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赫鋼のレクイエム  作者: セキマツ


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第8話:カオスの熱力学、あるいは灰の記憶

「――熱流(ベクトル)を / 乱したところで / 無駄骨よ(字余り)。新選組の誇りにかけて、僕の計算(ベクトル)を上回る混沌など、この極東セクターには存在しない」


万福定食の凍てつくフロア。


斎藤は複眼の光学レンズを不気味にズームさせ、迫り来る「マヨネーズとカプサイシンの混合熱気流」を冷徹に見据えていた。


彼の鉄刀が、空間の全エネルギーの移動方向を規定する。


通常、熱の伝導は決定論的な数式に従う。


どれほど強力な熱風であっても、その「流れの矢印(ベクトル)」さえ正確に掴めば、反転させて敵へと突き返すことは容易なはずだった。


だが、土方の高分子脂質と、オヤジの200度の中華鍋が巻き起こしたそれは、斎藤の「予測アルゴリズム」を根底から裏切る代物だった。


「な……んだ、この、流体の挙動は……!? 計算が、合わない……!」


斎藤の複眼が、エラーログの赤光を点滅させる。


理系の人間なら知っている。


流体の運動が一定の閾値を超えたとき、その軌道は予測不可能な「非線形」へと移行する。


いわゆる、カオス理論(決定論的カオス)である。


さらに、そこに非ニュートン流体であるマヨネーズの「応力による粘度変化」と、中華鍋の熱対流(ベナール・セル)が複雑に絡み合った結果、空間の熱ベクトルは一瞬で数億個の「微小な渦(タービュランス)」へと細分化されていた。


右へ行くかと思えば左へ、上へ行くかと思えば内側へと爆縮する、完全な熱的無秩序。


「言っただろ、三番隊!」


土方が残電力量2.1%の身体を軋ませ、喉から冷却オイルを吐きながら笑う。


「俺のマヨネーズはビンガム流体だ! 圧力がかかればかかるほど、その物性は不条理に変貌する! お前の綺麗な一次方程式で、この『ドロドロの混沌』が制御できると思うなよ!」


「そしてこれが、うちの店の『油通し(ジャンク・フード)』の神髄だァァァ!!」


オヤジが渾身の力で鉄鍋を床へ叩きつけた。


反転させきれなかった熱カオスが、斎藤の足元の大気を直撃し、凄まじい水蒸気爆発を引き起こす。


ドガァァァァァァァァァァンッ!!!


「ぐ、あああああッ!? ベクトルが……分散、しきれ……っ!」


斎藤のコートが爆風で引き裂かれ、チタン製の左半身が剥き出しになる。


熱対流の直撃を受けた機械の皮膚が、急激な熱膨張によってメリメリとひび割れ、制御用光ファイバーが焼き切れていく。


勝機は、今この一瞬にしかなかった。


「神野!! 撃てェェェ仕様のねえジャージ娘ッ!!」


土方が叫ぶ。


「……っ、活人剣、一刀両断……『トカマク、スライサー』……!」


宗矩は、激痛で感覚の消え去った右腕を突き出した。


生体電流を限界までスパークさせる。


彼女の細胞内ミトコンドリアが、悲鳴を上げながら最後のATP(アデノシン三リン酸)を燃焼させ、強力な磁気籠(じきかご)を空間に固定する。


1億度のプラズマの刃が、斎藤の胸元へ向けて一直線に延伸された。


だが。


必殺の刃を放ったその瞬間、宗矩の脳のワーキングメモリは、完全に負荷の限界(クラッシュ)を迎えた。


激痛。


失血。


そして、目の前で炭化していく斎藤の肉体。


肉が焦げる強烈な悪臭が、彼女の鼻腔を突き刺した瞬間――景色が、真っ白に反転した。


物理的な爆発の光ではない。


彼女の記憶の底に眠る、最も重く、最も残酷な『数式』が、脳内に強制展開(ハッキング)されたのだ。


――「よくできたね、宗矩。やはり君の熱力学(トカマク)は、この極東セクターを最適化するための最高の方程式だ」


灰色の空。


足元に広がるのは、今の第3居住区など比べものにならないほど広大な、超巨大な都市の廃墟だった。


かつて「セクター01」と呼ばれた、統括局に対する最大規模の反乱分子が集結していた居住区。


若き日の宗矩は、今のようなヨレヨレのジャージではなく、統括局の冷徹な純白の軍服を着ていた。


その手には、錆びる前の、鈍い銀色に輝く『トカマクの柄』。


そして彼女の隣には、黒い外套を翻し、冷酷なまでに美しい数式ホログラムを指先で操る男が立っていた。


大東亜統括局・最高執行官――織田信長。


「信長様……。これで、このセクターの『間引き(エネルギー収穫)』は完了ですか?」


若き宗矩の声には、一切の感情がなかった。


ただの、命令に従うだけの計算機。


「ああ。Cランク以下の全住民、約12万人。彼らの有機組織はすべて、中央融解炉の熱源としてコンバートされた。これで極東セクターの向こう30年間の『電力の帳尻』は合う」


信長は満足げに、燃え盛る都市を見下ろしていた。


「ですが、信長様。私は……完璧に計算したはずでした」


宗矩の手が、微かに震えていた。


「1億度の熱線をミリ秒単位で照射すれば、彼らは痛みを感じる間もなく、一瞬で原子レベルへと相転移するはずだった。なのに……どうして、あんなに汚い悲鳴が響いたのですか? どうして、あそこに見える肉の塊は、生のままジワジワと焼かれて、あんなに酷い臭いを立てているのですか……?」


信長はフッと冷たい笑みを浮かべ、宗矩の幼い肩に手を置いた。


「それが人間の『不条理』という名のノイズさ、宗矩。彼らはね、自分が死ぬと分かっていても、子供を庇って熱伝導の軌道を肉体で遮ろうとした。あるいは、隣の人間を抱きしめて、熱容量を無駄に分散させようとした。……そんな非合理的なノイズのせいで、君の綺麗な数式は狂い、ただの『不完全な火炙り』へと成り下がった。……悪いのは君じゃない。合理的に死ねない、人間の脆さが悪いのだよ」


人間の感情という、計算不可能なノイズ。


そのノイズのせいで、宗矩は12万人の人間を、一瞬の安楽死ではなく、「生きながらジワジワと焼き殺す地獄」へと叩き落としたのだ。


その時、彼女は気づいてしまった。


自分が信じていた「世界を救うための科学」が、この世で最も残酷な、大量虐殺のシステムに過ぎないということに。


足元を流れる、何万人もの脂肪が溶け出したドロドロの濁流。


肉の焦げる悪臭。


耳を塞いでも聞こえてくる、子供たちの断末魔の叫び。


『――嫌だ。もう、計算したくない。数字を見たくない。……私は、人間を殺したくない……っ!!!』


軍服を脱ぎ捨て、すべてを捨てて逃げ出したあの日の記憶。


彼女が1円単位の家計簿に逃げ、くだらないギャグで脳を埋め尽くそうとしていたのは、この「12万人の死の数字」に脳のメモリを占有された瞬間、自分の精神が熱核爆発を起こして壊れてしまうからだった。


「――が、はっ……!!」


ハッと我に返ったとき、宗矩は万福定食の床に両手を突き、過呼吸で激しく嘔吐していた。


視界の先では、斎藤が胸の制御基板を完全にプラズマで焼き切られ、バチバチと火花を散らしながら壁に崩れ落ちていくところだった。


「……見事な、混沌(カオス)、だったよ、土方……。……我が川柳 / 届かぬままに / シャット、ダウン……(字余り)」


斎藤の複眼の光が、完全に失われた。


機能停止。


三番隊組長を撃破した。


だが、勝利の歓喜などそこにはない。


満身創痍の土方は、限界を迎えてその場にドサリと座り込み、オヤジもまた、熱変性で変形した中華鍋を握ったまま、荒い息を吐いている。


そして、店の外からは、さらなる絶望の足音が近づいていた。


エネルギーを30%カットされ、極寒の中で凍え死にかけた住民たちが、店の明かりと排熱を求めて、ゾンビのようにドアを叩き始める。


「おい……、店を開けろ……。寒いんだよ……」


「生かしてくれ……、エネルギーをくれ……」


バキ、バキ、と壊れた自動ドアに無数の人間の手がかけられ、不気味な歪みを生んでいく。


宗矩は包帯まみれの身体で、ただガタガタと震えながら、自分の右腕を見つめていた。


(この腕で、また誰かを焼くの……? この世界を維持するために……? 信長様の言う通り、私たちはただの燃料なの……?)


大人の心理を容赦なくすり潰す、残酷な世界情勢の数式が、生き残った彼らを静かに包囲していく。


脱出不可能な熱力学の牢獄の中で、少女の心が、ミリミリと悲鳴を上げて軋んでいた。


(第8話・了)

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