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第17話 何でもない?


 ノエルが工房で働き始めてから、数日が経った。


 それだけなのに、工房の中はかなり変わっていた。


 まず、注文書が散らからない。

 机の端に積まれていた紙は、納期ごとに分けられている。


 受け渡し済みのものは別の箱へ。

 材料も、使う頻度ごとに整理された。


「……見やすい」

「でしょう?」


 ノエルが少し得意そうに笑う。


「雑貨屋では、物の場所がわからなくなると怒られてましたから」

「店主の方に?」

「いえ、お客さんにです。『前はここにあったじゃない』って」

「それは困りますね」

「店主のおじさんより、お客さんの方が場所を覚えてたりするんですよ」

「……かなり通っていた方なのでしょうね」


 私は整理された棚を見る。

 今まで、どこに何があるかは自分で把握していた。


 だから不便だとは思っていなかった。

 でも、こうして並べ直されると。


「こちらの方が使いやすいですね」

「やった!」


 ノエルは素直に喜ぶ。

 接客もほとんど任せられるようになっていた。


 保存インクや防水インクの受け渡し。

 新しい注文の受付。納期の確認。


 難しい相談だけ、私を呼んでもらう。

 それだけでも、かなり違った。


 今までは調合の途中でも、客が来れば手を止めなければならなかった。

 配合を途中で止めると、どこまで入れたのかわからなくなることもある。


 同じ材料を二回入れかけたこともある。

 それも今は減った。


「リネットさん、お客様です!」

「はい」


 呼ばれて店先へ出る。

 修復の相談だったので話を聞き、預かる。


 戻ると、ノエルが注文書へ内容を書き込んでいた。


「修復、一件ですね」

「はい。納期は十日後で」

「わかりました」


 すぐに予定へ入れてくれる。

 私は作業机へ戻る。


「……楽ですね」

「何がです?」

「人がいることです」

「急に褒められました?」

「褒めています」

「もう一回言ってください」

「一回で十分です」

「ふふっ、残念です」


 そんな会話をしながら仕事をする。


 昼になると、ノエルがパンと温かいスープを机へ運んできた。


「はい、お昼です」

「ありがとうございます」

「今日はちゃんと食べてくださいね」

「食べています」

「人参と芋だけでは昼食に入れません」


 私はノエルを見る。


「なぜ知っているんですか?」

「領主様の側近アベル様が教えてくれました」

「……余計なことを」


 彼女が来てから、側近のアベルが何回か来ている。

 ルーカスは最近忙しいらしくて来てはいないが。


「領主様にも注意されたんですよね?」

「少しだけです」

「いつも注意されてそうですけど」


 今までは仕事の合間に、一人で食べることがほとんどだった。

 誰かと昼食を取るのは、少し不思議だ。


 ノエルは食事をしながら、街の話をよくしてくれる。

 最近できた菓子屋。冬になると混む食堂。


 近所の宿屋の主人が、防水インクを外套に塗りすぎて少し光沢が出てしまったこと。


「かなりピカピカでしたよ」

「塗りすぎですね」

「遠くからでもわかりました」

「注意書きを増やした方がいいでしょうか」

「大丈夫ですよ。多分、普通の人はあそこまで塗りません」

「そうですか」


 注意書きが増えると、商品の紙が注意だけで埋まりそうだ。

 魔法インクというものは、使う人によって新しい注意事項が増えるらしい。


「リネットさんって、あまり街へ遊びに行かないんですか?」


 ノエルに聞かれた。


「遊びに?」

「はい。買い物とか、お茶とか」

「必要なものを買いには行きます」

「それは遊びじゃないですよ」

「そうなのですか?」

「そうです」


 知らなかった。


「今度、時間があったら行きましょうよ」

「遊びに?」

「はい」


 仕事とは関係なく誰かと出かける。

 少し考える。


「時間があれば」

「絶対ですよ」

「時間があれば、です」

「そこは作りましょう」


 ノエルは元気だ。

 こういう話をする相手がいるのは、思っていたより楽しかった。


 午後、工房の扉につけた鈴が鳴った。


「いらっしゃいませ!」


 ノエルが先に声をかける。

 私は調合中だったので、そのまま作業を続けた。


「邪魔をする」


 聞き慣れた声だ。

 顔を上げる。


「ルーカス様」


 ルーカスが入ってきた。

 後ろにはアベルもいる。


 ノエルが固まった。


「……え?」

「どうしました?」

「い、いえ」


 ノエルはすぐに姿勢を正す。


「領主様、ですよね?」

「ああ」

「本物の?」

「他にいるのか?」

「いや、いませんけど」


 ルーカスが少し首を傾げる。

 ノエルは慌てて頭を下げた。


「失礼しました!」

「気にしなくていい」


 私は手を止める。


「今日はどうされたのですか?」

「冷蔵箱の量産分について確認に来た」

「昨日、インクを納めましたよね?」

「ああ。だから、使用した後の状態を聞きに来た」

「そうですか」


 私は昨日納めたインクについて説明する。


 問題なく使えていること。

 職人側からも、今のところ異常は報告されていないこと。


「なら問題ないな」

「はい」


 少し話した後、ルーカスとアベルは帰っていった。

 扉が閉まる。


 ノエルが、しばらくその扉を見ていた。


「……領主様って、普通に来るんですね」

「はい」

「いつもですか?」

「時々です」

「時々」

「最近は少し多いかもしれません」

「へえ……」


 ノエルが私を見る。


「何ですか?」

「いえ、何でも」


 その言葉。

 やはり最近よく聞く気がする。


 ――そして、また数日後。


「邪魔をする」

「……また来た」


 ノエルが小さな声で言った。


 ノエルは三度目くらいで、もう驚かなくなっていた。

 代わりに、私を見る回数が増えた。


 ルーカスとアベルが帰った後。

 注文書をまとめながら、ノエルが尋ねてくる。


「リネットさん」

「はい?」

「領主様って、こんなに職人の工房へ来るんですか?」

「どうでしょう。私は他の領主様を知りませんから」

「私も知りませんけど」

「仕事熱心な方なので」

「なるほど……仕事熱心、ね」

「何ですか?」

「何でもありません」


 ノエルが笑う。


 ちょうどその時。

 まだ外へ出ていなかったアベルが、忘れ物を取りに戻ってきた。


 ノエルと目が合う。

 アベルが少しだけ笑う。


 ノエルも同じように笑った。


「……?」


 何か通じ合っている。

 でも何なのかはわからない。


 少し気になったけれど、その日の仕事は多かったので、すぐに忘れた。


 さらに数日後。

 ルーカスが工房へ来た。アベルも一緒だ。


「リネット」

「はい」

「少し頼みたい仕事がある」

「冷蔵箱ですか?」

「いや。別件だ」


 ルーカスが一冊の資料を机へ置く。

 古い紙だった。


 そこには、複雑な術式の一部が写されている。


「これは……」


 私は紙を手に取る。

 見覚えのある形があった。


 以前修復した、古代魔導書に記されていた魔力循環の術式。

 完全に同じではない。


 でも、基本的な考え方は似ている。


「領主館の古い区画に残っている術式だ」

「何に使われていたものですか?」

「保存庫だと思われている」

「思われている?」

「正確な記録が残っていない」


 かなり古いものらしい。


 領主館の地下近くに、現在はほとんど使われていない区画がある。

 そこに、大型の魔導書と、壁そのものへ書かれた術式が残っているという。


「最近、君が修復していた古代魔導書を調べていて気づいた。術式の一部が似ている」

「なるほど」


 私は資料を見る。

 確かに気になる。


「一度、見てもらいたい」

「構いません」

「ただし、問題がある」

「何でしょう?」

「動かせない」


 壁と一体になった術式なので、工房へ持ってくることはできない。


「修復するなら、領主館で作業する必要がある」

「どのくらいかかりそうですか?」

「状態を見なければわからない。数日か、一、二週間程度か」

「一、二週間……」


 私は工房を見る。

 以前なら、すぐには答えられなかった。


 工房を何日も空けるのは難しい。


「リネットさん」


 ノエルが声をかける。


「私、工房にいますよ」

「でも……」

「修復はできませんけど、注文を受けたり、商品の受け渡しくらいならできます」


 胸を張る。


「あと瓶も洗えます」

「それは助かります」

「注文書も整理できます」

「かなり助かります」

「お昼も食べます」

「それは自分のためですね」

「ふふっ、大事です」


 確かに大事だ。

 私は少し考える。


 まだ全部を任せることはできない。


 でも、午前中は工房で仕事。

 午後は領主館で修復作業。


 あるいは作業が長引く日だけ、ノエルに任せる。

 それならできるかもしれない。


「……お願いします」

「はい!」

「何かわからないことがあれば、勝手に判断せず待っていてください」

「もちろんです」


 ノエルなら、それは守ってくれる。


 数日前なら、不安だったと思う。

 でも今は少しだけ、任せてみてもいいと思えた。


 私はルーカスを見る。


「一度、見せてください」

「ああ」

「修復できるかどうかは、見てから判断します」

「それで構わない」

「では、いつ伺えば?」

「明日から来られるか?」

「はい、午後からなら」

「それで構わない」


 ルーカスとアベルが帰った後。

 私は明日持っていく道具を確認していた。


 すると、隣からノエルの声がした。


「リネットさん」

「はい?」

「しばらく領主様のところへ通うんですね」

「仕事ですから」

「はい。仕事ですね」

「……何ですか?」

「いえ、何でもありません」


 また『何でもない』という言葉だ。

 なんだ最近、その言葉をよく耳にする。



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