第13話:熱量の無駄遣いとコタツの引力
神野宗矩の命を賭した『量子跳躍』によって、胸部の中央回路を完全に焼き切られた織田信長の肉体は、サラサラとした銀色のナノマシンの砂へと分解され、床に一枚の電子チップを残して完全に消滅していた。
あれほど圧倒的な絶望の質量を誇っていた男が、ただの『自律型端末』に過ぎなかったという残酷な事実。
それでも、そのアバターを撃破したことによって、セクター全域を縛り付けていたエネルギー制限プログラムは強制解除され、街電の明かりが廃墟の隙間を温かい光で満たし始めていた。
「はは……、やった、んだよね……。本尊はまだ生きてるみたいだけど、とりあえず、今日のところは私の勝ち、でいいよね……」
宗矩は手から錆びついた柄を落とし、その場に大の字に崩れ落ちた。
両腕の包帯は完全に血で染まり、彼女自身の寿命(生体電流)も今や完全に底を突こうとしていた。
動くことすら不可能な極限の疲労感の中で、不思議と彼女の心は、あの12万人の虐殺のトラウマから解放され、凪のように静かだった。
「――全く、朝からけたたましい爆音を響かせやがって。近所迷惑防止条例で、統括局に苦情のファックスを送るぞ、コラ」
瓦礫の山がガラガラと崩れる音とともに、野太い、しかし酷くかすれた声が店内に響いた。
全身の皮膚をジュール熱で焼かれ、完全に呼吸を停止していたはずの万福定食のオヤジが、頭のバンダナを煤で真っ黒に染めながら、ゆっくりと上体を起こしたのだ。
「オヤジさん……っ! 生きて、た……っ!」
宗矩の目から、再び大粒の涙が溢れ出した。
「当たり前だろ、嬢ちゃん。俺の心臓はなぁ、毎日200度の油の飛沫を浴びて鍛え上げられた、極東セクターで最もタフな内燃機関だ。ちょっとやそっとの生体電流くらいじゃ、エンストも起こさねえよ。それより……、うちの特製ダレが、信長の外套のせいで台無しになっちまった。あの黒サビ被膜の中華鍋も、完全に融解してただの鉄の塊だ。これ、誰が弁償してくれるんだ?」
オヤジはフゥと重い溜息を吐きながら、半分溶けた鉄の塊を拾い上げて頭を掻いた。
「フン……、物損器物破損の請求先なら、大東亜統括局の管財セクターへ送るがいい。ただし、現在の統括局はメインサーバーのシステムエラー(量子バグ)によって、すべての支払アルゴリズムが凍結しているがな」
さらに別の瓦礫の影から、カチカチと不気味な機械音を立てて、銀色のチタンフレームが起き上がった。
残電力量が完全にゼロになり、ただのジャンクパーツに相転移したはずの新選組副長・土方だった。
彼の光学センサーは右目が完全に砕け散り、左目だけが弱々しい緑色の光を点滅させていた。
内部の電子脳から、絶縁破壊の余波による黒い煙が今なお細く立ち上っている。
「土方さんまで……! あなた、エネルギーがゼロになったんじゃなかったんですか!? 局長をマヨネーズで絶縁破壊した時、完全に脳のチップがショートした音が聞こえましたけど!?」
宗矩が寝転がったまま、驚きで声を裏返した。
「勘違いするな、神野。俺のメインバッテリーは確かに完全に放電した。だが、新選組のサイボーグボディには、最末端のバックアップシステムとして、『熱電発電(ゼーベック効果)』の回路が組み込まれている。
料理人の放ったあのカプサイシンの熱対流と、お前たちのプラズマの余熱が、俺の皮膚のチタンプレートに莫大な『温度差』を生み出した。その熱エネルギーが微弱な生体電圧へと変換され、俺の電子脳のブート領域を強制再起動させたんだよ。……つまり、俺は、お前たちの撒き散らした無駄な熱のおかげで、皮肉にも命拾いしたというわけだ」
土方は首のサーボモーターをギチギチと鳴らしながら、懐から潰れた黄色いボトルを取り出した。
中身は完全に空っぽだったが、彼はそれを愛おしそうに眺め、不敵に笑った。
「熱電発電……。温度差を直接電気に変える、物理学の等価交換……。やっぱり、この世界のルールは、どこまでも泥臭くて不条理ですね」
宗矩はハハ、と小さく笑った。
世界は完璧な一次方程式ではない。
人間の生きようとする意志が、カオスを巻き起こし、不確定性の霧を呼び、絶対の重力すらも遮蔽してみせる。
その不条理な美しさこそが、彼女が過去の罪を背負いながらも、この掃き溜めのセクターで生きていくための新しい数式だった。
それから、数日の時間が流れた。
極東セクターの中央タワーは不気味な沈黙を保ったままであり、統括局の次なる動きは未だ観測されていなかった。
命を削るような激闘の傷を癒すため、万福定食の面々は、文字通りの「絶対安静(という名のただの手抜き日常)」の時間を過ごしていた。
「――いいですか、土方さん。人間という真核生物が、この冬場の極寒という環境ストレスに対して選択すべき最も合理的な生存戦略は、捕食でも、生殖でも、ましてや統括局のパトロールでもない。この、旧文明の英知が結晶した『コタツ』という名の局所取捨系熱空間に下半身を完全埋没させ、1日24時間、一切の分子運動を停止させることにあるんですよ」
半分だけ修復された店内で、宗矩は首元がヨレヨレになった赤ジャージの襟元を顎まで引き上げ、コタツ(消費電力120W)の布団にしがみついたまま熱弁を振るっていた。
激戦による精神的疲労の反動のせいで、現在の彼女のやる気スイッチは細胞レベルで完全に引っこ抜かれていた。
彼女の脳のワーキングメモリの99%は今、コタツのヒーターが放つ極上の赤外線輻射熱を、いかに効率よく全身の毛細血管へと伝導させるかという、驚くほどに世俗的でくだらない計算だけに占有されている。
「お前のその発言自体が、大東亜統括局の『資源最適化ガイドライン』に対する深刻な不敬罪だ、神野」
コタツの対面に座る土方は、不気味に包帯を全身に巻いたまま、新調したばかりの黄色いマヨネーズのボトルを片手に持ったまま言い放った。
彼の機械化された右目は未だにチタンの保護プレートで塞がれたままだったが、左目の緑色の光学センサーは、コタツの天板の上に置かれた「ある物体」を極めて精密に、かつ殺気立ってロックオンしていた。
二人の視線の中心に鎮座しているのは、万福定食のオヤジがどこからか仕入れてきた、この時代には極めて希少な、汚染されていない生の本物の「みかん」が、たったの一個だった。
「ふん……、熱電発電の回路が修復されたとはいえ、俺の現在の残電力量は12.4%だ。この極寒のセクターにおいて、生体CPUの演算速度を維持するためには、そのみかんが含有する高濃度のビタミンCと、果糖による即効性のエネルギー補給が不可欠であると、俺のシステムが結論を出した。……どけ、ジャージ娘。そのみかんの所有権は、新選組の臨時治安維持規律に基づいて、俺が統括局の資産として強制接収する」
土方が人工筋肉をギチギチと鳴らし、ボトルのキャップを親指で弾き飛ばした。
「待てコラ、このマヨネーズサイボーグが!! 何が統括局の臨時規律ですか! お前いま休職処分中のただのニートサイボーグだろうが!! そのみかんはね、昨日私が万福定食の裏の排熱ダクトの隙間で、1玉98円の重水素キャベツの段ボールの底に奇跡的に挟まっていたのを発見した、我が神野家の貴重な冬の埋蔵文化財ですよ!! 誰がお前みたいな、血液の代わりにエマルション油が流れてる油ギトギト男に渡すか!! お前は大人しくマヨネーズのボトルにストロー突っ込んで、脂質だけ摂取して1年中揚げ物みたいな顔して生きてろ!!」
宗矩はコタツから一切下半身を出さないまま、上半身だけを激しくのけ反らせ、右手の包帯を鋭く突き出した。
「お前はみかんに対する執着心だけで、なんでそこまで流暢な罵詈雑言の数式を組み立てられるんだ。だいたい、マヨネーズをストローで吸うのは流体力学的に粘度抵抗が高すぎて効率が悪すぎる。せめてスプーンを使うのが大人の礼儀だ」
「礼儀の方向性が絶望的に狂ってんだよォォォ!!! そんな食べ方してる大人、児童文学の悪役でもお目にかかれないわ!! そもそも、そこのみかんの皮を剥くという作業における『摩擦係数』と、剥いた後の皮の質量の『廃棄エントロピー』を考慮した場合、私のこの繊細な主婦の指先(包帯まみれ)こそが、最もエレガントにその糖分を摂取する権利を有しているんです!!」
二人がみかん一個を巡って、命のやり取りをしていた時以上の凄まじい眼光で火花を散らしていると、厨房の奥から、新しく新調されたばかりのピカピカの中華鍋を肩に担いだオヤジが、暖簾をくぐってきた。
「おい、コタツ虫ども。朝からみかん一個で熱力学の無駄遣いをしてんじゃねえ。だいたい、そのみかんは俺が常連の八百屋のババアから、先月のツケの『一部相殺』として現物支給で分捕ってきたもんだ。つまり、所有権は100%この俺にあるんだよ。……ほら、大人しく飯を食いやがれ。今日の特別メニューだ」
オヤジがコタツの天板の真ん方にドスン、と置いたのは、大盛りの白い麦飯と、湯気を立てる肉野菜炒め、そして、その横に当然のように添えられた、320円のチャーハン用の『特製中華スープ』だった。
「あ、オヤジさん、これマヨネーズが乗ってない方の普通の肉野菜炒めですね! 素晴らしい! これです、これこそが、大東亜統括局の冷酷な計算式に一時的とはいえ勝利した、極東セクターの誇るべき人類の完全な正解メニューですよ!!」
宗矩は一瞬でみかんのことを忘れ、箸を両手に持って目を輝かせた。
「おい、料理人。俺の注文した『マヨネーズ大盛り(比率80%)』のカスタム指示が反映されていないぞ。俺の視覚センサーのバグか?」
土方が左目のレンズを収縮させ、不満そうにスープを睨みつける。
「うちの店にはそんなメニューはねえよ。ほら、大人しくそのスープを飲んで、体内の冷却効率でも上げとけ」
オヤジが鼻で笑いながら、コタツの端っこに腰を掛けた。
宗矩は、あったかいスープを一口、口に運んだ。
鶏ガラの出汁と醤油の塩分、そして生姜の熱量が、傷ついた身体へと優しく染み渡っていく。
細胞内のミトコンドリアが、その温かい有機物を感知して、穏やかなATPの鋳造を再開するのが感覚的に分かった。
「……美味い。やっぱり、万福定食のスープは、等価交換の法則を超えた美味さがありますね」
宗矩はフゥと幸せそうな溜息を吐き、コタツの温もりにさらに深く身を沈めた。
世界はまだ冷え切ったままだ。
極東セクターの中央タワー最上階には織田信長の本尊、そして世界を支配する巨大計算機ネットワークの真の支配者たちが息を潜めている。
だけど、この壊れた定食屋の厨房の真ん中、120Wのコタツの布団の下には、1玉98円のキャベツの千切りと、たったの一個のみかんを本気で奪い合う、最高にくだらなくて、最高に温かい「人間の時間」が、確かに等価交換の幸福として存在していた。
窓の外には、数日ぶりの穏やかな冬の太陽が、極東セクターの廃墟を静かに照らし出していた。
(第13話・了)




