第4話:脂質の相転移と、マヨネーズの悪夢
「お前が神野宗矩か。安心しろ、俺はキャベツの保存方法に文句は言わねえ。……ただし、俺のマヨネーズの配合比率にケチをつける奴は、脳味噌をタールで満たして処刑することにしてる」
闇の中から現れた男――新選組副長・土方は、そう言って手にしたボトルのキャップを、親指で小気味よく弾き飛ばした。
ボロボロの赤ジャージを血と汗で濡らした宗矩は、左腕の激痛に耐えながら、目の前の男が持つ「それ」を凝視する。
「……マヨネーズ。あなた、この極限のエネルギー危機の時代に、植物性油と卵黄を主成分とする超高カロリーな有機化合物を、そんな玩具みたいに持ち歩いているんですか? 統括局の特権階級は、随分と贅沢な脂質の無駄遣いをする」
「玩具だと? 命令違反だな、ジャージ娘。これは統括局が開発した、最悪のコロイド化学兵器だ」
土方がボトルを軽く振る。
マヨネーズとは本来、本来なら混ざり合わない「油」と「酢」が、卵黄の持つレシチンという成分の界面活性作用によって、微細な粒子として均一に分散した乳化溶液である。
「食ってみるか? 卵黄比率80%の、特製高粘度マヨネーズだ。こいつを一度でも体内に取り込めば、お前の毛細血管は一瞬で親油性の脂肪酸によって閉塞を起こす。血流は完全に停止し、脳の全細胞が脂質性脳梗塞を起こしてドロドロの脂肪に相転移する」
「うわぁ、エグい……。世界観にふさわしい、ちゃんとした理系兵器なのに、見た目が絶望的にマヨネーズだから全然カッコよくない……! なんでそんな、深夜のドン・キホーテのバラエティコーナーに置いてありそうな兵器開発したんですか統括局の上層部は! 開発部門にデブしかいないの!?」
宗矩は痛む脇腹を抑えながら、全力でツッコミを投げ返した。
だが、ツッコミとは裏腹に、彼女の心臓は警鐘を乱打していた。
沖田との死闘で、自身の右腕は熱傷でまともに動かず、左腕は凍傷からの『解凍』による激痛で完全に機能停止している。
戦闘可能出力は、残された生体電流の数パーセント。
対して、目の前の土方は無傷。
勝負にすらならない。
「おしゃべりは終わりだ。……新選組副長、土方。局長(近藤)からの厳命だ。お前のその『柄』と、首を査収する」
土方がボトルを絞り出した。
ピュッ、と放たれた黄色い液体。
それはただの調味料の弾丸ではない。
大気中を飛翔する過程で、土方のサイボーグボディから放たれる微弱な高周波を浴び、分子構造が急速に高分子重合を始めていた。
空中で瞬時に凝固し、鋭利な「マヨネーズの槍」と化した半固形物が、時速300キロメートルを超える速度で宗矩の喉元へ殺到する。
「くっ……!」
宗矩は辛うじて首を傾げ、それを避けた。
背後のコンクリート壁に突き刺さったマヨネーズは、瞬時に油分が分離し、触れたコンクリートを強力な酸性(お酢の成分)でミリミリと融解させていく。
「避けたか。だが、一液型の化学反応を甘く見るな」
土方の目が冷酷に光る。彼の手から、次々と黄色の閃光が放たれる。
(速い……、それに、軌道が読めない!)マヨネーズは流体力学上、非ニュートン流体(ビンガム流体)に分類される。
一定以上の力が加わると急激に流動性が変化するため、飛翔中の空気抵抗によって、その弾道が不規則に歪むのだ。
「あがっ……、冷っ、いや、熱っ!?」
宗矩のジャージの太ももに、マヨネーズの弾丸が掠める。
強力な油分が衣服を透過し、皮膚の脂質二重層(細胞膜)を強制的に融解し始めた。
化学火傷だ。
熱でも冷気でもない、物質そのものの溶解反応が、彼女の肉体を削っていく。
「ははは! どうした、柳生の生き残り! 1億度のプラズマはどうした! お前の熱など、この高粘度の脂質のクッションがすべて熱容量として吸収してやる!」
土方がマヨネーズを撒き散らしながら、狂ったように笑う。
(ダメだ……、頭が回らない。血流が足りない……。キャベツ……、私の98円のキャベツが、またマヨネーズまみれに……)宗矩の視界が、次第に黄色く、そして暗く染まっていく。
激痛と失血、そして極限の疲労。
彼女の脳のワーキングメモリは、完全に限界を迎えようとしていた。
土方が、最後の一発を、彼女の眉間に向けて構える。
「終わりだ、神野。お前の因縁の数式は、ここで俺が解を導き出してやる」
死の瞬間。
宗矩は、目を閉じることすらできなかった。
ただ、自分が守りたかった、くだらない日常の数字(家計簿の残高や、ジャンプの定価)が、走馬灯のように頭を駆け巡る。
(私……、ここで、ただの脂質にされて死ぬんだ……。嫌だなぁ……。最後のご飯が、汚染された生のキャベツだなんて、そんな悲しい熱力学の結末……)
「そこまでだ、新選組」
その時。
高架下の天井から、ズドン、と巨大な「鉄の塊」が降ってきた。
土方が放ったマヨネーズの必殺弾は、その鉄の塊に激突し、ベチャリと虚しく弾け飛ぶ。
「……何者だ」
土方が不快そうに目を細め、バックステップを刻んだ。
砂煙の中から現れたのは、巨大な、本当に巨大な「鉄製の中華鍋」を持った、頭にバンダナを巻いた一人の男だった。
体格は熊のように逞しく、エプロンには『万福定食』という薄汚れた文字が刺繍されている。
「おいおい、統括局の役人さんが、うちの常連(ツケが溜まってる顧客)に何してくれてんだ? 警察権力の振りかざしすぎで、営業妨害罪で訴えるぞ、コラ」
男は中華鍋を肩に担ぎ、土方を睨みつけた。
「定食屋の……オヤジ……?」
宗矩が、薄れる意識の中でその男の名前を呼ぼうとした。
だが、声が出ない。
「神野の嬢ちゃん、よく耐えたな。特売のキャベツは、俺が肉野菜炒めにしてやるから、そこでちょっと寝てな」
オヤジはフッと笑うと、中華鍋の底をガン、と叩いた。
「おい、新選組の副長さんよ。お前のその安っぽいエマルション(マヨネーズ)、うちの200度の超高温・高圧中華レンジで、一瞬で『熱分離』して油とゴミに分けてやろうか?」
極東セクターの掃き溜めに、新たな戦火の火種が灯る。
(第4話・了)




