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第27話 リネットの魔法インク工房


 家族が辺境を去ってから、しばらく経った。


 あの日の後も、工房は変わらず開いている。


 朝になれば扉を開けて、注文書を確認する。

 インクを調合して、預かっている魔導書を修復する。


 客が来ればノエルが対応して、難しい相談だけ私を呼ぶ。

 家族が来る前と、ほとんど同じ。


「リネットさん、これお願いします」

「何ですか?」


 ノエルから渡されたのは、新しい注文書だった。

 防水インクが二本。簡易保存箱用のインクが三本。


 その下には、以前利用した客からの追加注文と書かれている。


「前にも買ってくださった方ですね」

「はい。この前のが良かったから、追加で欲しいって」

「そうですか」

「嬉しそうですね」

「わかりますか?」

「最近は結構わかってきました」


 少し前まで、ルーカスにも似たようなことを言われた。

 感情が顔に出るようになったというのは、成長なのかもしれない。


 職人として、必要な成長かはわからないけれど。


「また来てくださるのは、嬉しいです」


 一度商品を買った人が、もう一度この工房へ来る。

 修復を頼んだ人が、別の魔導書を持ってくる。


 誰かから聞いたと言って、新しい客が訪ねてくる。

 どれも、家にいた頃にはあまり意識したことがなかった。


 エルフォード商会では、商品が売れても商会の実績だった。

 客が満足しても、次の注文が来ても。


 私のところまで、その声が届くことは少なかった。

 でも今は違う。


「この前のインク、よかったよ」


 そう言ってもらえる。

 その『この前のインク』を作ったのが、私だと知ってもらえている。


 それが思っていた以上に嬉しかった。


「リネットさん」

「はい?」

「ご家族のことなんですけど……」


 注文書を整理していたノエルが、少しだけ声を落とした。


「本当によかったんですか?」


 何について聞かれているのかは、すぐにわかった。

 昔の功績。ルーカスとアベルが集めてくれた資料。


 正式に調べれば、誰が何を作ったのかを明らかにできる可能性がある。

 でも私は、それをしなかった。


「はい」

「取り返そうと思えば、取り返せたんですよね?」

「たぶん」

「悔しくないですか?」


 少し考える。


「……悔しくなかったと言えば、嘘になります」


 自分で作ったものを、マリエルの功績として発表された。

 父の指導による成果と言われた。


 私の名前だけが消えていた。

 それを知った時、何も感じなかったわけではない。


「でも、昔の商品まで取り返そうとしたら、きっとずっと家族のことを考えることになりますから」

「ずっと?」

「誰がいつ何を作ったのか調べて、証言を集めて、話し合って。それでも駄目なら法廷へ行って」


 想像しただけで、かなり時間がかかりそうだ。


「その間も、お父様やマリエルのことを考え続けることになります」

「……確かに」

「それより、新しいものを作りたいです」


 私は棚を見る。

 そこには、辺境へ来てから作ったインクが並んでいる。


 古い功績を一つ取り返すより。

 新しいものを一つ、二つ、三つと作りたい。


 その方が、今の私には合っている気がした。


「なるほど」


 ノエルが何度か頷く。


「リネットさんらしいですね」

「そうですか?」

「はい。復讐するより、新しいインク作ってそうです」

「……そうですね」


 自分でも否定できなかった。

 家族を困らせる方法を考えるより、新しい配合を考える方が楽しい。


 多分、それでいい。


「――ただし。身体を壊さない程度にな」


 聞き慣れた声がして、私は入口を見る。

 いつの間にかルーカスが立っていた。


「ルーカス様」

「邪魔をするぞ」

「いつからいたんですか?」

「新しいインクを作りたい、あたりからだ」

「かなり聞いていますね」

「聞くつもりはなかった」

「皆さん、最近それをよく言います」


 ノエルも似たようなことを言っていた気がする。

 工房は小さいので、秘密の話には向いていないらしい。


 ルーカスが机の近くまで来る。


「あれらの証拠は残しておく」

「はい」

「君が過去を争わないと決めたことは尊重する。だが、向こうがもう一度君の技術へ手を出した時は別だ」

「その時は?」

「全部使う」


 迷いがない。


「証拠、かなりありますよね」

「アベルが楽しそうに集めていたからな」

「楽しんではおりません」


 後ろからアベルが入ってくる。

 いたらしい。


「仕事として、大変丁寧に集めただけです」

「そうですか」

「はい。今後さらに必要になれば、追加も可能です」

「少し楽しそうですね」

「リネット殿まで」


 アベルが困ったように笑った。


 過去を許したわけではない。

 ただ、こちらから追わないだけ。


 それでも、もし向こうからまた手を伸ばしてきたら。

 その時はもう譲らないと、そう決めている。


 工房の仕事は、その後も順調に増えていった。

 三段式冷蔵箱は、街の食堂や宿屋にも少しずつ広がっている。


 簡易型の保存箱は、一般の家庭でも使われ始めた。


 ある日、材料を買いに街へ出た時。

 八百屋の店先に、小さな保存箱が置かれているのを見つけた。


「あ……」

「どうしました?」


 一緒にいたノエルが足を止める。


「あれ」

「ああ、リネットさんのですね」

「はい」


 箱の横には、小さな金属板。


 『専用インク製作、リネットの魔法インク工房』


 自分で見ても、まだ少し不思議な気持ちになる。


「普通に街にありますね」

「それはしっかり売ってますからね」

「そうなのですけど」

「作った本人が一番驚いてどうするんですか」


 その通りだった。

 でも以前は、自分が作ったものがどこで誰に使われているのか、ほとんど知らなかった。


 今は、街を歩くだけで見つかる。

 食堂の裏に冷蔵箱。


 宿屋には防水インクの注意書き。

 薪屋には乾燥用インク。


 ただし……例の宿屋の主人の外套は、今でも少し光っていた。


「……まだ光っていますね」

「お気に入りらしいですよ」

「そうなのですか?」

「光沢があって、他の外套と比べて防水性能が高そうに見えるって」

「実際、高いですけど」

「じゃあ問題ないですね」

「見た目以外は」


 防水インクの新しい使用例として紹介するのは、やめておこうと思った。


 工房へ戻ると、今度は以前魔導書を修復した客が来ていた。


「この前はありがとう」

「いえ。問題なく使えていますか?」

「ああ。だから今度は、知り合いから頼まれてな」


 新しい魔導書を一冊、預かる。

 こうして一つの仕事が、次の仕事へ繋がっていく。


 私の名前で、少しずつ。

 それが積み重なっていく。


 昔の功績を全部取り戻さなくても。

 これから作っていけばいい。


 そう思えるようになっていた。


 その日の夕方。

 最後の客を見送った頃に、また工房の鈴が鳴った。


「邪魔をする」

「また来た……」


 ノエルが小さな声で言う。


「聞こえているぞ」

「すみません!」


 最近はもう、ルーカスが来ても驚かなくなった。

 私も同じだ。


「今日はどうされたのですか?」

「……」


 ルーカスが少し黙る。


「冷蔵箱ですか?」

「いや」

「保存庫?」

「それも違う」

「では結界が?」

「違う」


 なんだか珍しい。


「では、何でしょう?」

「特に急ぎの用事ではない、領主館に帰る途中、近くに寄ったから来ただけだ」


 隣でノエルが窓の外を見る。


「領主館から、この辺りって近かったですっけ?」

「ノエルさん、静かに」

「はい、アベル様」


 なんだかノエルとアベルが仲良くなってきた気がする。

 なぜかはわからないが、人付き合いがいいのは良いことだ。


 ルーカスは少しだけ居心地が悪そうにしていたけれど、すぐにいつもの表情へ戻った。


「商業組合から、冷蔵箱の追加契約について書類が来ている。明日にでも届ける」

「わかりました」

「それと」

「はい?」

「今度、時間があるか?」

「いつかによりますが……何か新しいお仕事ですか?」

「いや」


 ルーカスが一度言葉を止めた。


「仕事ではない」

「……?」

「食事にでも行かないかと思っただけだ」

「……私とですか?」

「もちろん、他に誰がいる」

「念のためです」


 横を見ると、ノエルが目を真ん丸にしてこちらを見ていた。

 目が合うと、すぐに逸らされた。


 私はもう一度ルーカスを見る。

 仕事ではない。


 領主としての依頼でもない。

 ただ、一緒に食事へ行く。


 そう考えた途端、少しだけ顔が熱くなった。


「……時間、作りますね」

「ああ」


 ルーカスが少し笑う。

 それを見て、なぜか私まで嬉しくなった。


 以前なら、この人が工房へ来ると、仕事の話だと思っていた。

 今も仕事の話は多い。


 でも最近は、来ると少し嬉しい。

 帰ると、次はいつ来るのだろうと思うことがある。


 これは……多分。

 もう仕事だけではない、のかもしれない。


 そこまで考えて、私は一度止めた。

 今すぐ答えを出す必要はない。


 家を出てから、私はようやく、自分で決められるようになったのだから。


 ――翌朝。


 工房を開けてすぐ、ノエルが一通の依頼書を持ってきた。


「リネットさん、修復の相談です」

「どんなものですか?」

「かなり古い魔導書らしいですよ」


 紙を受け取り、読んでいく。

 三十年以上前に作られた魔導書。


 普通のインクではなく、月の光を受けた時だけ文字が浮かび上がる特殊な術式。

 ただし現在は、一部しか反応しない。


「……」

「どうです?」

「面白そうです」

「顔がちょっと怖いですよ」

「そんな顔をしていますか?」

「子供が新しいおもちゃを見つけた時みたいな顔です」


 ノエルは笑う。

 私はもう一度依頼書を見る。


 どう直すか。どんなインクが使われているのか。

 まだ何もわからない。


 だからこそ、やってみたい。


「受けます」

「やっぱり」

「ダメですか?」

「いえ、そう言うと思っただけです」


 私は依頼書を机へ置く。

 窓の外を見ると、工房の看板が少しだけ見えた。


 『リネットの魔法インク工房』


 家を出た時。

 欲しかったのは、自分の名前で仕事をする場所だった。


 今は、もうある。

 一緒に働いてくれる人もいる。


 私の仕事を待ってくれる客もいる。

 自分の作ったものを、自分の名前で使ってくれる人も増えた。


 そして……仕事がなくても、会いたいと言ってくれる人までいる。


 過去に作ったものまで、全部取り戻す必要はない。

 これから作るものには、ちゃんと私の名前を残せばいい。


 私は看板を見上げる。


 『リネットの魔法インク工房』


 ここから先は、全部私のものだ。

 仕事も。名前も。


 そして、これから誰と過ごしていくのかも。

 それを決めるのは。


 もう、私だった。




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― 新着の感想 ―
ザマァなラストは悪くなかったです。ただ恋愛要素がいまいち盛り上がりにかけます、主人公が枯れすぎてます。技術はあっても魅力がないので残念 恋愛できる気がしない、インクの概念は面白いので恋愛抜きで評価する…
家族じゃないとは言わないのが何とも。関わりたくないけど、家族とは思いたいのかな。
完結、お疲れ様でした! リネットが自分で切り開いて繋いだ縁ですね。 誠実に向き合ってきた証。 そしてこれからは自分の人生を自分で生きていく、そんな決意を感じました。 ルーカス様やアベル様、そしてノエル…
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