第26話 捨てられた家族の衰退
王都へ戻ったエルフォード家に、明るい話は一つもなかった。
辺境へ向かう前から悪化していた商会の状況は、帰ってきたからといって何かが変わるわけではない。
王宮との契約は打ち切られたまま。
大口の取引先も戻ってこない。
返品された保存インクの代金と、傷んだ食料や薬草に対する損害賠償も残っている。
工房からはさらに二人の職人が辞め、材料を仕入れようにも、どの商人からも前払いを求められるようになっていた。
何より、リネットは戻ってこなかった。
「……まだ終わっていない」
会長室で、オズワルドは何度目かわからない言葉を口にした。
机の上には帳簿と請求書。
数日前に見た時より、数字はさらに悪くなっている。
「リネットが過去の功績について申し立てをしなかったのなら、まだ立て直せる」
向かいに立つ経理担当の男は、何も答えなかった。
「聞いているのか!」
「はい」
「なら、なぜ黙っている!」
「申し立てをされていないことと、商会の商品が売れないことは別の問題ですので」
オズワルドの顔が歪む。
「信用が戻れば売れる!」
「今のお話は、その信用が戻るための商品がないということです」
「商品ならあるだろう!」
「あります。信用が落ちてきて、売れない商品が」
「っ……!」
経理担当の声は淡々としていた。
保存インクは以前より性能が落ちている。
杖用インクも、魔力軽減インクも同じ。
新しく作ろうとしても、昔と同じ品質にはならない。
「なら、同じものを作れ!」
「作れないから、この状態なのですが」
しばらく沈黙が落ちた。
以前なら、そんな言い方をする者はいなかった。
だが今は、辞める者が増えすぎている。
残っている人間も、オズワルドの機嫌を取る余裕がなくなっていた。
「……職人を増やせ」
「募集はしています」
「腕のいい者を雇え!」
「以前の給金を払えるのでしたら、もう少し応募もあるかもしれません」
「金の話ばかりするな!」
「申し訳ありません、ですが商会ですので」
オズワルドは机を叩いた。
だが、机の上の帳簿は何も変わらなかった。
数字というものは、怒鳴っても増えたり減ったりはくれない。
数日後、エルフォード家の食卓でも、同じような話が続いていた。
「でも、リネットも最後には家族を見捨てきれなかったのでしょう?」
ヴィオラは紅茶を飲みながら言う。
「本当に私たちを憎んでいるなら、昔の功績を取り返せばよかったじゃない。裁判だってできたのでしょう?」
「……」
「しなかったということは、まだ家族だと思っているのよ」
マリエルも、その言葉に少し顔を上げた。
「やっぱり、そうよね」
「ええ。あの子は昔からそういう子だったもの」
「では、もう一度話せば――」
「違う」
オズワルドが低い声で遮った。
ヴィオラが眉を寄せる。
「何が違うの?」
「あれは、見限ったんだ」
「……え?」
言葉にした途端。
オズワルド自身も、少しだけ顔を歪めた。
リネットは、商会を潰すつもりはないと言った。
昔の功績も取り返さない。代わりに、もう関わるなと。
それは許したのではない。
助けるつもりもない。
自分たちがどうなろうと、もうリネットには関係がないということだった。
「そんな……」
ヴィオラは納得できない顔をする。
「家族、なのに……」
「その家族だから、もう関わりたくないと言われたんだ」
誰も続きを言わなかった。
食卓に、気まずい沈黙が落ちる。
以前の商会ならば、何か問題が起きれば、最後にはリネットが何とかした。
今はいない。
それだけのことが、思っていたよりずっと大きかった。
一方、セドリックの状況も良くなかった。
王都で知人に会えば、以前ほど気軽に声をかけられない。
むしろ、妙な同情を向けられることが増えていた。
「そういえば、マリエル嬢は最近、魔法の披露をしていないな」
「……少し休んでいるだけだ」
「前の披露会でも失敗したんだったか?」
「杖の調子が悪かったんだ」
「その杖も、姉君が調整していたという話を聞いたが」
セドリックは言葉に詰まる。
「噂にすぎない」
「そうか?」
相手はそれ以上何も言わなかった。
けれどその顔には、以前と違うものが浮かんでいた。
セドリックがマリエルを選んだ時。
周囲は、天才魔術師を選んだのだと思っていた。
リネットよりも将来性のある妹。
華やかで、魔力量も多く、王宮からも注目されている。
その選択を羨ましがる者すらいた。
だが、今は。
『本当に見る目があったのか』
『なかったから今みたいに酷い目に遭っているんだ』
そう思われている気がしてならなかった。
マリエルとの空気も以前とは違う。
「あなたがちゃんとお姉様を説得してくれなかったからよ!」
「なぜ僕のせいになるんだ!」
「だって、私が言っても聞いてくれなかったもの!」
「君は工房の中で魔法を暴走させただろう! あれで話が余計に拗れたんじゃないか!」
「だって、お姉様が私を馬鹿にするから!」
「馬鹿になどしていなかった!」
「どっちの味方なのよ!」
少し前まで。
二人は互いに、自分こそが正しい選択をしたと思っていた。
今では何かあるたび、相手の責任を探している。
リネットがいなくなっても。
誰かに責任を押しつける習慣だけは、きちんと残っていた。
「もういい!」
マリエルは椅子を蹴るように立ち上がり、自室へ戻った。
机の上には、亀裂の入った杖が置いてある。
辺境から帰ってから、何度も見ていた。
あの日、自分の魔法は途中で崩れた。
ルーカスには、リネットが整えた杖のおかげだと言われた。
それを思い出すたび、胸の奥が熱くなる。
「違うわ……」
マリエルは小さく呟いた。
「私だって、できるもの」
机の上には、いくつもの材料が並んでいる。
魔力を通しやすくする粉。
粘度を調整する薬液。
杖に定着させるための素材。
どれも、以前リネットが使っていたのを見たことがある。
細かな配合までは知らない。
でも材料さえ似せれば、自分にも作れると思った。
小さな器へ粉を入れ、液体を加える。混ぜる。
最初は灰色だったものが、徐々に青く変わっていく。
「……できた?」
少し期待して、杖の欠けた術式へ塗ってみる。
魔力を流した瞬間。
ぱち、と小さな音がした。
「きゃっ!」
杖の表面から細かな火花が散る。
慌てて手を離す。
インクは黒く変色していた。
「……何よ、これ」
失敗。その瓶を横へ押しやる。
もう一度。今度は粉を減らす。液体を少し多くする。
けれど、今度は杖に塗っても定着せず、そのまま流れ落ちた。
「違う……」
また一本、机の端へ置く。
夕方には、失敗した瓶が四つ並んでいた。
「お姉様にできたんだから」
マリエルは新しい瓶を取る。
「私にできないはずないわ」
リネットは魔力量が少なかった。
自分の方がずっと多い。
魔法だって、自分の方が得意だった。
なら、インクくらい作れるはずだ。
そうでなければ。
今まで自分が天才だと呼ばれてきたことまで、全部違っていたような気がする。
――お姉様が天才だと、自分で認めることになってしまう。
「お姉様がいなくても、私はできるんだから!」
そう言いながら、マリエルは、また材料を量る。
そして、机の上には。
失敗したインクの瓶が、増えていった。




