第21話 ルーカスは惹かれている
リネットを工房へ送り届けたのは、昼近くになってからだった。
本当は領主館でもう一晩休ませるつもりだった。
けれど本人が、「自分の工房の方が落ち着きます」と譲らなかった。
医師からも、熱は下がっているので無理をしなければ問題ないと言われた。
仕方なく馬車を出し、工房まで送る。
ただし、今日は絶対に仕事をさせるなとノエルへ頼んだ。
「任せてください」
ノエルは力強く答えた。
本人より、よほど信用できる返事だった。
リネットは不服そうだったが、見なかったことにした。
領主館へ戻り、執務室へ入る。
机の上には、彼女が倒れてから手をつけられなかった書類が積まれていた。
椅子に座り、最初の一枚を手に取る。
文字を追う。追っているつもりだった。
「随分お疲れですね」
向かい側からアベルの声がした。
「そう見えるか?」
「はい。倒れたのはリネット殿のはずですが、閣下の方が徹夜明けのような顔をしています」
「徹夜ではないがな」
彼女が倒れたのが夕方、起きたのが翌日の朝。
起きるまで徹夜をしているわけがない。
「ほとんどお休みになっていないのでは?」
「少しは寝た」
「少し、ですか」
最近、その言葉には信用がないらしい。
まあ、今回は否定できなかった。
昨夜のことを思い出す。
一刻経った頃、私は古い工房へ戻った。
作業を続けているのなら、今度こそ強引にでも帰らせるつもりだった。
扉を開けると保存庫に明かりはなく、手前の工房だけに魔力灯がついていた。
机に広げられた資料。
その前に、リネットが伏している。
最初は、眠っているだけだと思った。
また作業に夢中になり、途中で寝てしまったのだろうと。
「リネット」
呼びかけても、返事がない。
肩へ触れても、反応が鈍い。
その瞬間、身体の内側が冷えた。
額へ触れると、熱かった。
自分でも驚くほど焦った。
大声で人を呼び、客室へ運ばせた。
医師が来るまでの時間が、ひどく長く感じられた。
呼吸を確かめる。
名前を呼ぶ。
何度確かめても、不安は消えなかった。
ガルトのことを思い出したのは事実だ。
工房の机に伏したまま動かない職人。
何日も休まず働き、自分の身体を壊した男。
昔の記憶と、目の前のリネットが重なった。
だが……それだけだったのだろうか。
『疲労と軽い発熱です。大事はありません』
医師がそう言った瞬間、身体から力が抜けた。
領地に必要な職人だから。
保存庫を修復できる、貴重な技術を持っているから。
彼女に何かあれば、領地にとって大きな損失になる。
以前なら、それで説明できた。
しかし、領地に必要な人間が体調を崩すたび、私はその横で朝まで過ごしてきたわけではない。
目を覚ましたリネットが私を見て。
『おはよう、ございます』
いつものように、そう言った。
たったそれだけで安心した。
いつもの声を聞けたことが、嬉しかった。
「……閣下?」
アベルの声で、意識が執務室へ戻る。
「何だ」
「同じ書類をしばらくご覧になっていますが」
「……ちゃんと読んでいる」
「逆さまです」
手元を見る。
本当に逆さまだった。
何も言わず、向きを直す。
「お疲れですね」
「二度言うな」
「では、三度目は控えます」
「一度目で控えろ」
アベルはわずかに笑っている。
長い付き合いだ。
こういう時、何を考えているのか大体わかる。
私は書類へ目を戻す。
しかし、今度は先ほどとは別のことが浮かんだ。
最近、リネットの工房へ行くと、最初にリネットの姿を探している。
作業机にいるのか。
客と話しているのか。奥で調合しているのか。
姿が見えれば、それでいい。
仕事の話をしている時のリネットは、普段より表情が動く。
難しい術式を見つければ、周囲が見えなくなるほど集中する。
新しい配合がうまくいけば、ほんの少し口元が緩む。
最初に会った頃は、ほとんど笑わなかった。
何をしても、それが当然だという顔をしていた。
今は違う。
ノエルに呆れられ。
客に礼を言われ。
時々、楽しそうに笑っている。
それを見るのは、悪くない。
むしろ、好きなのだと思う。
リネットがノエルと話している姿も、工房らしくていい。
ただ……もし、あの助手が男だったら。
若い男が一日中リネットの隣に立ち、二人で笑いながら仕事をしていたら。
「……」
想像しただけで、妙に面白くない。
以前、リネットが助手を雇ったと聞いた時。
『……男なのか?』
なぜか最初に、そう聞いた。
ノエルが少女だと知り、安心した。
あの時は、工房に見知らぬ男を入れる危険性を考えただけだと思っていた。
どうやら違ったらしい。
「……そういうことか」
思わず、声に出た。
「おや、何かお気づきになりましたか?」
すぐにアベルが答える。
私は顔を上げる。
「……何でもない」
「ふふっ、そうですか」
「言いたいことがあるなら言え」
「私が申し上げるより、ご自分でお気づきになる方がよろしいかと」
「何の話だ」
「何でもありません」
「今、二度目だぞ」
「一度目はご自分で言ったのでは?」
先ほどの仕返しらしい。
覚えなくていいところまで覚えている。
だが、アベルはおそらく気づいていた。
私より先に。
私はどうやら……リネットを一人の女性として好いている。
認めてしまえば、今までのことにも説明がつく。
工房へ行く理由を探していたこと。
彼女の名前を残したかったこと。
何か困っていれば手を貸したくなること。
危なっかしい働き方に、必要以上に腹が立つこと。
倒れた姿を見て、あれほど焦ったことも。
すべて、領主としての責任だけではなかった。
「なるほどな」
小さくつぶやき、私は椅子の背へ身体を預ける。
気持ちを自覚したからといって、すぐに何かを変えるつもりはなかった。
私は辺境伯だ。
リネットは、ようやく家族から離れ、自分の工房を持った。
誰かの命令ではなく、自分で仕事を選べるようになったばかりだ。
そんな彼女に、領主という立場で好意を伝えればどうなる。
断れば、工房への支援を失うかもしれない。
保存庫の仕事や、冷蔵箱での仕事を外されるかもしれない。
そう思わせる可能性がある。
実際にそんなことをするつもりはない。
断られたからといって、仕事へ影響させるつもりもない。
しかし、私がそう思っていても、リネットが同じように受け取れるとは限らない。
彼女は長い間、家族の都合で働かされてきた。
ようやく得た自由を、私の気持ちで狭めるようなことはしたくない。
だから、今はこれでいい。
工房へ行けば話ができる。
保存庫の修復も、まだ始まったばかりだ。
急ぐ必要はない。
そして、翌日。
執務室へ入った私は、保存庫修復の進捗資料を机の上へ置いた。
昨日までの作業内容。
今後必要になる素材。
一度、工房へ持っていき、リネットと話しておいた方がいい。
「本日も工房へ?」
アベルが資料を見る。
「ああ。保存庫の件がある」
「リネット殿は本日休みですが」
「……そうだったな」
私が休めと言った。
しかも、今日まで休ませるために、ノエルへ念を押した。
本人が勝手に仕事を始めないよう、インクの材料も隠して構わないと伝えてある。
行っても、リネットはいない。
いや、工房の二階で休んでいるはずだが、会う理由はない。
「資料でしたら、私がお届けしましょうか?」
「急ぎではない」
「では、明日でよろしいですね」
「ああ」
アベルが資料を別の書類の横へ移す。
私はそれを目で追った。
工房へ行く理由がなくなった。
それを残念に思っている自分に、ため息が出る。
「随分お疲れですね」
「それはもういい」
「別の理由かと思いまして」
「仕事をしろ、アベル」
「しております」
やはり、気づかれている。
領地に必要な職人だから、気になる。
もう、その言葉では誤魔化せない。
私はどうやら、リネットという女性に惹かれているらしい。
ただ、それを本人へ伝えるのは。
まだ、もう少し先でいい。
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