最終話:320円の幸福論
大東亜統括局の最高中枢サーバー『徳川』の完全全壊から、早くも二週間の時間が流れていた。
世界を支配していた合理的な虐殺システム、すなわち「人間をエネルギーに変換してエントロピーの辻脄を合わせる」という冷酷な支配方程式が消滅した極東セクターでは、かつての「統括局による配給」という名の管理インフラは完全に崩壊していた。
だが、不思議なことに、セクターは死の街にはならなかった。
人々は寒さに震えながらも、廃墟の隙間で旧文明のガラクタを拾い集め、泥まみれの闇市を開き、自分たちの泥臭い意志で、再び世界を温めるための新しい熱対流を巻き起こし始めていた。
凍てつく灰色の空から降っていた重水素の霧は、中央タワーの融解炉が停止したことによってその濃度を劇的に減衰させ、大通りのアスファルトにへばりついていた死の霜も、人々の生活の熱によって少しずつ、しかし確実に溶け出し始めていた。
「――だから言ってるでしょう、オヤジさん。この、世界のシステムをブチ壊した張本人であり、極東セクターを熱的死の未来から救った救世主たる私の、現在の『生体電流の残高』は正確にマイナス14万5千セクターポンドなんですよ。これはね、今ここで私がコタツの布団からつま先をわずか1ミリでも外に出した瞬間、私の体内の全神経細胞が『急速冷凍ドリップ現象』を起こして、明日のジャンプの合併号をレジに持っていく前に、ただの赤い芋ジャージを着た肉のゴミ(一丁上がり)に相転移することを意味してるんですよ。主婦の家計簿の赤字を舐めないでください」
半分だけ修復され、相変わらず油と煤の臭いが心地よく染み付いた『万福定食』の店内で、神野宗矩は首元がヨレヨレになった赤ジャージの襟元を顎まで引き上げ、コタツの布団に全身を埋没させたまま、涙目で虚空に向かってキレ散らかしていた。
彼女の脳のワーキングメモリの99%は今、コタツのヒーター(消費電力120W)が放つ極上の赤外線輻射熱を、いかに効率よく全身の毛細血管へと伝導させるかという、驚くほどに世俗的でくだらない計算だけに占有されている。
彼女の右腕は、本物の織田信長が放った事象の地平面の熱線によって、肘から先が真っ黒な熱傷のケロイドの塊と化しており、現在は包帯ではなく、オヤジがどこからか仕入れてきた「最高級の馬油」と、大量の湿布によってぐるぐる巻きに固定されていた。
生体電流を限界まで引き放った代物として、彼女の右腕の運動神経は一部が完全に熱変性を起こしており、今では箸を持つだけで指先がピクピクと醜く痙攣するほどの重い後遺症が残っていた。
もう二度とかつてのような「一億度のプラズマの刃」を綺麗に空間に固定することはできないかもしれない。だが、そのボロボロの腕を見つめる宗矩の瞳には、過去の12万人の虐殺のトラウマに怯えるような黒い深淵はなく、ただ「今夜の晩御飯のおかずは何にしよう」という、あるいは「明日の漫画の発売日にはどうやって行列に並ぼう」という、あまりにも世俗的で、大人の壊れたメンタルを優しく繋ぎ止める、くだらない日常の光が宿っていた。
「能書きはいいから、大人しくその包帯の隙間から『ビタミンC』の誘導体でも皮膚に直接インプットしやがれ、この大赤字ジャージ娘」
コタツの対面。
全身を白い包帯と、剥き出しのチタン合金の補強プレートで痛々しく固定された男――元新選組副長、土方が、不機嫌そうに、しかし当然のようにコタツの布団に下半身を埋めたまま、新調したばかりの黄色いマヨネーズのボトルを左手で構えて言った。
彼の右目の光学センサーは完全に失われ、今ではただの鈍い銀色のチタンプレートで塞がれたままであり、左目の赤いレンズも、先日の『流体力学的・熱電絶縁破壊』の過負荷によって、常にミリミリと小さな電子のエラー音を立てて明滅していた。
人工筋肉の繊維は過熱によって変色し、チタンの骨格が動くたびに、耳障りな金属の摩擦音がコタツの下から小さく響いてくる。
家康のグローバルサーバーに指先を突き立て、己の全光子チップを相転移(融解)させて完全な鉄クズ(ジャンクパーツ)になったはずの土方だった。
だが、彼の電子脳の最深部、わずかに残されていた「新選組の執念」という名の残存磁気が、万福定食のオヤジが二週間かけて彼の剥き出しの基板にぶち込み続けた、超高濃度の「工業用はんだ」と「高級冷却オイル」によって、奇跡的というか、ただの理理不尽なまでの生命力によって、数日前にシステムを強制再起動させていたのだ。
彼は首のサーボモーターをギチギチと鳴らしながら、中身の詰まった新しいマヨネーズのボトルを、まるで刀の柄を握るかのような真剣さで愛おしそうに眺めていた。
「ちょっと土方さん。お前さっきから、私の注文した『普通の肉野菜炒め』の真ん中に、なんで当然の権利みたいな顔してその高分子脂質の巨大なエマルション・クレーターをデコレーションしてるんですか。それ、熱力学的に見てもただの油の過剰積載でしょうが! お前はあれですか、世界システムを壊した後も、新選組のプライドをマヨネーズの配合比率の中にしか発揮できない哀れなニートサイボーグに成り下がったんですか!?」
「フン……、勘違いするな、神野。俺の現在のエネルギーセルは、お前たちの放った無駄な熱をゼーベック効果で回収した、わずか5.4%の超省エネモードだ。この極限状態において、生体CPUのクロック速度を維持するためには、野菜の食物繊維に高分子の脂質を融合させ、咀嚼時の摩擦係数を極限まで軽減にすることが、俺のシステムにとって最も合理的な栄養力学の正解なんだよ。お前のように、コタツの熱を無駄に生体電流に直結させて、1日3回もうちの店のブレーカーを落とすような熱損失の塊と、一緒にするな」
「だからそれがデブ力学だって言ってるだろォォォ!!! お前その包帯の下のチタンフレーム、この二週間でマヨネーズの油分のせいで確実に錆び色に相転移してやがるぞ!! 警察権力の振りかざしすぎの次は、定食のカロリーの過剰積載で私を胃もたれで処刑する気ですか副長サマ!! だいたい、そのマヨネーズをストローで吸うのは流体力学的に粘度抵抗が高すぎて効率が悪すぎるって、先週自分で言ってたのもう忘れたんですか!!」
「フン、不条理だな。俺のチタン製の指先であれば、マヨネーズの物性変化(ビンガム流体の剪断速度)を完璧に制御し、お前の肉野菜炒めの熱容量を100%効率的に胃壁へと伝導させることが可能だ。どちらがテクノロジーとして優れているかは自明だろう」
二人がコタツの天板を挟んで、数日前の世界の命運をかけた戦いと同じレベルの血走った眼光で火花を散らしていると、調理場の暖簾をグワシと力強く撥ね退けて、新しい巨大な黒サビの中華鍋を肩に担いだオヤジが、ドン、と重い足音を立てて現れた。
オヤジの腕の火傷のケロイドは、宗矩の腕の傷と同じく痛々しく残っていたが、彼が握る新しい中華鍋の黒サビの被膜は、以前の鍋よりもさらに深く、頑強に鈍い光を放っている。
「おい、コタツ虫ども。朝からマヨネーズとジャージの静電気で、うちの店の新調したばかりのブレーカーを落とすんじゃねえよ。だいたい、そのマヨネーズは俺が闇市の八百屋のババアから、先月のツケの『一部相殺』として、本物の卵黄を使って仕込んできた特製コロイド溶液だ。お前らみたいな、飯を食うだけで一銭の売上にもならねえ大赤字の居候どもに食わせるエサじゃねえんだよ。ほら、大人しくこれを食いやがれ」
オヤジは鼻でフンと笑いながら、コタツの天板の真ん方に、湯気を立てる大盛りの皿をドスンと置いた。
それは、大盛りの白い麦飯と、香ばしい醤油の臭いを放つ、万福定食の本当の看板メニュー――『320円のチャーハン』だった。
中央タワーが崩壊する前、あのローレンツ力の電磁弾に肉体を焼かれながらも、オヤジが「お前はまだ、チャーハンを食ってねえ」と、その命を懸けて守り抜いた、少女へのせめてもの料理人の正解の形が、今、ここに完璧な熱対流(湯気)を伴って完成していた。
宗矩は、箸を持つ手がピクピクと痙攣するのを、左手でそっと抑えながら、レンゲを持ってチャーハンを一口、掬って口に運んだ。
お米の一粒一粒に均一にコーティングされた卵の旨味、ネギの香ばしさ、そしてチャーシューの塩分が、彼女の傷ついた身体、細胞の最最深部へと、優しく、そして暴力的なまでの美味さとなって染み渡っていく。
体内のすべてのミトコンドリアが、その温かい有機物を感知して、まるで失われた日常を取り戻したかのように、穏やかで完璧な生命のエネルギー通貨(ATP)の鋳造を再開するのが、感覚的に分かった。
「……美味い。美味すぎるよ、オヤジさん」
宗矩の目から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ち、チャーハンの上に小さなしずくとなって落ちていった。
その涙の質量は、熱力学のどんな一次方程式でも、大東亜統括局のどんなスーパーコンピューターのアルゴリズムでも決して処理しきれない、人間の「生きていてよかった」という、不条理な幸福のエネルギーそのものだった。
「フン……、ただのナトリウムと炭水化物の混合物だ。だが、この熱容量(温度)だけは、新選組のデータベースにあるどの最高級配給食よりも、著しく数値が高いな」
土方も、文句を言いながらも、左手でマヨネーズを少しだけチャーハンの端っこに添え、静かに口へと運び始めた。
彼の機械の身体の隙間から、ゼーベック効果による微弱な生体電圧が、心地よいピコピコという電子音を立てて彼のメインCPUへと充電されていく。
世界はまだ冷え切ったままであり、統括局の残党や、さらなる最高評議会の本尊たちが、この地球のどこかで再び冷徹な正解(合理性)を求めて爪を研いでいるかもしれない。
自分たちの犯した罪や、失われた仲間たちの命の数字が、完全に元通りになるわけでもない。
大人の現実とは、いつだってマイナスだらけの家計簿のように、理不尽で、重苦しくて、残酷な不均衡に満ちている。
だけど、この極東セクターの掃き溜めの、壊れた定食屋のコタツの真ん中には。
1玉98円のキャベツの食感を語り合い、320円のチャーハンの美味さに涙を流し、明日のジャンプの発売日に本気で命を懸ける、最高にくだらなくて、最高に温かい「人間の時間」が、確かに、等価交換の方程式を超えた本当の幸福として存在していた。
「よし、飯を食ったら、次は明日の朝5時のジャンプ争奪戦に向けた『最大移動速度の不確定性原理』を組み立てるぞ。土方さん、お前のその融解しかけたチタンの脚力、明日の朝の行列を確保するための最高時速として、私に無償提供しなさい。ツケの分はきっちり身体で払ってもらいますからね」
「断る。新選組の機動力は、定食の確保と治安維持のためにのみ最適化されている。お前のその非合理的な娯楽(漫画)のために、俺の残電力量を1%たりとも消費するわけにはいかない。だいたい、お前のそのピクピク痙攣してる右手で、俺の脂質の防壁が突破できると思うなよ」
「やってみろ、ケチサイボーグ!! お前のその残された左目のレンズもマヨネーズで絶縁破壊して、ただの黄色い静電気測定器にしてやろうか!? 1円単位の家計簿の怒りを、お前の光子チップへダイレクトに叩き込んでやりますよ!!」
「おい、コタツ虫ども。うるせえよ。飯を食うなら、静かに味わって食いやがれ。せっかくのチャーハンが冷めるだろうが」
オヤジが鼻でフンと笑いながら、新調したばかりの黒サビの中華鍋を愛おしそうに磨き直す。
その無骨な横顔には、これからの大赤字の経営(不条理な現実)に立ち向かう、大人の静かな覚悟の数式が刻まれていた。
窓の外には、霧の完全に晴れた、どこまでも青く、どこまでも高い冬の太陽が、極東セクターの廃墟、そしてそこに生きる人々の泥臭い日常を、静かに、そして最高に温かく照らし出していた。
世界の計算を完全にブチ壊した少女とサイボーグたちの、大赤字だらけの、不条理で、最高に愛おしい日常の方程式は、これからもこの掃き溜めのセクターの厨房の真ん中で、賑やかなツッコミの音と共に、いつまでも、いつまでも臨界点を突破して回り続けていく。
(赫鋼のレクイエム――完)




