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赫鋼のレクイエム  作者: セキマツ


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第2話:エントロピーの不条理

「おばちゃん、これ、本当に98円? 嘘ついてない? もしレジに持っていって『すいません、これバーコードの登録ミスで198円でしたー、テヘッ☆』とか言われたら、私、その場で店員さんの頭部を臨界点まで加熱して熱核爆発起こすよ?」


極東セクター・第3居住区。


薄暗いネオンが明滅する闇市のようなスーパー『マツモト・キヨシ(旧文明の遺物)』の店内で、神野宗矩はキャベツの1玉を両手で天に掲げ、血走った目で店番の老婆に詰め寄っていた。


「分かったからその禍々しい例え話をやめな、ジャージ娘。98円だよ。ただし、そいつは統括局の排熱ダクトの横で育った『重水素汚染キャベツ』だからね。芯までしっかり火を通さないと、夜中に身体が青白く発光するよ」


「蓄光機能付きキャベツ! 省エネで素晴らしいですね! ってなるかアホォ! なんですか身体が発光って。私は夜間の交通安全を啓発する歩くリフレクターか!」


宗矩は鋭くツッコミながらも、手際よく小銭をカウンターに叩きつけ、キャベツを小脇に抱えた。昨日の治安執行官との戦闘で、右腕の皮膚はまだ火傷のケロイドのように引き攣っている。


一歩歩くたびに、破れた神経がピリピリと脳に痛みのシグナルを送ってくる。


本来なら無菌室で絶対安静にするレベルの重傷だが、悲しいかな、人間の胃袋は熱力学の法則に従って常にエネルギー(飯)を消費し続ける。


生きるためには、痛かろうが何だろうが、特売の野菜を買いに走らねばならない。


それが、統括局の支配下で「Cランク」として生きる大人の現実だった。


「はぁ……。それにしても、昨日の今日でこれだけの物価高。大東亜統括局の経済計算アルゴリズムは、一体どこのバカが組んだんでしょうね。マクロ経済学を義務教育からやり直してほしい。……ん?」


トボトボと歩きながら、宗矩の足が止まった。帰路にある、錆びついた高架下。


街灯の切れた暗がりに、一つの影が立っていた。


浅葱(あさぎ)色の、古めかしい羽織。


しかし、その下に見える肉体は、鈍い銀色に輝くチタン合金のフレーム――人工筋肉が剥き出しになった、完全な戦闘用サイボーグのそれだった。


「――ターゲット捕捉。生体波動、柳生系列の核融合反応を確認」


男の頭部、人間の有機組織が半分残った左目が、ウィィィンと機械音を立てて焦点を宗矩に合わせた。


男の腰には、異様に長い刀が一本。


「……新選組。統括局の犬が、こんな掃き溜めまで何の御用で?」


宗矩の口から、先ほどまでの「キャベツの物価高への愚痴」が綺麗に消えた。


冷たい、底なしの沼のような声。


「我が名は沖田(おきた)。治安維持特務部隊『新選組』一番隊組長」男は静かに刀を抜いた。その刀身は、通常の金属ではない。透き通るような超高密度のセラミック。そして、刀の周囲の空気が、不自然なほどに「静止」していた。「神野宗矩。君の排除、およびその『トカマクの柄』の回収を命じられている。……局長がお待ちだ」


「断ります。これからキャベツを千切りにして、私の胃袋という名の核融合炉に投入しなければならないので」


宗矩が懐から、錆びついた柄を抜き放つ。


「無駄だ。君の『熱』では、僕の剣は通らない」


沖田が一歩、踏み出した。


その瞬間、宗矩の全神経が警報を鳴らした。


(速い――!?)サイボーグの脚力による物理的な速度ではない。


沖田が動いた瞬間、彼の周囲の空間の「分子運動」が完全に停止していた。


「『天然理心流・三段突き(アブソリュート・ゼロ)』」


理系の人間なら知っている。


熱とは、物質を構成する原子や分子の「乱雑な運動(エントロピー)」そのものであることを。


そして、その運動が完全に停止した状態を、絶対零度(マイナス273.15度)と呼ぶ。


沖田の放った刺突は、空気中の水分を一瞬で凝固させ、巨大な氷の槍となって宗矩の胸を貫きにきた。


いや、それはただの氷ではない。


絶対零度の冷気は、大気そのものを液化・固体化させ、触れたものの熱エネルギーを瞬時に奪い去る「エントロピーの墓場」だ。


「っ……『活人剣・一刀両断(トカマク・スライサー)』!!」


宗矩は叫び、一億度のプラズマの刃を前方へ振り下ろした。


宇宙最高密度の熱と、宇宙最低密度の冷気の衝突。


ドゴォォォォォォォォォォォンッ!!!高架下が、目も眩むような爆風に包まれた。


熱と冷気がぶつかり合ったことで、空気の急激な体積変化による「水蒸気爆発」と「真空崩壊」が同時に発生したのだ。


「がはっ……!」


宗矩の身体が、衝撃波で後ろのコンクリート壁に叩きつけられる。


手からキャベツが転がり落ちた。


「無駄だと言ったはずだ、神野」爆煙の中から、傷一つない沖田が滑るように現れる。


彼の周囲の絶対零度の空間は、熱伝導の法則すら拒絶する。


一億度のプラズマであっても、沖田の周囲の「分子運動がゼロの空間(相転移領域)」に触れた瞬間、エネルギーが急速に拡散され、無力化されてしまうのだ。


「熱力学の基礎だよ、お嬢さん」沖田のセラミックの刃が、宗矩の左肩をかすめた。


「あ、ぐ……あぁぁぁぁぁッ!!」凄惨な悲鳴が響く。焼かれたのではない。凍りついたのだ。かすめただけの宗矩の左肩は、一瞬で細胞内の水分が凍結し、体積膨張によって細胞壁が内側からミリミリと爆裂していった。皮膚は一瞬でどす黒く変色し、感覚が消える。凍傷という名の、肉体の完全な壊死。「熱は高い方から低い方へ流れる。君がどれだけ高い熱を生み出そうと、僕という『絶対的な無(ゼロ)』の前には、すべて吸い取られる運命にあるんだ」


沖田の目が、冷酷に光る。彼もまた、統括局の非道な実験によって、身体の熱循環システムを改造された被害者だった。


生きているだけで体中が凍りつく苦痛に耐え、統括局から配給される「不凍液」がなければ数日で脳まで凍りついて死ぬ。


だから、彼は戦う。誰かを殺し、統括局に忠誠を誓い続けなければ、明日の命がないからだ。


「君も、僕も、この世界の残酷な数式からは逃れられない……」


沖田が、トドメの突きを放つために刀を上段に構えた。


壁に背をつけ、左腕を完全に凍らされた宗矩は、荒い息を吐きながら沖田を見上げた。


苦痛で視界が歪む。


脳が「早く逃げろ」と絶止のシグナルを送っている。


だが、動けない。


(……ああ、またこれだ)(私が戦うと、いつもこうなる。誰も救えない。誰も幸せにできない。物理法則という名の冷たいルールに、ただ人間がすり潰されていくだけ)絶望が、宗矩の心を黒く塗りつぶそうとした、その時。


彼女の視線が、地面に転がった「重水素汚染キャベツ」に留まった。衝撃波で葉が数枚剥がれ、泥にまみれている。


「……あ」


宗矩の体から、すぅ、と悲壮感が消えた。


「おい、サイボーグ。お前……今、何て言った?」


「……何?」


「熱力学の基礎だって? 違う。お前が今やったのは、そんな高尚なもんじゃない」


宗矩の右目に、ドロリとした執念の炎が宿る。


「お前が今やったのは……『せっかく98円で買ったキャベツを、泥まみれにした罪』だ。あと、お前の冷気のせいで、キャベツの水分が凍って細胞壁が壊れただろ!! これじゃあ、千切りにした時にシャキシャキ感がなくなって、ベチャベチャのゴミみたいになるんだよ!!」


「……は?」


沖田の、冷徹な殺人マシーンとしての思考回路が、一瞬完全にフリーズした。


何を言っているんだ、この女は。


命のやり取りをしている最中に、キャベツの食感の話をしているのか。


「お前、主婦層を敵に回したな? 世界を支配する統括局がなんだ。新選組がなんだ。キャベツの冷凍保存は、解凍時のドリップを考慮して急速冷凍するのが基本だろうがぁぁぁ!!! 生のまま中途半端に凍らせんじゃねえぇぇぇ!!!」


「黙れ、狂人が!」


沖田が刀を突き出す。しかし、宗矩はすでに、ボロボロの右腕で『トカマクの柄』を全力で握りしめていた。


彼女の脳内で、先ほどとは異なる新しい数式が、超高速で組み上がっていく。


「絶対零度が完璧な防壁だと思うなよ……! 分子運動がゼロなら、その空間の『圧力』はどうなるか、教えてやる!!」

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