第3話:ボイル=シャルルの鉄鎖
「ボイル=シャルルの法則――高校の物理で習いましたよね?」
極寒の絶対零度が支配する高架下で、神野宗矩は狂気とも取れる笑顔を浮かべ、泥まみれのキャベツを足元に転がしたまま言い放った。
彼女の左肩から先は完全に凍りつき、壊死のカウントダウンを告げる赤黒い霜が皮膚を覆っている。
常人ならショック死する激痛の中、彼女の右脳だけは、冷徹な計算機のように数式を弾き出し続けていた。
「理想気体の状態方程式。PV = nRT。……圧力をP、体積をV、物質量をn、気体定数をR、そして絶対温度をTとする。沖田さん、あなたの『アブソリュート・ゼロ』は、空間の分子運動を強制停止させる。つまり、温度(T)を極限のゼロへと叩き落とす能力だ」
「それがどうした。温度がゼロになれば、あらゆるエネルギーの伝達は遮断される。君の熱線は僕に届かない」
沖田は冷酷にセラミックの刀を突き出す。
「届かなくていいんですよ。温度(T)がゼロに近似するとき、その空間を元通りに維持しようとしたら、左辺の『圧力(P)』はどうなると思います?」
宗矩は、ボロボロの右腕で『トカマクの柄』を逆手に構え、地面へと突き立てた。
「答えは――『負の圧力(陰圧)』。つまり、超強力な真空吸引の発生だ!」
次の瞬間、沖田の周囲の空間が不自然に歪んだ。
彼の絶対零度の領域が、周囲の「普通の温度の大気」と接触した境界線。
そこで急激な温度勾配が生まれ、気体の体積が局所的に大収縮を起こしたのだ。
ズウゥゥゥゥゥンッ!!!大気が、凄まじい音を立てて内側へと爆縮する。
それはまるで、空間に目に見えないブラックホールが現れたかのような大気圧の暴力だった。
「なっ……、身体が、引っ張られる――!?」
沖田のサイボーグボディが、自身の作り出した冷気の領域(陰圧空間)に向けて、猛烈な勢いで引きずり込まれ始めた。
気圧の急激な変化により、彼のチタン合金のフレームがきしむ金属音を立てる。
「熱が届かないなら、空気の壁ごと、あなたを私の間合いに引きずり込めばいい。……理系を舐めないでください。私はこれでも、もやしの値段を1円単位で計算して生きているミニマリストなんです!」
「そんな生活感溢れる計算と一緒にすんなァァァ!!」
沖田は叫び、人工筋肉の出力を最大にして踏みとどまろうとした。
しかし、大気圧の力は数トンに及ぶ。
いくら最新鋭のサイボーグといえども、地球の空気そのものが敵に回ったかのような吸引力には抗えない。
ずささ、と沖田の身体が前方にブレた。
その、わずかコンマ数秒の姿勢の崩れ。
それこそが、宗矩が狙っていた唯一の勝機だった。
「『活人剣・一刀両断』――最大指向性出力」
宗矩の持つ柄から、今度は「刃」ではなく、針のように極細に収束された一億度のプラズマ光線が放たれた。
レーザー加工機と同じ原理だ。
熱を面ではなく、ミクロン単位の「点」に集中させることで、沖田の絶対零度の防壁を貫通し、その内側にある物質に直接エネルギーを叩き込む。
シュウゥゥゥゥゥ――。
音は小さかった。
だが、その光線は沖田のサイボーグの右膝、ちょうど人工筋肉とチタン骨格の接合部を正確に貫いていた。
「ガ、あ……っ!?」
沖田の右脚から、青白い火花と、冷却液の混じった赤黒いオイルが噴き出す。
超高温によって、関節の超伝導モーターが一瞬で融解し、完全に焼き付いたのだ。
ドサリ、と沖田が片膝を突く。
勝負は決した。
だが、そこからの描写は、決してアニメのように華やかなものではなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!!」
宗矩は、その場に膝から崩れ落ちた。
能力の最大出力による代償。
彼女の右腕の火傷は、今や皮膚を突き破り、筋肉の繊維が熱で萎縮してピクピクと痙攣している。
そして、凍りついた左腕は、感覚がないままジワジワと室温によって「解凍」され始めていた。
解凍。
それは、破壊された細胞組織から一斉に血液と老廃物が漏れ出す、地獄のような痛みの始まりを意味する。
「う、あ……あ、あああああああッ!!!」
高架下に、宗矩の本当の悲鳴が響き渡る。
ジャージの袖をボロボロに引き裂いた腕から、赤黒い血汁が滴り落ちる。
熱と寒冷、その両極端の暴力によって、彼女の肉体は文字通り内側から崩壊しかけていた。
「ハッ……ハハ、相打ち、だね……神野」
右脚を失い、地面を這う沖田が、壊れたホログラムのようにノイズ混じりの声で笑った。
「僕の体内時計が……不凍液の循環停止を告げている。君も、その腕では……もう長くない……。お互い、統括局の数式に殺される……ただのゴミ、だ……」
沖田の目が、次第に光を失い、完全な機械のガラス玉へと変わっていく。
彼は機能を停止した。
統括局に使い捨てられた、哀れな兵器の末路だった。
「う、うるさい……なぁ……」
宗矩は涙と汗でドロドロになった顔を上げ、震える右手で、地面に転がったキャベツを拾い上げた。
「私は……死なない。明日、ジャンプの合併号が出るんだから……。これを読むまでは、エントロピーの法則にだって……負けてやらないんだから……」
一歩、また一歩と、血の足跡を残しながら、少女は家路へと歩き出す。
その腕に抱えられた98円のキャベツは、彼女の流した血で、ほんのりと赤く染まっていた。
だが、高架下の闇の中から、新たな靴音がコツン、コツンと響き渡った。
「ふん。一番隊組長ともあろう者が、随分と無様なデータ(無駄骨)を残してくれたものだな」
現れたのは、黒いロングコートを羽織り、マヨネーズのボトルを片手に持った、狂気を孕んだ瞳の男。
新選組副長――土方。
「お前が神野宗矩か。安心しろ、俺はキャベツの保存方法に文句は言わねえ。……ただし、俺のマヨネーズの配合比率にケチをつける奴は、脳味噌をタールで満たして処刑することにしてる」
ボロボロの宗矩の前に、さらなる絶望が立ち塞がる。
(第3話・了)




