第1話:トカマクの揺り籠
「――大東亜統括局より、各員へ伝達。日本列島(極東セクター)における『資源最適化』が、本日0400時をもって100%完了しました。これに伴い、Cランク以下の全住民の生存権は『国家エネルギー効率』向上へと、自動的にコンバートされます。……繰り返します。これはただの引き落としです。泣き喚くのは、家賃の二重決済に怒る主婦くらいに留めていただきたい」
世界が冷え切ってから久しい。
地球全土を覆った未曾有のエネルギー危機と、それに伴う第三次世界大戦。勝利なき終戦を迎えた世界を支配するのは、かつての国家ではなく、極限まで合理化された「統括局」という名の巨大な計算機だった。
その最末端、かつて日本と呼ばれた東の果てのセクター。
灰色の空から降るのは、雨ではない。
大気中に飽和した微細な重水素を含む、ねっとりとした霧だ。
「おい、そこの不審者。統括局直属の『治安執行官』たるこの俺が、職務質問という名の人生相談に乗ってやろう。……聞いてるか、そこの芋ジャージ」
廃墟となった超高層ビルの屋上。
冷徹なトーンで告げられたスピーカーの声を遮るように、一人の治安執行官が、少女に声をかけた。
少女の名は、神野 宗矩。
「……あの、すいません。今、非常に重大な数式を脳内で解いてる最中なんで、静かにしてもらえます? 143かける76は、ええと……、ええと、いっぱい!」
「九九からやり直せアホンダラァ!!」
治安執行官の鋭いツッコミが響く。
宗矩は、首元がヨレヨレになった、およそ戦闘には不向きな「芋ジャージ(赤)」を身にまとっていた。
手には、なぜか半分溶けたプラスチックのスプーンを持っている。
「いや、違うんですよ。脳のワーキングメモリがですね、昨日の夜食べた半額シールの貼られたコンビニアイス(バニラ味)の成分表示に占有されてまして」
「知るか! お前、統括局の許可なく『未登録の核融合反応』を観測した容疑がかかっている。つまり、ただの不法占拠者じゃねえな? ……IDを見せろ」
執行官が腰の電磁電棒を抜く。バチバチと、青白いプラズマが牙を剥いた。
宗矩はふう、と、大人のそれというよりは、完全に人生を諦めた中間管理職のような深い溜息をついた。
「……大人って、本当に嫌です。すぐに数字と、許可証と、肩書きで人を縛ろうとする。世界が滅びかけたのは、あなたたちがそうやって『数字の辻脄』ばかりを合わせたせいでしょうに」
その瞳から、一瞬で「緩さ」が消えた。
ドロリとした、深淵のような黒い光が灯る。
「私の名前は宗矩。……柳生宗矩の『宗矩』。かつて戦国を終わらせるために、活人剣という名の『最も効率的な殺人システム』を構築した男の名前です」
宗矩が、懐から一本の「錆びついた刀身のない柄」を取り出した。
「理系の皆さんなら分かりますよね? 磁場閉じ込め方式――トカマク型核融合。強力な磁場によって、1億度を超えるプラズマをドーナツ状に閉じ分ける技術。……もし、その『磁気籠』を、人間の精神力で空間に固定できたら?」
「何を――」
「『活人剣・一刀両断』」
次の瞬間、音は消えた。
宗矩が柄を振るったのではない。
彼女の周囲の空間そのものが、超高温のプラズマによって熱膨張を起こし、大気を爆裂させたのだ。
執行官の電磁電棒が、触れてもいないのにドロドロと鉄の涙を流して融解する。
「あ、熱っ……!? なんだ、これ……! 空間が歪んで――」
「人間の体って、約60%が水ですよね」
宗矩は、冷徹な、しかしどこか哀れむような目で見つめたまま、一歩、踏み出す。
「1億度のプラズマがかすめれば、体内の水分は一瞬で沸騰します。細胞膜は内側から破裂し、皮膚は焼き剥がれ、脳漿は蒸発する。……ねえ、執行官さん。あなたが統括局から貰っているお給料は、自分の体が『水蒸気爆発』を起こすリスクに見合っていますか?」
「ひ、ひぃ……っ!」
恐怖。
それは合理性を超えた、生物としての本能的な拒絶だった。
執行官は銃を抜こうとした。
だが、指が動かない。
すでに周囲の放射熱だけで、彼の神経細胞は熱変性を起こし、信号を伝達できなくなっていた。
「やめて、くれ……。俺には、統括局の医療セクターに入院している娘が……」
その言葉を聞いた瞬間、宗矩の動きがわずかに止まった。
(――娘、か)彼女の脳裏に、かつて自分が焼き尽くした、あるいは救えなかった無数の「命の数字」がフラッシュバックする。
この世界は、誰かを殺さなければエネルギーが回らない。
彼が生きれば、誰かが死ぬ。
自分が生きれば、彼が死ぬ。
その残酷なゼロサムゲームの数式が、宗矩の胸をキリキリと締め付ける。
「……あー、もう! クソ真面目に人情話ぶっ込んでくんじゃねえよ! こっちのメンタルが持たないだろ!」
宗矩は突然、自分の頭をガシガシと掻きむしった。
「戦う前に『俺には家族が……』とか言うの、条例で禁止にしてください! 殺人罪より重罪ですよ! こっちの罪悪感がカンストして、夜しか眠れなくなるわ!」
「夜は普通に眠れよ!!」
恐怖に震えていた執行官が、思わず全力で突っ込んだ。
「とにかく! 私は今日、キャベツの千切りをしなければならないんです! 1玉98円のタイムセールに遅れたら、我が家の家計という名の生態系が崩壊するんですよ!」
宗矩は柄を構え直す。
その構えは、日本史における「柳生新陰流」の、相手の動きを完全に制する『無刀取り』の理に酷似していた。
「……一瞬で終わらせます。熱伝導の速度を光速に近似させる。痛みを感じる神経が脳に信号を送るより早く、あなたの『存在』の相転移を完了させる。それが、私のせめてもの慈悲です」
「待て、頼む、動かないでくれ――」
執行官の細い叫び。しかし、宗矩の足が床を蹴った。
超高温のプラズマを纏った見えない刃が、夕闇の極東セクターを真っ二つに切り裂くように、白光を放った。――はずだった。
「が、はっ……あ、が、あぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
空間を引き裂いた熱線は、執行官の右腕を肩口から綺麗に切断していた。
だが、それは「一瞬の相転移」などという美しいものではなかった。
切断面は瞬時に炭化し、沸騰した血液がジクジクと音を立てて脂混じりの煙を上げる。
骨の髄まで焼き尽くす圧倒的な熱量が、彼の神経を暴力的に焼き切っていく。
一瞬の慈悲など、ただの理想論だ。
現実は、肉が焦げる凄惨な悪臭と、この世のものとは思えない絶叫が屋上に響き渡る地獄絵図だった。
執行官は、残された左手で自身の右肩を押さえ、のたうち回る。
「熱い、熱い熱い熱い! 頼む、殺してくれ! 殺してくれぇぇぇ!」
「…………」
宗矩は、それを見つめるしかなかった。
彼女の放つ「トカマク・スライサー」は、理論上は完璧なクリーン・エネルギーの刃だ。
しかし、それを不完全な人間の肉体で、大気という不純物だらけの媒体を通して放てば、熱は必ず周囲に拡散し、ただの「最も残酷な火炙りの刑」へと成り下がる。
熱力学第二法則。
エントロピーは常に増大する。
エネルギーは必ず、制御不能な「無駄な熱(苦痛)」へと変換されていく。
「……私の負け、ですね」宗矩はぽつりと言った。「あなたの神経を完全に破壊しきれなかった。……ごめんなさい」
彼女は冷徹な殺人マシーンではない。
その事実が、かえって彼女自身の心を、そして刃の切れ味を鈍らせる。
血の通った人間だからこそ、引き金を引く瞬間にコンマ数秒の迷いが生じる。
その迷いが、数式の誤差となり、敵に「生きながら焼かれる」という最悪の苦痛を与える結果になるのだ。
「あ、が……あ……」
やがて執行官は、ショック状態により白目を剥いて卒倒した。
かろうじて息はある。
宗矩がわざと致命傷を避けたのか、あるいは外したのか。
そのとき、宗矩の右腕からもジワリと血が滲み出た。
「……っ、つぅ……」
ジャージの袖が焦げ落ち、彼女の白い肌に、まるで黒い蛇が這ったような痛々しい熱傷が浮かび上がっていた。
強力な磁場を維持するためには、彼女自身の生体電流を限界まで引き上げる必要がある。
それは彼女の神経細胞を、内側から少しずつ焼き焦がしていく自殺行為に等しかった。
戦うたびに、彼女の命のカウントダウンは進んでいく。
「はぁ……。だから嫌なんだ、物理の法則ってやつは。いつだって等価交換、いつだって私の肌がボロボロになる。これでまた今月の化粧水代がかさむじゃないですか。統括局のせいで物価上がってんのに、どうすんだこれ」
宗矩はハァと深い溜息をつき、錆びついた柄を懐にしまい込んだ。
そして、床に転がっていた「半分溶けたプラスチックのスプーン」を拾い上げる。
「あーあ、お気に入りのサーティワンのスプーンが……。これでもう、1パック98円の業務スーパーのバニラアイスを美しく掘削する作業が困難になりました。これ、器物破損で国を訴えられますかね?」
静まり返った屋上で、少女は一歩一歩、出口の階段へと歩いていく。
その背中は、先ほど一億度のプラズマを操っていた者とは到底思えないほど、小さく、そしてどこか哀愁に満ちていた。
「よし、落ち込んでる暇はない。タイムセール終了まであと12分。ここからスーパーまで、私の最大走速度で移動した場合、空気抵抗とジャージの摩擦係数を考慮すると……うん、普通に走ったら間に合わん。ここは一つ、質量を無視した量子テレポートの概念をですね……」
独り言をブツブツと呟きながら、彼女は廃墟の闇へと消えていった。
だが、彼女はまだ知らない。この戦闘データが、統括局の網膜を通じて、すでに「ある男」の元へと送信されていたことを。
極東セクターの中央、雲を突き抜ける巨大な塔の最上階。
ホログラムのモニターに映し出された宗矩の映像を見つめながら、その男――統括局特務執行官「近藤」は、不敵な笑みを浮かべていた。
「見つけたぞ、柳生の生き残り。……その『首』、我が局のエネルギー源として、美味しく査収してやろう」
世界の歯車が、ふたたび残酷な音を立てて回り始めていた。
(第1話・了)




