第12話:量子跳躍の不確定性
「エラーログが、システムを凌駕するだと……!?」
大東亜統括局・最高執行官である織田信長は、その冷徹な複眼に初めて明確な焦燥の光を走らせた。
オヤジが散布した塩化ナトリウムの霧が、土方の放った高周波電磁パルスによって電離し、完全電離プラズマへと変貌している。
このデバイ遮蔽によって、信長が空間のエネルギー運動量テンソルを書き換えて維持していた局所的重力フィールドは、電気的な中和を起こして完全に霧散していた。
空間を支配していた数十倍の重力から解放された神野宗矩は、包帯から絶え間なく鮮血を滴らせながらも、床を蹴って立ち上がった。
「織田信長……。あなたの言う合理的な数式なんて、私はもう絶対に信じない。私はこの芋ジャージを着て、万福定食の320円のチャーハンを美味いと言って食べるために、お前をぶっ飛ばす!!」
宗矩が叫ぶと同時に、彼女の手にある刀身のない柄から、これまでのプラズマとは一線を画す「青紫色の閃光」が激しく噴き出した。
それは、大気中の重水素を圧縮するだけの単純な熱核融合ではない。
彼女自身の細胞内ミトコンドリアが、感情の爆発に同調して、生体電流の限界値を突破したことによる超臨界プラズマだった。
「『活人剣・一刀両断』――極限収束(マキシマム・圧縮)!!」
一億度を遥かに超える超高密度の熱線が、空間を焼き裂きながら信長の胸元へと肉薄する。
だが、信長は焦燥を浮かべながらも、瞬時にその驚異的な演算能力を回復させていた。
「傲慢だね、宗矩。君のその無駄な感情のエネルギーがどれだけ数式を乱そうと、物理学の決定論からは逃れられない。プラズマの性質が変化したところで、その飛翔軌道はマクスウェル方程式の方程式に縛られた一本の『線』に過ぎないんだよ」
信長は黒い手袋に包まれた左手を、優雅に前方へと突き出した。
デバイ遮蔽によって重力制御は無効化されたが、信長自身のサイボーグボディに内蔵された超伝導磁気コイルが、空間に新たな「超強力な多重磁気バリア(磁気ミラー)」を展開したのだ。
宗矩の放った青紫色のプラズマ熱線は、信長の手前数センチメートルの空間で、強力なローレンツ力によってそのベクトルを完全に強制ねじ曲げられた。
一億度を超えるエネルギーが、信長の身体を迂回するようにして背後の壁へと逸れ、万福定食の残されたコンクリート壁を一瞬でガラス状にドロドロに融解させていく。
「届かないと言ったはずだ。ベクトルが完全に予測できるものである以上、それを偏向させることは、大東亜統括局のメインサーバーの計算リソースの、わずか0.01%も消費しない作業だよ」
信長の声は冷たく、そして絶対的な勝利を確信していた。
重力を失ってもなお、彼はすべてのエネルギーの流れを完全に管理し、計算し尽くすことができる、この世界の支配者だった。
「ベクトルが予測できるから、防げる……。お前たち統括局の連中は、いつだってそうやって、すべてが『決まった線』の上を動いていると思い込んでいるんだよ」
宗矩は、プラズマを弾かれながらも、その泥臭い笑みを崩さなかった。
彼女の脳内では、過去の織田信長による英才教育の記憶ではなく、この掃き溜めの極東セクターで培った、泥臭い「主婦の生活の知恵(確率論)」の数式が弾き出されていた。
「いいですか、執行官サマ。理系の最先端ってのはね、決定論だけで動いてるわけじゃない。物質を極限まで小さくしていったとき、その位置と運動量は、決して同時に正確に測定することはできない。……ミクロの世界を支配する絶対のルール、『ハイゼンベルクの不確定性原理』だ!!」
宗矩は、錆びついた柄を両手で逆手に構え、自身の胸元へと引き寄せた。
「アインシュタインの言う通り、神はサイコロを振らないかもしれない。だけどね……、今日の晩御飯のおかずがタイムセールで残っているかどうかは、いつだって神様にだって分からない確率のギャンブルなんだよォォォォオオッ!!」
彼女が生体電流を、自身の心臓の鼓動(生体クロック)と完全に「逆位相」で同期させた瞬間、彼女の持つトカマクの籠の内部で、決定的な相転移が発生した。
空間に固定されていたはずのプラズマの磁気籠が、局所的に『量子力学的な不確定性状態』へと突入したのだ。
プラズマを構成するイオンや電子の「位置の確率分布(波動関数)」が、空間全体へと一瞬にして急激に拡散(シュレディンガーの猫状態)を始める。
信長の磁気バリアが、そのプラズマの「位置」を特定して弾こうとした瞬間、プラズマの粒子は、すでにそこに「存在している確率」と「存在していない確率」が同時に重なり合った、計算不可能な霧へと変わっていた。
「なっ……、磁気ミラーの干渉波形が……消えた!? 粒子の座標が不連続に変化している……! 計算が、合わない……!」
信長の複眼が、これまでで最大の致命的エラー(例外処理エラー)を検知して激しく明滅した。
どれほど巨大なスーパーコンピューターを並べようとも、量子力学的な不確定性、すなわち「確率そのもの」を完全に予測して先回りすることは不可能だ。
「これが、私の最後の味付けだァァァッ!! 『活人剣・量子跳躍』!!」
宗矩の叫びとともに、不確定性の霧と化していた一億度のプラズマが、信長の磁気ミラーの防壁の「内側」に、何もない空間をすり抜けるようにして突如として再実体化(トンネル効果)した。
防壁を完全にバイパスされた信長の胸部へと、青紫色の超臨界プラズマの刃が、文字通りゼロ距離で突き刺さる。
シュウゥゥゥゥゥ――――ッ!!
音は、驚くほどに静かだった。
だが、その一撃は信長の純黒の外套を瞬時に炭化させ、彼の胸元にある黄金の『織田』の家紋をドロドロの鉄水へと融解させた。
内部のナノカーボン骨格が熱変性を起こし、大東亜統括局の最高中枢へと直結していた光子通信回線が、一瞬で焼き切れ、遮断されていく。
「ぐ、ああああああああああああああッ!!!!」
信長の口から、初めて機械のノイズではない、生身の人間としての本当の絶叫が迸った。
一億度の熱が彼の人工神経を暴力的に焼き尽くし、大東亜統括局という巨大な計算機の支配から、彼の意識を強制的に引き剥がしていく。
信長の身体が大きくよろめき、万福定食の床へと膝を突いた。
彼の胸からは、青い火花と、回路が溶けた黒い煙が激しく立ち上っている。
「……見事、だね、宗矩。……不確定性、か。……私は、世界のすべてを計算し尽くしたと、思っていたが……。人間の、生きようとするノイズ(確率)だけは……、私の数式には、入っていなかったようだ……」
信長は、その美しい顔を苦痛に歪めながらも、どこか満足げな、かつての師としての笑みを浮かべ、そのまま静かに目を閉じて倒れ込んだ。
極東セクターを、そして世界の合理的な虐殺システムを司っていた最高幹部が、ついに機能を停止した。
静まり返る廃墟の店内。
宗矩は、手から錆びついた柄を落とし、その場に崩れ落ちた。
両腕の包帯は完全に血で染まり、彼女自身の寿命(ミトコンドリアの生体電流)も、今や完全に底を突こうとしていた。
だが、彼女の視線の先には、崩壊した天井の向こうから、これまで見たこともないような、灰色の雾が晴れた美しい「本当の朝焼け」の光が、極東セクターの街並みを静かに照らし始めているのが見えた。
「はは……、やった、よ……。オヤジさん……、土方さん……」
宗矩は、泥まみれの芋ジャージの袖で涙を拭いながら、小さく笑った。
「これで……、明日のジャンプ、ちゃんと……買いに行ける、よね……」
少女の紡いだ不条理な日常の数式が、冷酷な世界のルールを完全に書き換えた、最高の朝だった。
(第12話・了)




