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第25話 自分の名前で


「私は、戻りません。私の場所は、ここですから」


 工房の中が静かになる。

 父は私を睨んだまま、しばらく何も言わなかった。


 けれど、諦めたわけではないらしい。


「商会が潰れれば、お前の責任だぞ」

「違います」

「何が違う! お前が勝手に出ていかなければ、こんなことにはならなかった!」


 父の声が工房に響く。


「今まで商会で身につけた技術も、すべてエルフォード家のものだ。戻るつもりがないと言うなら、せめて技術を返せ。配合表も研究帳も、全部だ」

「返す、ですか」


 不思議な言葉だった。

 自分で考えて、自分で試して、何度も失敗して作ったものを。


 それがいつの間にか、私は借りていただけのことになっているらしい。


「お父様。それは――」

「その話でしたら」


 横から、アベルの声がした。

 見ると、いつの間にか何枚かの書類を手にしている。


「少々、確認しておいた方がよろしいかと」

「何だ、お前は」

「辺境伯閣下の側近、アベルと申します」


 いつもの穏やかな顔で一礼する。


 父は明らかに不機嫌そうだったけれど、相手がルーカスの側近だとわかると、それ以上は何も言わなかった。

 アベルは机の空いている場所へ、書類を何枚か並べていく。


「エルフォード商会について調査した際、過去の商品開発についてもいくつか記録を確認しました」


 最初の紙には、魔力軽減インク。

 次は保存インク。杖用インク。


 それから、魔導書の修復技術。

 どれも見覚えがある。


「こちらは当時の材料購入記録です。試作の時期に、それまで商会では扱っていなかった素材が何度か少量ずつ購入されています」


 日付を見る。それも覚えていた。

 魔力軽減インクの配合を考えていた頃。


 あまり思い出したくない失敗まで、日付を見ると意外と蘇ってくる。


「こちらは、当時工房にいた職人への聞き取りです。リネット様が試作を繰り返していたこと。最終調整の多くを担当していたことについて、複数人から同じ証言が得られています」


 父の顔が少しずつ険しくなる。


「それが何だ。家の工房で娘が仕事をしていただけだろう!」

「では、こちらはどうでしょう」


 アベルが別の書類を出す。


 『魔力軽減インク、考案者マリエル・エルフォード』


「なぜ、家の仕事をしていただけのリネット様ではなく、マリエル様個人の考案として発表されているのでしょう」

「それは……マリエルの魔法理論を元にしたからだ!」

「その理論についても確認しましたが、具体的な配合や試作記録は見つかりませんでした」


 マリエルの顔が強張る。

 アベルはさらに紙をめくる。


「保存インクは商会独自開発。杖用インクはマリエル様の魔法技術を応用。魔導書修復はオズワルド様の指導による成果」


 そこまで読み上げてから、私を見る。


「ですが、実際の作業記録にはリネット様の名前が複数残っています。正式な開発者としての記録と報酬だけがありません」

「だから何だ!」

「――詳しく調査すれば、これだけの証拠があるという話だ」


 今度はルーカスが口を開いた。

 静かな声だった。


「職人組合や商業組合へ正式に申し立て、必要なら法廷で争うこともできる。そうなれば、少なくとも今まで通り、すべてをエルフォード商会やマリエルの功績だと言い続けるのは難しいだろう」


 父の表情が初めて変わった。


「法廷……?」

「ああ」

「馬鹿な……家の中のことだぞ!」

「商売として公に発表し、利益を得ている時点で、家の中だけの話ではない」

「リネットは私の娘だ!」

「娘なら、仕事の成果を誰の名前で発表しても構わないと?」


 父は黙った。

 母もマリエルも、セドリックも口を挟まない。


 机の上には、私がずっと何も言わずに手放してきたものが並んでいる。

 その気になれば、取り戻せるのかもしれない。


 マリエルの功績として発表されたものも。

 商会の商品として扱われたものも。


 全部調べて、誰が何を作ったのか、きちんと明らかにして。

 でも……。


「もういいです」


 ルーカスがこちらを見る。


「リネット?」

「家にいた頃のことまで、全部取り戻したいとは思っていません」


 父が少しだけ息を吐いた。


「そうだ。それでいい。お前もようやく――」

「勘違いしないでください」


 父の言葉を遮る。


「怖くなったわけでも、お父様が正しかったと思ったわけでもありません」

「なら何だ」


 私は机の上の資料を見る。

 全部、確かに私が作ったものだったけれど。


「昔のものについて、今さら皆さんから取り上げるつもりはありません」


 父が眉をひそめる。


「その功績は、もう皆さんに差し上げます」


 以前、家を出る時にも似たようなことを言った。


「でも、私の技術まで差し上げるつもりはありません」

「何だと?」

「そして、ここへ来てから私が作ったものは、もっと別です」


 棚へ視線を向ける。

 三段式冷蔵箱の専用インク。簡易保存箱用のインク。


 防水インク。薪を乾かすためのインク。

 修復した魔導書。直した結界。


 全部、ここへ来てから、自分で考えて作った。


「これは私の工房で、私が作ったものです。一つも差し上げません」

「家族なのにか!」

「家族だから差し上げなければならない理由はありません」


 父が言葉を失う。


「私は、過去のことで皆さんと争うつもりはありません。商会を潰したいとも思っていません」

「だったら戻ればいいでしょう!」


 母がすぐに言う。


「裁判なんてしないと言うなら、まだ家族としてやり直せるじゃない!」

「やり直したいわけではありません」

「……え?」

「関わりたくないんです」


 自分で言ってみると。

 思っていたより、簡単な言葉だった。


「私は皆さんの商会を潰しません。昔の功績も取り返しません。その代わり、皆さんも私の工房を利用しないでください」

「それでは商会がどうなると思っている!」

「それは、私の仕事ではありません」


 父の顔が赤くなる。

 でも、それ以上言うことはなかった。


 商会をどう立て直すか。誰を雇うか。何を売るか。

 それを考えるのは、商会の人間だ。


 もう私ではない。


「リネット」


 セドリックがまだ何か言おうとする。


「君も少し意地になっているんだろう。マリエルとの婚約について思うところがあるのなら――」

「ありません」

「……何?」

「あなたがマリエルを選んだことを後悔しているのなら、それも私には関係ありません」

「私は後悔など――」

「なら、よかったです。私もあなたに何も一つ、微塵も気持ちなどないので」


 思ったより簡単に終わった。

 セドリックが少し複雑な顔をしているけれど、それについて考える必要もない。


「お姉様……」


 マリエルが、亀裂の入った杖を握っている。


「本当に、もう何もしてくれないの?」

「ええ」

「私の杖も?」

「直しません」

「インクも?」

「作りません」


 マリエルの目が揺れる。


「でも、私……」

「天才だと証明したいなら、自分の力でして」

「……」

「私はもう手伝わないわ」


 ずっと、マリエルが上手く魔法を使えるように。

 失敗しないように。誰よりも輝けるように。


 そうやって支えてきた。

 でも、それも終わりだ。


「話はまとまったようだな」


 ルーカスが父へ向き直る。


「改めて伝えておく。辺境へ来てからリネットが開発した技術に、エルフォード商会は一切の権利を持たない」

「っ……」

「冷蔵箱の術式も、専用インクも、その他の商品も正式に彼女の工房名義で契約されている。無断利用、資料の持ち出し、本人への強要。そのいずれかがあれば、次は正式に対応する」


 父が机の上の資料を見る。

 さっきまでとは違う。


 自分たちの過去まで調べられていると知ったからだろう。


「この資料はどうするつもりだ?」

「今のところは何もしない」


 ルーカスが答えるより先に、私は言った。


「でも、残しておきます」

「っ、何のためにだ!」

「皆さんが、もう一度同じことをしないためです」


 父をまっすぐ見る。


「今までの功績は譲ります。でも、次は譲りません」


 しばらく誰も何も言わなかった。

 最初に視線を逸らしたのは父だった。


「……行くぞ」

「あなた……!」

「ここにいても無駄だ」


 母はまだ何か言いたそうだったけれど、父はもう私を見なかった。

 セドリックも黙って続く。


 最後にマリエルだけが振り返った。


「お姉様」

「何?」

「私、本当に一人でもできるから」

「そう」

「絶対に証明するから」

「頑張って」


 それ以外に言えることはなかった。


 別に失敗してほしいと思っているわけじゃない、商会の事業も、マリエルの魔法も。

 ただ私がもう関わりたくないだけだ。


 マリエルは唇を噛み、そのまま工房を出ていった。

 やがて馬車が動き始める。


 窓の外を、エルフォード家の紋章が遠ざかっていく。

 私はそれを見送った。


 胸が痛むかと思った。寂しくなるかとも思った。

 でも感じたのは、どちらとも少し違った。


「……終わった」


 ただ、その感想だった。

 小さく息を吐く。


 その時、ずっと店の隅で静かにしていたノエルが近づいてきた。


「……これで、終わったんでしょうか」

「終わってくれると助かります」

「そこは『終わりました』じゃないんですね」

「家族なので、あまり信用がありません」


 これで終わってくれると嬉しいとは思うけど。


 家族を見送り、ノエルと一緒に工房に入って見渡す。。

 棚も。机も。商品も。


 何一つ変わっていない。

 家族が来る前と同じ。


 でも、今は前よりもはっきりわかる。

 ここは私の場所だ。


 誰かに返す必要も。誰かの名前へ変える必要もない。

 これから作るものは。


 全部、私の名前で残していけばいい。


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― 新着の感想 ―
>「家族なのにか!」 >「家族だから差し上げなければならない理由はありません」 家族としてリネットにあげた物は何があるんだ? この父なら平気な顔して「技術を学ばせて仕事をさせてやった」とか言いそうで…
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