠ざかる街を見ながら、小さく笑った。
「私の作ったものを、私の名前で世に出そう」
私を閉じ込めていた屋敷は、もう遠い。
何も持たない私は、ようやく自分の人生を始めようとしていた。
それは少し怖くて――けれど、新しいインクを作る時のように、胸が高鳴ることでもあった。




