第14話 自分の名前が
三段式冷蔵箱が完成してからも、私は試験を続けていた。
数日使って問題がないからといって、すぐに商品として出すわけにはいかない。
長時間、扉を開け閉めした場合。
外の気温がさらに下がった場合。
確認することは多い。
それと同時に、最初に作ろうとしていた冬用保存インクの改良も進めていた。
「……こっちは、これでいいかしら」
作業机の上には、小さな木箱が置かれている。
三段式冷蔵箱とは違う。
どこの家にもありそうな、普通の木箱だ。
内側には、青みがかったインクで簡単な術式を書いてある。
以前作った術式より、かなり簡単にしていた。
三段式冷蔵箱ほど細かく温度を調整することはできない。
肉や魚を何日も保存するのも難しい。
けれど、野菜や保存食を凍らせず、暖めすぎない程度なら十分に使える。
私は箱の蓋を開ける。
中には、三日前に入れた人参と芋があった。
凍っていない。
柔らかくもなっていない。
「今回は、ちゃんと保存ね」
少なくとも、昼食にはならなかった。
魔力消費もかなり少ない。
一度魔力を流せば、数日は最低限の循環だけで動く。
高価な保存用魔道具を買えない家庭でも使えるはずだ。
問題は、術式の書き方だった。
誰でも自由に書けるほど簡単にすると、線を一本間違えただけで効果が変わってしまう。
「それは避けたいわね……」
私は、薄い板へ術式の形を切り抜いた型を作った。
箱の内側へ当て、その線に沿って書けばいい。
ただし、実際に書くのは私か、きちんと書ける職人にする。
インクだけ売って、使う人に任せるのは危ない。
保存するつもりで食料を駄目にしてしまったら、商品として意味がない。
「よし」
型紙を机へ置き、次の試作品へ目を向ける。
冬用の商品は、保存インクだけではない。
街の人から聞いた困り事は、まだ残っている。
雪で濡れる靴。濡れた外套。湿った薪。
私はその中でも、まず防水インクを作ることにした。
布や革の表面へ薄い魔力膜を作り、水分だけを弾く。
こちらは保存インクほど難しくない。
何度か配合を調整し、試作品はすぐに完成した。
「問題は、実際に使ってみないとわからないことね」
私は自分の靴へ、インクを薄く塗った。
表面。側面。そして、靴底。
少し乾かしてから外へ出る。
前の日に雪が降ったため、工房の前には薄く雪が残っていた。
私は一歩踏み出す。
「……あ」
足が滑った。
次の瞬間には、身体が後ろへ傾いていた。
「きゃっ」
そのまま地面へ倒れる。
少しだけ痛い。ただ、靴を見る。
雪も水も、きれいに弾いていた。
「……防水には成功しているわね」
「君は地面に倒れているが」
頭の上から声がした。
見上げるといつの間に来たのか、ルーカスが立っていた。
少し離れたところにはアベルもいる。
「ルーカス様」
「何をしている?」
「防水インクの試験です」
「倒れる必要があるのか?」
「予定にはありませんでした」
ルーカスは小さく息を吐いた。
それから、こちらへ手を差し出す。
「立てるか?」
「はい」
私はその手を取った。
引かれるようにして立ち上がる。
思っていたより、手が大きい。
しっかりと支えられ、一歩前へ出る。
その瞬間、また靴底が滑った。
「わっ」
今度は倒れる前に、腕を掴まれた。
すぐ近くにルーカスの顔がある。
「……危ないな」
「すみません」
「いや」
抱きついている形なので、距離が近い。
いつもよりルーカスの声が近く聞こえた。
私は滑った足元を見る。
原因はすぐにわかった。
「靴底ですね」
「何が?」
「靴底にも防水インクを塗りました」
「……なぜ塗った」
「全部塗った方が効果を確認できるかと」
「水は防いだな」
「はい」
「君も滑ったが」
「防水には成功しています」
「歩行には失敗したな」
「次から靴底には塗りません」
ルーカスが私の腕から手を離す。
少しだけ、そこが軽くなったような気がした。
けれど、それより商品だ。
私は工房へ戻ると、すぐに紙へ大きく書いた。
『靴底への使用は禁止』
かなり重要な注意書きだ。
側近のアベルが横から覗き込む。
「随分と大きく書かれましたね」
「大切なので」
「身体を張って得た注意事項ですからね」
「できれば、もう身体は張りたくありません」
「よい判断かと」
次に作ったのは、薪用の乾燥インクだった。
薪全体を完全に乾かそうとすると、大量の魔力が必要になる。
だから、表面の水分だけを飛ばす。
火がつくまでの間だけ乾いていればいい。
術式も単純にし、一度使えば短時間で効果が切れるようにした。
こちらは宿屋や一般家庭へ試作品を配ると、すぐに評判になった。
「朝が楽になったよ」
「今まで、火をつけるだけで随分時間がかかっていたからね」
そう言って、追加で頼んでくれる人もいた。
防水インクも、靴底に塗らなければ好評だった。
外套の裾。革靴の表面。鞄。
雪の多い土地では、使う場所が多い。
そして、簡易保存インク。
こちらも、試験に協力してくれた農家や家庭から注文が入り始めた。
「この箱なら、夜に野菜を外へ出さなくていいのか?」
「はい。暖炉のすぐ横は避けてください。でも、普通の室内なら大丈夫です」
「それだけでも助かるよ」
普通の木箱へ術式を書くだけ。
高価な魔道具を買う必要はない。
その手軽さがよかったらしい。
気づけば、工房の机の上には注文書が積まれるようになっていた。
「……増えたわね」
嬉しい。
かなり嬉しい。
ただ、少し問題もある。
私一人では、全部を書けない。
三段式冷蔵箱の専用インクも作らなければならない。
修復の依頼も残っている。
自由というものは高かったけれど、忙しさまでついてくるらしい。
その頃、ルーカスは三段式冷蔵箱の量産計画を進めていた。
ある日、領主館の広い倉庫へ呼ばれる。
中には、木工職人や魔道具職人、商人たちが集まっていた。
試作品の三段式冷蔵箱も置かれている。
「こんなに集まるのですか?」
「量産するなら必要だ」
ルーカスは当然のように答えた。
計画は、私が思っていたよりずっと具体的だった。
木工職人が箱を作る。
私が専用のインクを調合する。
その後、訓練を受けた魔道具職人がインクを使用して術式を書く。
最後に私が魔力の流れを確認し、問題がなければ完成。
「これなら、私一人ですべて書かなくてもいいですね」
「ああ。君一人に任せたら、十箱作る前に倒れそうだからな」
「そこまでではありません」
「夜通し仕事をする人間の言葉は信用しない」
「最近は寝ています」
「どのくらい?」
「……普通に」
「間があったな」
細かいな、この人は。
説明会が始まる。
ルーカスは、集まった人たちへ冷蔵箱の構造と用途を説明した。
食料倉庫。治療院。共同倉庫。農村。
将来的には、運搬用の小型箱も考えるという。
そして最後に、試作品へ手を置いた。
「この保存箱の構造と専用インクを開発したのは、リネットの魔法インク工房だ」
その言葉に、私は顔を上げた。
「専用インクと術式に関する権利も、すべて彼女の工房に帰属する。許可なく複製、改変することは禁止する」
集まった職人たちが頷く。
完成品の側面には、小さな金属板がつけられていた。
『三段式冷蔵箱、術式・専用インク製作、リネットの魔法インク工房』
自分の名前がある。
何度見ても、少し不思議だった。
以前は、自分が作ったインクに別の名前がついていた。
どれだけ調整しても。
何度失敗して作り直しても。
表に出るのは、マリエルやエルフォード商会の名前だった。
けれど今は違う。
「リネットの冷蔵箱って、これか」
「保存インクもあの工房の商品らしい」
「冬になる前に、うちも頼みたいな」
そんな声が聞こえる。
胸の奥が、少し温かくなった。
修復の仕事とは違う。
老婦人の魔導書なら、一冊を直して、一人の大切な思い出を取り戻した。
今度の商品は、同じものを何人もの人が使える。
一つ作れば。
それが何十個、何百個と広がって。
多くの家庭の冬を、少しだけ楽にできる。
「……嬉しそうだな」
隣でルーカスが言う。
「わかりますか?」
「少しだけ」
「人に感情が伝わるほどには成長しました」
「そこを毎回報告する必要はあるのか?」
「成長は大切ですから」
それに、注文が増えれば工房の収入も安定する。
そこも、とても大切だった。
その日の夕方。
領主館から工房へ帰ると、工房に静けさが戻った。
机の上には、たくさんの注文書。
棚には、完成した保存インクや防水インク。
隅には、次の冷蔵箱用に調合した専用インク。
以前よりずっと忙しい。
一人でいることには慣れているはずなのに。
先ほどまで話し声がしていたせいか、少しだけ工房が静かに感じられた。
「……ルーカス様は、明日も確認に来るのかしら」
今日、完成した商品なら。
一日あれば、少しくらい改良できるかもしれない。
もちろん、来てもらうために、改良するわけではないけれど。




