第5話:厨房の熱対流、あるいは死線
「熱伝導率、約50W/m・K。そして比熱容量、0.46J/g・K。……新選組の高級サイボーグさんよ。これが何(どの金属)の数字か、分かるか?」
薄暗い高架下に、ジュウ、と油の爆ぜるような音が響く。
巨大な鉄鍋を片手で軽々と掲げた『万福定食』の店主――オヤジは、バンダナの隙間から鋭い眼光を土方に向けた。
「……鋳鉄。ただの鉄鍋か」
土方は不快そうにマヨネーズのボトルを握り直す。
そのエマルション弾は、先ほどオヤジが割り込んできた鉄鍋の表面で、ジュウジュウと不気味な音を立てて透明な油へと分解され、地面に滴り落ちていた。
「ただの鉄鍋じゃねえ。長年、俺が強火で油を馴染ませ続け、表面に完璧な『四酸化三鉄(黒サビ)』の被膜を形成した、極東セクター最高峰の熱循環システムだ。フッ素加工のテフロンなんかと一緒にすんじゃねえぞ。あれは260度を超えると有害ガスが出るからな、業務用には向かねえんだよ」
オヤジは中華鍋を大きく一振りした。
その瞬間、鍋の内部で熱対流の乱気流が発生し、周囲の空気が陽炎のように歪む。
「お前ら統括局の連中は、すべてを数字と合理性で管理したがる。……だがなぁ、料理ってのは不条理の塊なんだよ。同じレシピ、同じ温度、同じ時間で炒めても、その日の湿度や、作り手の『殺気』一つで味が変わる。……お前の上品な化学式で、俺の油が突破できると思うなよ」
「……能書きの長い料理人だ。処刑する」
土方の目が冷酷に細まり、ボトルの底がウィィィンと機械音を立てて発光した。
「『乳化炸裂』!」
土方がボトルを力強く絞り出す。
今度は一本の槍ではない。
霧状に噴射された超高粘度のマヨネーズが、オヤジを取り囲むように空間へ散布された。
それはただの液体ではない。
散布された微細な油滴が、土方の発する高周波によって一斉に『静電反発』を失い、急激な相転移を起こす。
空間に満ちたマヨネーズの霧が、一瞬で熱を完全に遮断する高分子の「壁」へと変貌し、オヤジの全方位を物理的に密閉した。
「終わりだ。その中で脂質に塗れて窒息しろ」
「――おいおい。密閉空間で、熱源を閉じ込めたらどうなるか。お前、本当に理系の学校出たのか?」
高分子の壁の内側から、オヤジの野太い声が響く。
ド……、ド……、と、密閉された空間の内部で、心臓の鼓動のような重低音が鳴り始めた。
「熱力学第一法則。閉鎖系において、外部との熱の出入りがなければ、内部で発生したエネルギーはすべて『内部エネルギーの上昇』――つまり、爆発的な温度と圧力の上昇に変換される」
「何――」
「万福定食、裏メニュー――『激辛麻婆・極』!!」
ドガァァァァァァァァァァァンッ!!!土方が作ったマヨネーズの壁が、内側から激しく圧砕された。
吹き出したのは、単なる爆風ではない。
オヤジが鉄鍋の底部に仕込んだ小型の「マイクロ波加熱器」と、鍋自体が持つ圧倒的な熱容量によって、内部の空気が数百度にまで急加熱され、激しい熱対流の弾頭となって土方へ襲いかかったのだ。
「ぐ、ああぁぁぁぁッ!?」
土方は咄嗟に両腕を交差し、チタン合金の盾で防御した。
しかし、吹き付けた熱風は、ただの熱ではない。
オヤジが鍋の中で一瞬にして気化させた、超高濃度のカプサイシン(唐辛子成分)の粒子が混ざっていた。
「目が……! 鼻が……! 結合組織がバグる……!」
どれほど肉体を機械化しようとも、土方の頭部には生身の有機組織(粘膜)が残っている。
サイボーグの光学センサーが、気化したカプサイシンの酸性と熱によって激しくエラーを起こし、視界が真っ赤に染まる。
「これが調理だ、新選組」
煙を割って、オヤジの巨大な影が肉薄する。
その手にある鉄鍋の淵が、赤々と熱を帯びて発光していた。
熱伝導率50W/m・Kの鉄が、オヤジの腕力による運動エネルギーをすべて「打撃熱」へと変換している。
「食いやがれ、鉄板焼きだァァァ!!」
ゴンッ!!! と、脳髄に響くような質量兵器の打撃音が、高架下に轟いた。
土方のチタン合金の胸部装甲に、200度を超える鉄鍋の底がクレーターのように陥没しながら叩きつけられる。
チタンのフレームが熱で歪み、内部の制御基板からバチバチと青い火花が飛び散った。
「が、はっ……、おの、れ……!」
土方は大きく後方に吹き飛び、コンクリートの柱に激突した。
装甲の隙間から、ドロドロとした黒い冷却オイルが、まるでお気に入りのマヨネーズのように溢れ出す。
「チッ、さすがに統括局の副長だ。中身が硬ぇな。……だが、これ以上は付き合えねえ」
オヤジはフゥと息を吐くと、赤く熱された鉄鍋を肩に担ぎ直した。
彼の腕もまた、中華レンジの輻射熱によって、ジャージの上からでも分かるほど赤く腫れ上がっている。
この世界の「物理のルール」からは、誰も逃れられない。
敵を焼くためには、自分もまた、相応の熱に焼かれなければならないのだ。
オヤジは、地面に倒れて完全に意識を失っている宗矩に歩み寄った。
彼女の左腕は、凍傷からの『解凍』によって、すでに紫色の斑点が浮かび上がるほど深刻な組織壊死を起こし始めている。
一刻の猶予もない。
「嬢ちゃん、ツケの分はきっちり働いてもらうからな。……こんなところで、融解コンバート(数字)にされてたまるかよ」
オヤジは宗矩の小さな身体と、血に染まった98円のキャベツをガシッと片腕で抱え上げると、カプサイシンの煙の中にその巨躯を消した。
倒れた土方は、火花を散らす光学センサーでその背中を睨みつけながら、壊れたスピーカーのような声で通信を入れる。
「……こちら、土方。ターゲットの回収に失敗……。謎の、戦闘系料理人の介入を確認……。局長……、指示を……」
『――構わんよ、土方』
極東セクターの中央、塔の最上階から、近藤の声が冷徹に響く。
『データは十分に取れた。柳生の生き残りの「熱量」も、あの料理人の「対流」も、すべては我が局の計算式の内側だ。……次のフェーズへ移行する。新選組全隊士に告ぐ。極東セクターの全エネルギー供給を、30%カットせよ。数字を絞れば、ネズミどもは自ずと光へ集まる』
世界がさらに、1段階冷え切ろうとしていた。
ボロボロの少女を乗せた、定食屋の「厨房」という名のシェルターへと、冷たい影が忍び寄る。
(第5話・了)




