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赫鋼のレクイエム  作者: セキマツ


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6/20

第6話:細胞壊死の限界値、あるいは消えた320円のチャーハン

極東セクター・第3居住区の地下に広がる、通称『万福定食』の厨房裏。


そこは、油と煤に塗れた、この世で最も非科学的で、同時に最も熱力学に忠実な医療室だった。


「――嬢ちゃん、歯を食いしばれ。麻酔はねえぞ。統括局の医療セクターじゃねえんだ、うちにあるのは業務用の消毒用エタノールと、このチンチンに熱した包丁だけだ」


「待って……、待ってくださいオヤジさん。私、物理の法則は大好きですけど、中世の拷問みたいなアナログな医療は専門外です。せめて、せめて意識を失うタイプのギャグを……、ほら、よくある『お盆で頭をパーンと叩かれたら目が覚めると翌朝だった』みたいな演出を希望します!」


「そんな都合のいい物理法則がこの世にあるかァァァ!!」


オヤジの怒号とともに、ナポレオン時代の野戦病院も真っ青の凄惨な治療が始まった。


宗矩の左腕は、沖田の『アブソリュート・ゼロ』によって完全に組織が凍結し、その後の「急速解凍」によって細胞膜が内側からズタズタに引き裂かれていた。


医学用語で言うところの「虚血再灌流障害(きょけつさいかんりゅうしょうがい)」および「湿性壊死(しっせいえし)」である。


凍りついた血管が急激に開いたことで、行き場を失った老廃物と活性酸素が筋肉組織に一斉に逆流し、肉を内側から腐らせようとしていた。


「いいか、壊死した組織(肉)をそのままにしておくと、そこから嫌気性細菌が繁殖して『ガス壊疽(えそ)』を起こす。そうなれば、敗血症で24時間以内に嬢ちゃんの心臓は止まる。……今から、腐りかけた表皮と壊死組織を『デブリードマン(切除)』する」


オヤジが、アルコールランプの炎で赤く熱した中華包丁を握る。


その刃先が、宗矩の紫色の斑点が浮かんだ左腕に触れた。


ジュウゥゥゥゥゥ――――ッ!!


「あああああああああああああああああああああああああああッ!!!!」


人間のあげる悲鳴の限界を超えた絶叫が、地下室のコンクリート壁に反響する。


肉の焦げる嫌な臭いと、脂の爆ぜる音が狭い部屋に充満した。


オヤジは容赦なく、熱した包丁の刃先で、宗矩の腕の腐りかけた皮膚と、ドロドロに溶けた皮下脂肪を削ぎ落としていく。


熱による強制的な止血と、壊死組織の切除を同時に行う、文字通りの力技だ。


「が、はっ、ひ、ふ……っ!!」


宗矩の目からボロボロと涙が溢れ、白目を剥きかける。


脳内のワーキングメモリが、激痛という名の過大入力(オーバーフロー)によって完全にパニックを起こしていた。


「おい、意識を飛ばすな! 脳の電気信号が止まったら、その時点で心停止だ! 何でもいいから計算しろ! お前が得意な数式を頭の中に展開して、痛みのシグナルをハッキングしやがれ!!」


オヤジが汗だくになりながら叫ぶ。


「しゅ、数式……っ、あ、質量とエネルギーの、等価性……、E=、E=mc二乗……! 違う、そんな高尚な計算じゃ……私の脳が、拒絶する……! もっと、もっと世俗的で、泥臭い数字を……、今月の、我が家の家計簿の、収支計算を……っ!!」


宗矩は血を吐きながら、ギチギチと奥歯を鳴らして叫んだ。


「収入……、大東亜統括局からの『最低生存配給(ベーシック・インカム)』が、月額12,000セクターポンド……! そこから、家賃という名の廃墟不法占拠黙認料が4,500ポンド……、重水素汚染水の水道代が1,200ポンド……、電気代が……電気代が、先月の私の『トカマク暴発』のせいで漏電ペナルティが課されて6,800ポンドォォォォオオーー!!!」


「すでにマイナスじゃねえかァァァ!!! 破産しとるわ!!」


オヤジが包丁を動かしながら見事なツッコミを入れ、さらに肉を削る。


「まだある……! 昨日の、キャベツが98円……、今日のお惣菜の半額コロッケが2個で60円……。そして、万福定食での、先月からのツケが……ええと、ええと……、0円!!」


「3万2千円あるわボケェェェエエエ!!!」


オヤジは最後の壊死組織を引っ剥がし、すかさず高濃度エタノールを傷口にぶちまけた。


これまた「ぎゃあああああッ!!」という、本日最大級の断末魔が高架下に轟き、ようやく宗矩の身体からガクリと力が抜けた。


ハァ、ハァ、と荒い息を吐きながら、オヤジは包丁をトレイに置いた。


宗矩の左腕は、肘から先が痛々しく包帯でぐるぐる巻きにされ、右腕の火傷にも特製の馬油(ばゆ)が塗りたくられている。


「……死線を越えたな、嬢ちゃん。細胞の再生(有糸分裂)に必要なアミノ酸を補給してやる。ツケの3万2千円に、今日の『緊急オペ代(キャベツの千切り込み)』として5万ポンド追加しとくからな」


「ぼったくりバーでも、もう少し、優しい料金設定ですよ……」


寝台に横たわったまま、宗矩は消え入りそうな声で呟いた。


だが、その瞳には、確かに生への執念(ギャグの生命力)が戻っていた。


――それから、数時間が経過した。


地上では、統括局による「極東セクター全域のエネルギー30%カット」の制裁が始まっていた。


街電(インフラ)の出力が落とされ、廃墟の隙間に灯っていたわずかな明かりが消え、セクターは真の暗黒と、底冷えするような寒さに包まれていく。


大気中の重水素を含む霧が、気温の低下によってねっとりと重く、人々の肌にまとわりつく。


そんな極寒の地上とは対照的に、万福定食の店舗部分(地上階)には、奇妙な熱気が満ちていた。


「はい、お待たせ。エネルギー制限付き特別メニュー、特製『排熱ダクト風・スタミナ肉野菜炒め』だ。今日、嬢ちゃんが命懸けで確保した98円のキャベツ、芯までしっかり200度で加熱してある。青白く発光する心配はねえよ」


カウンターの席に、ようやくヨレヨレのジャージ姿(包帯だらけ)で這い上がってきた宗矩の前に、大盛りの皿がドンと置かれた。


隣の席には、なぜか巨大なマヨネーズのボトルを抱えたまま、上半身のチタンフレームを包帯で固定された男――土方が座っていた。


「……おい、料理人。俺の注文した『マヨネーズ丼・ライス抜き』はまだか」


土方は、顔面の半分がまだカプサイシンで赤く腫れたまま、不機嫌そうに言った。


「うちの店にはそんな家畜のエサみたいなメニューはねえよ、新選組副長さん。ほら、大人しく普通の定食を食いやがれ。お前のそのボロボロの制御基板(脳)には、炭水化物とビタミンB1が必要だ」


「何だと……?」


土方がボトルを構えようとするが、胸の装甲からバチバチと火花が散り、「ぐっ……」と胸を押さえてうめいた。


「ちょっと、なんで私の隣に、さっき私を脂質(マヨネーズ)にしようとした殺人サイボーグが座ってるんですか!? ここはあれですか? 少年漫画の『昨日の敵は今日の友』的な、ご都合主義のインターナショナル・セーフハウスですか!?」


宗矩は箸を持ったまま、ガタガタと椅子を引いて土方から距離を取った。


「勘違いするな、神野」


土方は、死んだ魚のような目で宗矩を一瞥した。


「俺は統括局の任務で動いている。……だが、先ほどの戦闘で、俺のエネルギーセルは残り5%を切った。統括局の特務規律第8条により、効率が著しく低下した個体は、一時的に現場の判断で最寄りの『民間供給点』にて熱量を補給することが認められている」


「つまり、お腹が空いたから、敵の行きつけの定食屋に飯を食いに来た、と」


「……合理的な判断だ」


「合理性のゲシュタルト崩壊を起こしてやがる!! 警察のプライドはどこに犬に食わせたんですか! 統括局の犬だけに!」


宗矩がキレのあるツッコミを入れる中、オヤジが


「まあ待て」


と手を出した。


「新選組の副長さんよ。お前をここに座らせてやってるのには、理由がある。……地上を見てみろ」


オヤジが指差した窓の外。


エネルギーを30%カットされた極東セクターの街並みは、完全な死の街と化していた。


暖房を奪われた下層住民たちが、寒さに震えながら、万福定食の厨房から漏れるわずかな「排熱」と「明かり」を求めて、ゾンビのように店の周囲に集まり始めていた。


「近藤の奴、本気だな」


土方が、マヨネーズのボトルを見つめたまま、低く呟いた。


「極東セクターのエネルギーを絞り、住民の抵抗力を奪う。そして、エネルギー効率の悪い個体から順番に、中央タワーの融解炉(コンバーター)へ『自主的』に出頭させる腹積もりだ。……数字の辻脄を合わせるために、このセクターの住民、数十万人を間引きする気だ」


その言葉に、万福定食の店内に、冷たい沈黙が降りた。


ギャグで誤魔化していた現実が、再び「大人たちの残酷な世界情勢」となって、彼らの肩に重くのしかかる。


誰もが、生きるために誰かを切り捨てなければならない世界。


統括局という名のシステムは、ただその「最大多数の最大幸福」を、冷徹な数式で実行しているに過ぎない。


近藤も、土方も、そのシステムの歯車だった。


「……ねえ、土方さん」


宗矩が、箸を止めて、静かに言った。


包帯で巻かれた彼女の右腕が、微かに震えている。


「あなたの言う『合理性』って、何のためにあるんですか? 人間をエネルギーの数字に変換して、世界を100年長持ちさせることに、一体何の意味があるんですか?……そんな世界で、1玉98円のキャベツの味を噛み締める自由すら奪われるなら、私は……」


その時、店のドアが、静かに開いた。


カラン、コロン。


薄暗い店内に、場違いなほどに美しい、白磁の球体のような小型ドローンが滑り込んできた。


ドローンの中心から、立体ホログラムの映像が空間に投影される。


現れたのは、極東セクターの中央タワー最上階にいるはずの男――近藤だった。


『――素晴らしい問い掛けだね、神野宗矩くん』


近藤のホログラムは、慈愛に満ちた、しかし同時に一切の人間性を排除した笑顔を浮かべていた。


『何のために合理性があるのか。答えは簡単だよ。人類という種を、熱力学第二法則の「宇宙の熱的死(エントロピーの最大化)」から救うためさ。すべてを均一なエネルギーとして管理すれば、戦争も、格差も、そして君が苦しんでいるような「家計簿の赤字」すらも消滅する。……全人類が、一つの巨大な「トカマク型核融合炉」の燃料(ひとつ)になるんだ』


近藤の背後で、巨大なタワーの心臓部が、不気味な黄金色の光を放って脈動しているのが見えた。


『土方。君の任務失敗のデータも、非常に有益だったよ。……さあ、次の数式を始めよう。新選組次鋒、「斎藤(さいとう)」をセクター第3居住区に派遣した。彼の能力は、熱の伝達そのものを「ベクトル制御」する、絶対の不可視。……君たちの熱が、彼に触れることはない』


ホログラムが消える。


と同時に、店の外の気温が、さらに不自然に、急速に下がり始めた。


窓ガラスに、ミリミリと幾何学的な氷の結晶(霜)が走り、室内の空気が白く凍りついていく。


「――ライフ、ゼロ。お前らの未来、相転移(字余り)」


店の外の暗闇から、冷徹な、そして絶望的にセンスの無い五・七・五の川柳が、風に乗って聞こえてきた。


新たなる刺客――新選組三番隊組長・斎藤が、万福定食を包囲していた。


(第6話・了)

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