第20話 夢中になって…
保存庫の修復は、思っていたよりも順調に進んでいた。
最初に確認した時は壁も床も天井も、どこから手をつければいいのかわからない状態だった。
けれど、古い資料と照らし合わせながら一つずつ線を追っていけば、術式の構造は少しずつ見えてくる。
完全に消えている部分。
かすかに痕跡が残っている部分。
それらを分類し、復元する順番を決めた。
時間はかかる。
でも、できない仕事ではない。
問題があるとすれば……。
「リネットさん。今日はもう終わりましょうよ」
「あと一本だけです」
「昨日も聞きました、その言葉」
夜の工房で、ノエルが呆れた顔をしていた。
私の前には、調合途中のインクが並んでいる。
保存庫の修復に使うものではなく、昼間に受けた工房の注文分だ。
「昨日は本当に一本で終わりました」
「その後、別の一本を作っていましたよね?」
「あれは急ぎの注文だったので」
「今日は?」
「これも急ぎです」
「最近、全部急ぎになってませんか?」
言われてみれば、そうかもしれない。
午前中は工房で注文を受け、必要なインクを作る。
昼になると領主館へ向かい、夕方まで保存庫の修復。
工房へ戻ってから、残った注文を片づける。
忙しい。
けれど、ちゃんと回せている。
注文を遅らせたことはない。
保存庫の作業も予定通り進んでいる。
「大丈夫です。無理はしていません」
「無理をしている人は、みんなそう言うそうです」
確かに、自分から「私は無理をしている」という人は、そういないだろう。
「それに、今朝も眠そうでしたよ」
「少しだけです」
「パンを持ったまま動かなくなっていました」
「考え事をしていただけです」
「目を閉じて?」
「集中していました」
「寝ていた人も、みんなそう言うと思います」
でも本当のことだ、集中しすぎて一瞬だけ意識が途切れた気もするけど。
「これを作ったら終わります」
「本当に一本だけですよ」
「はい」
「別の瓶を取り出したら、隠しますからね」
「私の工房なんですが」
「だから何ですか?」
強い。
最初に来た頃の遠慮は、どこかへ消えてしまったらしい。
でも、おかげでその日は本当に一本で終わった。
そして、翌日。
午後から領主館へ向かい、保存庫の修復を続ける。
昨日までに、床の術式は半分ほど復元できていた。
今日は壁の一部を進める予定だ。
古い記録を開く。
『北側第三線、魔力の偏りあり』
『接続部を変更』
『前回と同じ配合では定着せず』
書いた人間にしかわからない記述も多いが、やるしかない。
「……前回とは、いつのことでしょう」
「さあな。数十年前のことは確かだ」
「同じ配合とは?」
「わからない」
「接続部をどう変更したのかは?」
「書かれていない」
「これは記録と言っていいのでしょうか」
「本人にとっては記録だったのだろう」
「未来の職人に厳しすぎますね」
思わずため息が出る。
せめて配合の割合だけでも残してほしかった。
過去の職人へ文句を言っても仕方がない。
残された線と周囲の術式から推測する。
使われている素材。
魔力の流れる方向。
一つずつ拾っていけば、答えは見えてくる。
「……わかりました」
「もうか?」
「この『前回』は、保存庫を作った時ではありません。作った後、一度補修した時の記録です」
「なぜわかる?」
「ここです。最初の術式と、線の重ね方が違います」
ルーカスへ資料を見せる。
指で示すと、彼も身を寄せて覗き込んだ。
「こちらが最初の線。その上に、違う配合のインクが重ねられています」
「目で見てわかるのか?」
「よく見れば」
「私には同じ黒い線に見える」
「少し青みが違います」
「……同じに見える」
「修行が足りませんね」
「私は領主だ」
「では、領主として修行してください」
「何のために?」
「私の説明が短く済みます」
「……説明までが職人の仕事じゃないのか?」
「確かにその通りですね」
ルーカスが何とも言えない顔をした。
少しだけ面白い。
私は再び資料へ目を落とす。
そこから先は、ほとんど周囲が見えなくなった。
線を確認する。配合を考える。
試し書きをして、魔力の通り方を見る。
違えば消して、また調整する。
気づけば、窓から入る光が赤くなっていた。
「リネット」
「はい」
「今日はここまでだ」
「もう少しだけ」
「外を見ろ」
言われて窓を見る。
いつの間にか、夕方になっていた。
「まだ明るいです」
「もう暗くなる」
「ここだけ終わらせれば、明日かなり楽になります」
「昨日も同じようなことを言っていなかったか?」
「昨日とは場所が違います」
「そういう意味ではない」
わかっている。
でも、今止めるのは中途半端だ。
復元する線も、残りはわずか。
「先にお戻りください。これが終わったら、私も帰ります」
「君を一人で残すわけにはいかない」
「保存庫から何か盗んだりしませんよ」
「そこは疑っていない」
「では、大丈夫です」
「大丈夫ではないから言っているんだが」
ルーカスは眉を寄せていた。
けれど、執務室にも仕事が残っているらしい。
しばらく私を見た後、小さく息を吐いた。
「一刻だ」
「はい」
「一刻経ったら、途中でもやめろ」
「わかりました」
「本当にわかっているのか?」
「……最近、よく聞かれます」
「聞かれる理由を考えろ」
そう言い残し、ルーカスは工房を出ていった。
私はすぐに作業へ戻る。
あと少し。
本当に、あと少しだった。
切れている線を繋ぎ、魔力の流れを確認する。
資料を開き、記述を読み直す。
その下に別の紙が挟まっていることに気づいた。
「これは……」
古い補修記録だった。
探していた接続部について、わずかに書かれている。
私は椅子へ座り、紙を机に広げた。
これを読めば、明日の作業はかなり進む。
そう思った――そこから先の記憶は、あまりなかった。
「――リネット!」
誰かの声が聞こえた気がした。
返事をしようとしたけれど、身体が動かない。
額に何かが触れる。
ひんやりしていて、気持ちがいい。
「額が熱い……!」
先ほどより近くで声がした。
「リネット、大丈夫か?」
肩を揺らされる。
目を開けようとしても、まぶたが重かった。
「誰か来い!」
大きな声、ルーカスの声だ。
珍しい、いつも冷静なのに。
そう考えたところで、また意識が遠くなった。
――次に目を開けた時、見慣れない天井があった。
柔らかい寝台。身体には毛布が掛けられている。
「……ここは」
「領主館の客室だ」
すぐ横から声がした。
顔を向ける。
椅子に座ったルーカスが、こちらを見ていた。
いつもより少し髪が乱れている。
それよりも、かなり機嫌が悪そうだった。
「おはよう、ございます」
「……ああ」
「怒っていますか?」
「怒っている」
「やはり……」
予想どおりだった。
窓の外は明るい。
どうやら朝まで眠っていたらしい。
身体を起こそうとすると、すぐに止められた。
「寝ていろ」
「でも、工房へ戻らないと」
「戻るな」
「注文があります」
「ノエルには連絡した」
「保存庫の作業も」
「休め」
「少し休めば大丈夫です」
「君の『少し』は信用していない」
「……最近よく言われます」
「反省しろ」
いつもより声が強い。
さすがに、そこまで怒らなくてもいいのではないだろうか。
私は少し疲れて、眠ってしまっただけだ。
医師にも診てもらったらしい。
ただの疲労と軽い発熱。
薬を飲み、一日休めば問題ないと言われたという。
「本当に、大したことはありません」
「職人が身体を壊してどうする」
「壊してはいません」
「机に伏したまま、呼んでも起きなかった」
「眠りが深かっただけです」
「額に触れたら熱があった」
「軽い熱です」
「君はいつもそうやって、大丈夫だと言うのか?」
ルーカスの声が低くなる。
そこで、私はようやく気づいた。
古い工房。倒れた職人。
何日も休まず働き、身体を壊したガルト。
彼からあの話を聞いたばかりなのに。
私が机に伏して動かなければ、ルーカスが何を思うか。
「……心配をかけてしまったんですね」
「そういう問題だけではない」
すぐに返された。
けれど、その後に少し間が空く。
否定したわけではないらしい。
「すみません」
「謝ればまた同じことをしていいわけではない」
「しません」
「信用できない」
「努力します」
「それも信用できない」
「では、どうすれば」
「私が止めたら止まれ」
思わず、ルーカスを見る。
真剣な顔だった。
冗談ではないらしい。
「君は大丈夫ではない時まで、大丈夫だと言う」
「今回は少し失敗しましたが、私は大丈夫です」
「まだ言うのか」
「それに」
口にしてから、少し迷う。
でも、そのまま続けた。
「今は、止めてくださる方もいますから」
ルーカスが黙った。
私も黙る。
言ってから、急に恥ずかしくなった。
まるで、これからも彼が私を見ていてくれると思っているような言い方だ。
いや、実際にそう思ったのかもしれない。
ルーカスが私を心配してくれることを。
少し、嬉しいと思ってしまった。
「……そうか」
やがて、ルーカスがそれだけ答えた。
横の台から水の入った器を取る。
「飲めるか?」
「はい」
受け取ろうとして、指先が触れそうになる。
なぜか少しだけ気になった。
以前なら、何とも思わなかったはずなのに。
器を受け取り、水を飲む。
ルーカスはずれかけていた毛布を引き上げた。
その手が、思っていたより近い。
「まだ熱があるな」
再び額へ手が触れる、大きな手。
少し冷たいのかと思ったけれど、そうでもなかった。
むしろ温かい。
「どうかしたか?」
「……いえ」
私は視線を逸らす。
領主様に優しくされたからといって、変な勘違いをしてはいけない。
倒れた人間を看病するのは、きっと普通のことだ。
ルーカスは領主で。
私は保存庫を修復するために雇われている職人。
それだけだ。
「今日は一日休め」
「はい」
「明日もだ」
「それは長すぎます」
「三日にするぞ」
「……明日まで休みます」
「最初から素直にそう言え」
少しだけ笑われた。
私は毛布を鼻の近くまで引き上げる。
熱のせいか、顔が少し熱い。
きっと、熱のせいだ。
そういうことにしておく。
ただ、その日のルーカスの手が思ったより温かかったことだけは。
なぜか、いつまでも妙に覚えていた。




