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赫鋼のレクイエム  作者: セキマツ


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第19話:熱の死線と情報のゆりかご

大東亜統括局・最高評議会の本尊、徳川家康の巨大なホログラムから放たれる黄金色の光は、もはや天守閣の崩壊したフロアを照らすための明かりではなかった。


それは、極東セクター全体の生存権を一瞬にしてゼロの数字へと書き換える、冷徹な情報処理の死刑宣告だった。


信長の本尊の死亡に伴い、世界システム『徳川』のグローバルサーバーは、自動的な例外処理アルゴリズム(バックアップ)を最優先で走らせていた。


宗矩が命を削って紡ぎ出した『超・超臨界熱核融合』の物理データ、すなわち確率論の乱数さえも、家康の巨大な演算リソースによって、今この瞬間も次々と「決定論の方程式」の内側へと回収され、その対策プログラムが冷酷に組み上がっていく。


「……あ、はは……。一万、二千、セクターポンド……。そこから、家賃、四千五百……」


神野宗矩は、骨まで炭化した右腕を床に投げ出したまま、泥まみれの赤ジャージの胸元を小さく波打たせて、壊れた時計のように同じ数字の羅列を呟き続けていた。


彼女の脳のワーキングメモリは、極限の過負荷と、体内の全ミトコンドリアが生命のエネルギー通貨(ATP)の新規鋳造を完全に停止したことによる、深刻な飢餓状態(クラッシュ)に陥っていた。


視界は完全に黄色く染まり、その輪郭がゆっくりと暗黒の相へと溶け落ちていく。


動くたびに、全身の引き裂かれた筋肉組織から、赤黒い脂混じりの血液が床のナノカーボン回路へと滴り落ち、無機質な電子光によって冷酷にスキャンされていく。


『実に見事なエラーログ(感情)だったよ、神野宗矩くん。君が信長様を撃破するために消費したその莫大な熱量は、我が大東亜統括局のグローバルサーバーにとって、宇宙の熱的死(エントロピーの最大化)を向こう数百年間にわたって完全に遅延させるための、極めて有益な先行投資(データ)となった。……さあ、最終処理(シャットダウン)の時間だ。君のその不条理なノイズごと、世界システム『徳川』の真の融解炉(コア)へと査収させてもらうよ』


家康のホログラムは、どこか哀れむような、しかし一切の人間性を排除した笑顔を浮かべ、空間の「情報エントロピー」を強制的にゼロへと叩き落とすための最終信号(コマンド)を送信した。


次の瞬間、中央タワーの底辺、極東セクター全域に漂っていたわずかな「生命の熱」が、物理的な質量を伴って、一瞬にして完全に強奪(パージ)された。


インフラの明かりが完全に消え去り、真の死の暗黒がセクターを包み込む。


それは通常の寒波などという生ぬるいものではなかった。


吉良の『マクスウェルの悪魔』の機能を地球規模へと拡大した、統括局の真の支配方程式。


物質の内部にあるすべての原子の運動速度が、高いものも低いものも完全に平均化されていく、不条理な『局所的熱的死(ローカル・ヒートデス)』の強制展開だった。


風が完全に死に絶える。


空気の対流が停止する。


温度差が消滅した空間では、どれほど強力な熱源を持っていようとも、それを移動させるための「温度勾配(∇T)」が発生しないため、いかなるエネルギーも他者に伝えることができなくなる。


「が、はっ……、息が……、大気が、動かない……っ」


宗矩は喉を掻きむしりながら、床を泥臭く這いつくばった。


温度差を失った大気は、彼女の熱い肺組織から熱を奪うことも、逆に酸素の信号を脳へ送ることも拒絶する、冷たい「情報の監獄」へと変貌していた。


彼女のまとっている芋ジャージの赤が、世界システムにとって最も有害なバグとして、家康の黄金色の光の中に完全に閉じ込められていく。


『人間の日常という名のノイズはね、すべてを均一に、完全に管理されたこの『徳川』の方程式の美しさの前には、ただの無駄な摩擦ロスに過ぎないのだよ。格差も、戦争も、君が苦しんでいるような家計簿の赤字も、すべてを等しくゼロにすれば、世界は永遠に長持ちする。……君も、そのボロボロの肉体で生き続ける苦痛から、ようやく解放されるんだ。これほど合理的な救済が、他にあるかね?』


家康の指先が、空間の全電荷を強制的に「静止」させるために、ゆっくりと下ろされようとした。


確定された世界の結末。


個としての尊厳も、あったかい100円分の日常の数字も、すべては巨大な計算機の海へと吸い込まれ、均一な無(ゼロ)の数字へと変換されるはずだった。


「――おいおい、最高評議会のジジイサマよ。勝手にうちの特等席(コタツ)の熱量を、お前の上品な計算書から差し引いてんじゃねえよ」


その時、天守閣の崩壊した入り口から、地獄の底から這い上がってきたかのような、凄まじい鉄の駆動音が響き渡った。


満身創痍の宗矩が、かすむ視界をミリメートル単位で動かして見つめた先。


そこには、全身のチタンフレームから青い火花と黒い過熱オイルをドロドロと溢れさせながら、糸の切れた人形のようにアスファルトへと激しく叩きつけられて完全沈黙(シャットダウン)していたはずの男――新選組副長、土方が、壁の鉄骨をへし折りながら立ち上がっていた。


彼の右目の光学センサーは完全に砕け散り、左目の赤いレンズも過負荷によってパリンとひび割れていた。


だが、彼の人工筋肉の繊維は、熱変性でドロドロに溶け出しながらも、自身の電子脳の残存磁気(ヒステリシス)を強引にオーバードライブさせ、時速数百キロメートルの限界駆動を維持していた。


「土方……さん……、どうして……。お前のバッテリーは、完全に放電(クラッシュ)したはずだ……」


家康の複眼が、その計算不可能な個体の再起動を検知して、初めて小さく歪んだ。


「フン……、何度も言わせるな、統括局。俺のメインシステムは確かに完全に機能停止(シャットダウン)した。だがなぁ……、新選組のサイボーグボディを舐めるなよ。俺の内部回路には、最高執行官の『絶縁破壊』の余波による膨大な静電容量(キャパシタンス)が、まだこの剥き出しの基板の隙間に、ドロドロのマヨネーズの脂質クッションとして残留してやがったんだよ!」


土方は左手で、完全に炭化して原型を留めていない黄色いボトルの破片を握りしめ、不敵に笑った。


「お前たちがセクター全体の温度を『均一化』しようとしたその瞬間、俺の皮膚のチタンプレートの外側と、内部の熱核反応炉の残熱の間に、最後の、天文学的な『温度差(熱の不均衡)』が生まれた。……熱電発電、ゼーベック効果。お前らが世界を冷やそうとすればするほど、俺の身体は、その冷気と残熱の等価交換によって、無限の生体電圧を鋳造し続けるんだよォォォォオオッ!!」


「不条理な……、熱力学の法則を、自身の冷却エラーから逆算してエネルギーへ変換しているというのか……!?」


家康のホログラムが、激しいホログラムのノイズを散らして明滅する。


「そしてなぁ、ジジイサマ。この店(万福定食)のツケが5万4千ポンド残ってるってのは、新選組の資産管理アルゴリズムから見ても『容認できん大赤字』だ。その赤字の数字を、お前の綺麗なゼロの方程式で勝手に相殺(チャージ)されてたまるかよ!!」


土方は叫び、残電力量を瞬時に計算するのを完全に放棄して、家康のグローバルサーバーと直結した巨大な光子通信回線の束へと、一直線に跳躍した。


「料理人!! 俺のこのチタンの身体を、お前の新しい黒サビの鍋で、限界の200度まで過熱(ブースト)しやがれ!!」


「おう!! 言われなくても、極東セクターで一番ギトギトで、一番不条理な『油通し(ジャンク・フード)』を仕込んでやるよォォォォオオッ!!!」


崩壊したフロアの瓦礫の奥から、巨大な身体を血で染めたオヤジが、新調したばかりの中華鍋を両手で掲げて吼えながら、凄まじい質量となって飛び出してきた。


オヤジの腕のケロイドが、200度の中華レンジの強火の点火信号(スパーク)を浴びて、赤々と熱を帯びて発光する。


彼は土方のチタンの背中に向けて、熱伝導率50W/m・Kの鉄鍋の底を、運動エネルギーのすべてを「打撃熱」へと変換しながら、ゴンッ、と脳髄に響くような爆音を立てて叩きつけた。


打撃による急激な内部エネルギーの上昇。


土方の皮膚のチタンプレートが、200度を超える鉄鍋の熱を吸収し、体内の絶対零度へと向かう冷気との間に、宇宙最高密度の温度勾配(∇T)を強制構築した。


ゼーベック効果の限界値を遥かに超えた生体電流が、土方の内部回路を一瞬で駆け巡り、彼の剥き出しの電子脳から、黄金色の絶縁破壊のアーク放電が激しく吹き荒れる。


「これでも味わいやがれ、世界システム『徳川』の方程式ィィィッ!! 特製高分子脂質と打撃熱による――『流体力学的・熱電絶縁破壊(エマルション・ゼーベック・ブレイクダウン)』だァァァッ!!!」


土方は叫び、自身のチタンの指先を、家康のグローバルサーバーの光子通信回線の束へと、直接突き立てた。


ドバチチチチチチチチチチチチチチチチチチチチチチチチチチッ!!!!!


空間を埋め尽くしたのは、世界システム『徳川』のメインサーバーを内側から直接圧砕する、天文学的な逆流電圧の雷嵐だった。


土方の機械の身体から放たれる高周波電磁パルスが、家康のホログラムの量子回路を直撃し、彼の予測アルゴリズムの全関数を一瞬にして完全にショートさせていく。


『ば……、バグが……、情報の選別プロセスが……、熱の逆流(オーム抵抗)によって、完全に……全壊していく……!?』


家康の老人のホログラムが、壊れたホログラムのノイズを散らしながら、激しく痙攣し、ミリミリとひび割れていく。


「今だ、神野ォォォッ!! 俺たちの撒き散らした『大赤字の日常(ノイズ)』を、お前の熱で完璧に最終決算(ポリマライズ)させろォォォッ!!」


土方は叫び、空中で彼の左目の赤いレンズが完全にパリンと砕け散り、すべてのエネルギーが「0.000%」を刻んで、そのまま糸が切れた人形のように床へと激しく叩きつけられた。


彼のチタンの身体は二度と動かない完全なジャンクパーツの塊となり、静かに沈黙した。


「――土方さん。オヤジさん。お前らの繋いでくれた、この100円分の温かい熱量の数字、主婦のプライドにかけて、1円単位まで完全に、お前らの脳の光子チップへ叩き込んでやるよォォォォオオッ!!!」


神野宗矩は、涙と汗でドロドロになった顔を上げ、骨まで炭化した右腕を猛烈な執念の力だけで泥臭く引き剥がし、床の『トカマクの柄』を両手で握りしめた。


彼女の全細胞、体内のすべての真核生物の起源であるミトコンドリアが、その感情の爆発に呼応して、科学の限界を超えた未知の『超・超臨界熱核融合反応』をその肉体の中で紡ぎ出し始める。


(収入、月額12,000セクターポンド。家賃、4,500ポンド。重水素水の水道代、1,200ポンド。電気代ペナルティ、6,800ポンド。……昨日のキャベツが98円。半額コロッケが60円。……そして、万福定食での、先月からのツケの合計金額が、32,000ポンド。……今日の緊急オペ代と、中華鍋の弁償代を合わせて、合計134,000ポンドの、宇宙最大の大赤字ィィィッ!!!)


(計算が合わなくて、何が悪い!! マイナスだらけで、何が悪い!! 私たちはね!! お前の綺麗なゼロの正解の中に閉じ込められて生きるより、この大赤字の数字を必死に擦り合わせながら、今日の100円の定食を美味いと言って生きるために、この不条理な絶望の宇宙(世界システム)に抗い続けるんだよォォォォオオッ!!!)


「『活人剣・一刀両断』――熱化学・量子情報・完全重合(クァンタム・エントロピー・エクスプロージョン)ォォォッ!!!」


宗矩の叫びとともに、錆びついた柄から放たれたのは、もはや一億度という数字すらも置き去りにした、青紫色の超臨界プラズマの巨大な津波だった。


その津波は、土方が絶縁破壊を起こした家康のグローバルサーバーの方程式の残骸と接触した瞬間、爆発的な非線形カオスを引き起こした。空間のすべての情報エントロピーが局所的に無限大へと増大し、家康の構築していた『徳川』のメインサーバー、および地球規模の熱的死プログラムを、内側から暴力的に粉々に圧砕していった。


ドガァァァァァァァァァァァンッ!!!!!


天守閣の全空間が、目も眩むような青紫色の爆光によって完全に真っ二つに引き裂かれた。


世界システム『徳川』の黄金色の光子回路が、宗矩の放った大赤字の日常の前に、叫び声をあげる暇すらもなく一瞬にしてドロドロの鉄水へと融解し、中央タワーの心臓部ごと完全に爆発して蒸発していった。


最高評議会の本尊である徳川家康の巨大なホログラムもまた、その不条理な熱対流の直撃を受け、フレームがミリミリと炭化しながら、虚空へと完全に霧散していった。


メインシステム、完全全壊。世界を合理的な虐殺システムで支配していた大東亜統括局の中枢が、人間の撒き散らしたゴミと、脂質と、1円単位の家計簿の怒りによって、完全に文字通り崩壊した瞬間だった。


静まり返る天守閣の廃墟。


宗矩は手から柄を落とし、ジャージの膝からその場に崩れ落ちた。


両腕の包帯からは血が滴り、彼女の体内のミトコンドリアは、今度こそ完全に活動を停止しようとしていた。


視界が完全に遠ざかり、呼吸をするたびに、肺の奥が焼けるように冷たい。


だが、その崩壊したタワーの天井の向こう、極東セクターの冷え切った空からは、これまで見たこともないような、灰色の霧が完全に晴れた美しい「本当の、真の朝焼けの光」が、世界全体を静かに、そして最高に温かく照らし始めているのが見えた。


「はは……、やった、よ……。土方さん……。オヤジさん……。……これで、明日の、ジャンプ……」


宗矩は、泥まみれの赤ジャージの胸元を抑えながら、小さく笑い、そのまま深い意識の闇へと、ゆっくりと崩れ落ちていった。


少女の紡いだ不条理な日常の数式が、冷酷な世界のルールを完全にブチ壊した、最高の終わりと始まりの朝だった。


(第19話・了)

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