第14話:情報の不均衡と崩れる日常
「――おい、土方。新選組の臨時治安維持規律第2条を覚えているか」
万福定食のコタツの魔力に完全に敗北し、みかんの白い筋を一本ずつ剥くという、熱力学的に極めて無駄な作業に没頭していた土方の動きが、ピタリと止まった。
店の入り口、ガラスが半分割れた自動ドアの隙間から、ねっとりとした灰色の霧と共に滑り込んできたのは、浅葱色の羽織をボロボロに濡らした男――新選組二番隊組長、永倉だった。
彼の人工筋肉のフレームは半分剥き出しになり、胸の冷却ファンからは、瀕死の電子音が虚しく高架下に響いている。
「永倉……。その身体、中央タワーで何があった。局長の『絶縁破壊』によるシステムダウン以降、新選組の全回線はオフラインのはずだ」
土方はコタツの布団を跳ね除け、その場に鋭く立ち上がった。
彼の左目の緑色の光学センサーが、永倉の損傷深度をミリ秒単位でスキャンしていく。
「……もう、新選組の計算式は、統括局のメインサーバーには必要ないそうだ。……『赤穂浪士』。……『徳川』の直属監査官、吉良が……タワーの融解炉の出力を、上限の300%まで引き上げた。……極東セクターの全住民の脳(生体CPU)を、一斉に並列接続して、次の『情報収穫』を始める気だ……」
永倉はそう言い残すと、チタン合金の膝から崩れ落ち、そのまま床へと完全にシャットダウンした。
「おい、冗談だろ……」
コタツの中で完全に溶けていた宗矩が、錆びついた『トカマクの柄』を握りしめ、ゆっくりと這い出してきた。
彼女の脳内で、これまでのくだらない日常の数字が、最悪の方程式となって急激に繋がり始めていた。
(……待って。どうして、大東亜統括局はこんなゴミ溜めみたいな極東セクターに、近藤さんや沖田さん、そして信長様のアバターまで投入してきたの? 私のトカマク型核融合の熱量を奪うため? 違う。そんな効率の悪い等価交換のために、最高幹部が自ら動くわけがない)
科学のルールはいつだって冷酷だ。
情報を得るためには、必ずそれと同等の熱量を消費しなければならない。
2世紀前に物理学者レオ・シラードが提唱した、情報の移動と熱力学の融合――『シラードのエンジン』。
「……統括局の目的は、私の熱量そのものじゃない。……私のプラズマが引き起こす『量子力学的な不確定性(確率の乱数)』だ! 完璧に管理された大東亜統括局の巨大計算機システムにとって、唯一計算できない『人間の不条理なノイズ』。……それらを融解炉の超高圧で一斉に処理することで、システム全体の情報エントロピーを極限までゼロに近づける……。それが、世界を『熱的死』から救うための、信長様の真の計算式だったんだ!!」
宗矩の背筋を、あの日、セクター01で12万人を焼き尽くした時以上の、本物の戦慄が駆け抜けた。
彼女が1円単位の家計簿に逃げ、320円のチャーハンに執着していたのは、ただのトラウマの防衛本能ではなかった。
システムが提示する「最大多数の最大幸福」という名の冷徹な正解(合理性)に対して、人間の泥臭い、くだらない、計算不可能な日常のノイズこそが、世界を完全に均一化(熱的死)させないための、唯一の『不確定性の防壁』だったのだ。
「フン……。やはり、お前のそのヨレヨレのジャージのポケットには、世界をひっくり返すだけの深刻なシステムエラーが詰まっていたというわけか、神野」
土方は、懐から新しいマヨネーズのボトルを取り出すと、そのキャップを小気味よく親指で弾き飛ばした。
「料理人。ツケの5万4千ポンド、新選組の全資産を担保にして、今夜の『特攻メニュー』を注文させてもらうぞ」
「おう。言われなくても、極東セクターで一番ギトギトで、一番熱対流の激しい最高の一皿を仕込んでやるよ。……お前ら、腹を空かせて戻ってきやがれ」
オヤジは新調したばかりの黒サビの中華鍋を強く握りしめ、調理場の200度のレンジに、一気に強火の点火信号を送り込んだ。
店の外の灰色の霧が、急速に赤黒い「電磁の渦」へと相転移を始めていく。
中央タワーから放たれる、情報選別の不可視のレーザーが、セクターの空を真っ二つに切り裂いていた。
「行くよ、土方さん。……私たちの、くだらなくて、あったかい、100円分の日常の数字を取り戻しに!」
宗矩の赤ジャージが、吹き込む爆風に激しく翻る。
世界を支配する巨大な計算機ネットワークの心臓部へ向けて、少女とサイボーグの、命のすべてを賭した終盤の大決戦へのカウントダウンが、今、完全にゼロを刻んだ。
(第14話・了)




