第7話:熱ベクトルの逆理、あるいは詠み人知らずの絶望
「――冷気満ち / 命の数式 / 相転移(字余り)。どうだ、神野宗矩。これが、これからお前たちが迎える絶対の未来……、物理法則という名の死の定型句だ」
万福定食の壊れた自動ドアの向こう。
灰色の霧が凍りつき、白い結晶となって舞い散る暗闇の中から、男が一人、静かに歩み出てきた。
黒い防寒ロングコート。
その襟元には、新選組の階級章が鈍く光っている。
男の名は、斎藤。新選組三番隊組長。
彼のサイボーグ化された右目は、複眼のような光学レンズになっており、空間を流れる「エネルギーの向き(ベクトル)」を直接視認し、計算する機能を持っていた。
「……あの、すいません斎藤さん。敵の能力の前に、あなたのその五・七・五のセンスが絶望的すぎて、私の脳の言語野が深刻なエラーを起こしてるんですけど。あと最後『相転移』って無理やり理系ワードぶち込んで文字数調整するのやめてもらえます? 5文字のところに6文字入れるのは、主婦が買い物カゴに予算オーバーの商品をねじ込むくらいの罪悪感を持ってやってください」
宗矩は包帯だらけの右腕でカウンターを掴み、ガタガタと震えながらも、全力のツッコミを投げ返した。
だが、その言葉とは裏腹に、彼女の額からは冷や汗が流れていた。
室内の温度が、急速に低下している。
いや、ただ下がっているのではない。
ストーブの熱も、オヤジの鉄鍋の余熱も、すべてが「ある一つの方向」へ強制的に引っ張られている。
「おしゃべりは、そこまでだ」
斎藤が腰の日本刀を抜いた。
その刀身は、沖田のセラミック刀とも、土方のマヨネーズとも違う。
驚くほどに、普通の、何の変哲もない鉄の刀だった。
だが、彼がその刀を軽く一振りした瞬間、万福定食の店内にあった唯一の熱源――調理場の中華レンジの炎が、まるで生き物のように真横に向かって吸い込まれ、一瞬で消火された。
「なっ……!? ガスは出っ放しなのに、炎だけが消えた……!?」
オヤジが驚愕の声をあげる。
「理系の皆さんなら分かりますよね、と。先ほど君はそう言ったな、神野」
斎藤の複眼が、怪しく明滅する。
「熱力学における、熱伝導の方程式。『q = -k ∇T』。……熱流(q)は、温度勾配(∇T)の逆方向に、つまり高い方から低い方へと流れる。それが自然界の絶対のルール(ベクトル)だ」
斎藤は刀を水平に構えた。
「だが、僕のシステム(能力)は、その『エネルギーの移動方向』を強制的に書き換える。僕がこの刀を振るえば、熱は高い方から低い方へではなく、僕が指定した『任意の方向』へ、100%の効率で伝導する」
「熱の、ベクトル制御……!」
宗矩の背筋に、本当の戦慄が走った。
この能力の何が最悪か。
宗矩の放つ『トカマク・スライサー』は、1億度という圧倒的な熱量の塊だ。
だが、斎藤が「熱のベクトル」を反転させれば、彼女が放った熱線は、そのまま100%の熱量を持って宗矩自身へと逆流することになる。
どれほど高火力の必殺技を持っていようとも、それを撃った瞬間に、自分が自分自身の熱で焼き尽くされる。
完璧な、絶対のカウンター能力だった。
「……土方。動けるか」
斎藤は、隣の席で火花を散らしている副長を一瞥した。
「……フン、残エネルギー4.8%。だが、お前のそのクソ下手な川柳のせいで、胃袋の奥から酸性のエマルションが逆流しそうだ」
土方はボロボロの身体を軋ませながら立ち上がり、マヨネーズのボトルを構えた。
「神野宗矩。局長(近藤)の命令は絶対だ。お前を連れて帰る。……抵抗するなら、その右腕も、左腕と同じように『機能停止(壊死)』させるだけだ」
敵は二人の幹部。
対するこちらは、両腕が壊死と火傷でボロボロの少女と、中華鍋を持った定食屋のオヤジ。
「おい、嬢ちゃん」
オヤジが宗矩の前に立ち、鉄鍋を低く構えた。
「俺が前(対流)を張る。お前はその隙に、裏口から……」
「ダメです、オヤジさん」
宗矩は、震える脚で一歩、オヤジの前に出た。
「あの人のベクトル制御の前には、オヤジさんの熱対流も通用しません。近づいた瞬間に、体内の熱をすべて奪われて、一瞬で心臓が凍ります。……これは、私の戦いです」
宗矩は、懐から『トカマクの柄』を抜き放った。
包帯が巻かれた右手が、激痛でミシミシと音を立てる。
生体電流を流そうとするだけで、切除された皮膚の奥の神経が、狂ったような拒絶反応を起こす。
(痛い……、熱い……、寒い……)その極限の苦痛の中で、宗矩の意識の底から、意図しない「過去の数式」が浮上し始めていた。
『――いいかい、宗矩。人間という物質はね、非常に効率の悪い熱機関なんだ』
脳裏に響く、冷徹な、しかしどこか甘やかな男の声。
かつて、彼女に科学の残酷さを教え込んだ統括局の最高幹部――織田信長の幻影。
『彼らは、わずか数十年の寿命を維持するために、大量の有機物を消費し、無駄な熱(感情)を撒き散らす。……だから、私たちが効率化してあげるのさ。完璧な計算式で、彼らの存在をクリーンなエネルギーへとコンバートする。それが、極東セクターを救う唯一の正解だ』
(違う……、私は、そんなことのために、あの人たちを……)
「う、あ……、あ、が……っ!」
宗矩は頭を押さえ、その場にうずくまりかけた。
過去の虐殺の記憶、何万人もの人間を生きたまま焼き焦がした時の、あの「制御不能な熱」の恐怖が、今の彼女の肉体の痛みに連動してフラッシュバックする。
「神野宗矩、精神の不安定化を確認。……排除だ」
斎藤の刀が、冷酷な閃光を放った。
「『天然理心流・反転熱伝導』」
見えない熱の刃が、空間を滑るように宗矩へと迫る。
それは、空気中のわずかな熱エネルギーを一本の「負のベクトル」へと集約し、触れたものの体温を絶対零度へと叩き落とす、不可視の死神だった。
「嬢ちゃん!!」
オヤジが叫び、身を挺して前に出ようとする。
しかし、それよりも早く。
「――チッ、勝手に俺の戦場(調理場)を冷え切らせんじゃねえよ、三番隊」
爆音とともに、土方の放った「マヨネーズの槍」が、斎藤の不可視の熱ベクトルと交差した。
激しい化学反応の音とともに、マヨネーズの重合体が空中で凍りつき、バラバラに砕け散る。
「……何をする、土方」
斎藤の複眼が、怪訝そうに土方を捉えた。
「勘違いするな、斎藤」
土方は、壊れかけたチタンの胸部装甲から煙を上げながら、不敵に笑った。
「俺は、この女(神野)のクソ生意気なツッコミをまだ完全に論破しちゃいねえ。それに……、この店(万福定食)のツケが5万ポンドも残ってるってのは、統括局の資産管理アルゴリズムから見ても『著しい損失』だ。……俺の目の前で、この女を数字(融解)にされるのは、新選組の副長として、組織の収支決算的に容認できん」
「土方さん……、あなた、今すっごい良いこと言った風な雰囲気出してますけど、要するに『まだツッコミ足りないから助けた』ってことですか!? 命のやり取りより私のツッコミの耐久テストの方が大事ですか!?」
宗矩は涙目になりながらも、即座にツッコミを炸裂させた。
「フン……、うるせえジャージ娘。これで貸し一つだ」
土方は、片手でマヨネーズのボトルを限界まで絞り、オヤジの鉄鍋に向かって噴射した。
「料理人! 俺の脂質を、お前のその鉄鍋で限界まで過熱しろ! 斎藤の『ベクトル制御』が追いつかないほどの、不条理な熱の乱気流を作るぞ!」
「おう、言われなくても分かってらぁ!!」
オヤジが吠え、カプサイシンとマヨネーズが混ざり合った地獄の特製ダレを、200度の中華鍋で一気に爆ぜさせた。
熱力学、エマルション化学、そして柳生の活人剣。
相容れないはずの3つの数式が、極寒の定食屋の中で、不条理な一つの解(共闘)へと向かって回り始めた。
(第7話・了)




