第11話:事象の地平面と落涙の質量
万福定食の崩壊した天井から吹き込む灰色の霧は、すでに完全に凍りつき、床に転がる土方のチタンフレームを白くコーティングし始めていた。
近藤を倒したはずの歓喜はどこにもなく、ただ圧倒的な「死の静寂」だけが、その場にいる全員の呼吸を強制的に止めていた。
純黒の外套をなびかせ、ゆっくりと瓦礫の山へと着地した男――織田信長。
彼の存在そのものが、周囲の空間の重力を歪めているかのように、近くに転がっていた鉄の破片がミリミリと音を立てて浮き上がり、迅速に次の瞬間には凄まじい質量となって床へと圧砕された。
「……信長、様……」
宗矩の口から漏れたのは、言葉というよりは、肺の奥に残った最後の空気が、恐怖の振動となって漏れ出ただけの掠れたノイズだった。
包帯まみれの彼女の身体は、完全に硬直していた。
脳の全ワーキングメモリが、眼前に立つ男の「戦闘計算能力」を測定しようとした瞬間に、測定不能のエラー(オーバーフロー)を起こして強制終了を繰り返す。
目の前にいるのは、かつて自分に科学を教え、同時に12万人の人間を生きたまま焼き焦がす方程式を授けた、真の悪魔。
この世界の不条理なエネルギー循環システムそのものが、人間の皮を被って立っているような、絶対的な絶望の質量がそこにあった。
「久しぶりだね、宗矩。私から逃げ出して、極東セクターの最底辺でどのような高度な数式を組んでいるかと思えば……。随分と、みすぼらしい衣服を纏っているじゃないか」
信長は冷徹な、しかしどこか歪んだ慈愛を孕んだ瞳で宗矩を見下ろした。
彼の声は低く、順次細かな空気の振動(超音波)を伴っており、聞くだけで人間の鼓膜から脳の平衡感覚へと直接、拒絶反応を呼び起こす。
信長がゆっくりと一歩、踏み出す。
それだけで、彼の周囲にある大気中の分子が急激に高密度へと圧縮され、光の屈折率が変化していく。
彼の背後の空間が、まるでブラックホールの境界線――『事象の地平面』のように黒く、深く、歪んで見えた。
「信長様……、私は、もう……。あなたの計算機には、戻りません。私はもう、数字のために……誰かを融解することなんて、絶対に……!」
宗矩は震える右手で、床に転がっていた『トカマクの柄』を必死に握りしめた。
火傷と凍傷で破壊された指先が、柄に触れるだけでジクジクと血を滲ませる。
だが、その痛みが辛うじて、彼女の精神を正気(ギャグという名の防衛本能)の側に繋ぎ止めていた。
「おやおや、まだそんなエラーログ(感情)に脳のメモリを割いているのかい。人間の感情とは、熱力学的に見れば、ただの『エネルギーの無駄な拡散』に過ぎない。君が泣き喚き、誰かの死を悼むその瞬間にも、宇宙のエントロピーは増大し、極東セクターの有限な電力が失われていく。……君が1玉98円のキャベツに執着するのも、明日の漫画の発売日に命を懸けるのも、すべては過去の『12万人の死の数字』から目を背けるための、哀れなシステム逃避だ。私はね、それを初期化してあげたいと言っているんだよ」
信長は黒い手袋に包まれた手を、優雅に、しかし絶対の命令として宗矩へと差し伸べた。
「逃避なんかじゃ……ない……っ! 1円単位の家計簿も、業務スーパーの半額アイスも、ジャンプの合併号も! 全部、私たちが必死に生きてる、温かい人間の数字なんだよ!! あなたたちの冷たい一次方程式と一緒にしないで!!」
宗矩は絶張とともに、生体電流を限界を超えてスパークさせた。
「『活人剣・一刀両断』――最大指向性、臨界出力ォォォッ!!」
彼女の持つ柄から、本日最大、いや、彼女の人生の中で最も巨大な、純白のプラズマの刃が音を置き去りにして放たれた。
1億度を超える超高密度の熱線。
それは空間の酸素を一瞬で焼き尽くし、熱膨張による大気爆発を引き起こしながら、信長の脳天へとまっすぐに突き進んだ。
近藤の磁場をも突き破る、絶対的なエネルギーの暴力。
だが。
その一億度の白光は、信長の身体に触れることすらできなかった。
信長の前方わずか数センチメートルの空間。
そこに、目に見えない「空間の壁」が存在していた。
いや、壁ではない。
宗矩の放ったプラズマの光線が、信長の手前で急激に曲げられ、歪められ、そのまま彼の周囲をぐるりと円を描くように旋回して、虚空へと霧散していったのだ。
「――光すら曲げる、アインシュタインの一般相対性理論。……アインシュタインの方程式、『Gμν = 8πG/c^4 Tμν』。空間の歪み(重力)は、そこに存在する質量とエネルギーの密度によって決定される」
信長は指先を軽く動かした。
それだけで、宗矩の周囲の「重力定数」が強制的に書き換えられた。
「私が空間の『エネルギー運動量テンソル』を局所的に無限大へと書き換えれば、そこには擬似的な『微小ブラックホール』が生成される。君の放つプラズマも、熱線も、すべては空間の歪みに沿って軌道を曲げられ、私の事象の地平面の内側へと吸い込まれるだけだ。……君の熱量では、私の質量には届かない」
ドォォォォォォォォォォォンッ!!!
次の瞬間、宗矩の身体に、通常の地球の数十倍に匹敵する「局所的超重力」が圧し掛かった。
「があっ……、あ、が……っ!?」
宗矩の小さな身体が、強烈な下向きのベクトルによって床へと叩きつけられた。
コンクリートの床がベキベキと陥没し、彼女の肋骨がミリミリと悲鳴を上げる。
包帯に包まれた両腕から、圧力によって鮮血が噴き出し、ジャージの赤をさらに深く染めていく。
重力という名の物理的な質量が、彼女の肉体と、速度を上げて立ち上がろうとする意志を、文字通り粉々にすり潰そうとしていた。
「どうだい、宗矩。これが世界の本質だ。どれだけ感情を燃やそうと、圧倒的な計算(質量)の前には、ただ平伏するしかない。君がここで潰れるのも、自然界の数式にとっては予定通りの減衰に過ぎないんだよ」
信長は冷徹に、一歩一歩、重力に押し潰される宗矩へと近づいていく。
「おい……、待てよ……、最高幹部サマ……」
その時、瓦礫の奥から、信じられないほど泥臭い、そして聞き馴染みのある低い声が響いた。
ジュール熱で全身の皮膚を焼かれ、完全に呼吸を停止していたはずの男――万福定食のオヤジが、巨大な身体を小刻みに震わせながら、ゆっくりと立ち上がってきたのだ。
彼の持つ中華鍋は、すでに半分溶けてただの鉄の塊と化していた。
だが、オヤジの目には、まだ統括局のアルゴリズムでは計算しきれない「野生の光」が宿っていた。
「……料理人か。まだ有機生命体としての機能を維持しているとは、驚異的な耐久力だね。だが、無駄な抵抗はエントロピーの――」
「能書きはいいって、言っただろ……」
オヤジはどす黒い血を吐き出しながら、不敵に笑った。
「お前らの言う『完璧な世界』ってやつにはなぁ……、圧倒的に足りねえもんがあるんだよ。……マヨネーズでも、プラズマでも、アインシュタインでもねえ……。料理の基本、『塩加減(塩分濃度)』だよ!!」
オヤジは、エプロンのポケットから、ボロボロになった業務用の『精製塩(1kgパック)』を掴み出すと、信長の周囲の空間へと、豪快にぶちまけた。
白い塩の結晶が、霧のように空間に舞う。
「塩だと? 質量を持たない個体の散布など、私の重力ケージの前には――」
「違うな、幹部サマ。塩ってのはなぁ、ただの固体じゃねえ。『電解質』の塊だ!!」
オヤジが吼えた瞬間、その塩の霧に向かって、地面に倒れていた土方の身体から、最後の一撃が放たれた。
土方は動けない。
だが、彼のシステムが完全にシャットダウンする直前、電子脳の残存磁気を利用して、空間に強力な『高周波電磁パルス(EMP)』を放出させたのだ。
散布された塩の結晶(塩化ナトリウム)が、高周波の電磁波を浴びた瞬間、急激な分子運動を起こしてマイクロ波加熱され、一瞬にして空間で「電離」を起こした。
ナトリウムイオンと塩化物イオンに分解された白い霧は、ただの塩から、超高密度の『完全電離プラズマ(導電性ガス)』へと相転移したのだ。
「何……!? 空間の誘電率が、急激に変化して――」
信長の複眼が、初めて小さく揺れた。
空間に満ちた導電性プラズマの霧が、信長の構築していた「重力ケージ(エネルギー運動量テンソル)」の電気的バランスを強制的にショート(遮断)させたのだ。
物理学における『プラズマ遮蔽(デバイ遮蔽)』。
電荷を持つ無数のイオンが、信長の重力発生装置の周囲を取り囲むことで、空間の歪みを引き起こしていた電界と磁界の方程式を、強制的に「中和」してしまった。
ズウゥゥゥゥンッ!!!
宗矩の身体を押し潰していた超重力が、一瞬にして消失した。
「ハッ……、はぁ、はぁ、はぁっ!!」
自由を取り戻した宗矩は、激しく大気を吸い込みながら、床の包丁を支えに立ち上がった。
「神野の嬢ちゃん……、これが、俺の、最後の……『仕込み』だ……。あとは、お前が……味付け、しやがれ……」
オヤジはそう言い残すと、今度こそ完全に力尽き、ドサリと、床へと倒れ込んだ。
「オヤジさん……っ!!」
宗矩の目から、大粒の涙が溢れ落ちた。
その涙は、重力に逆らうように、彼女のボロボロの頬を伝って床へと落ちていく。
その涙の質量は、熱力学の数字では決して測れない、人間の「怒り」と「意志」のエネルギーそのものだった。
「織田信長……!! あなたの言う通り、私は過去の罪から逃げてただけの、ただの芋ジャージのバカ娘だよ!! だけどね……、この人たちが命懸けで守ってくれた私の『くだらない日常の数字』は、あなたたちの冷たい融解炉なんかより、1億倍あったかいんだよォォォォオオッ!!!」
宗矩は、錆びついた柄を両手で、骨が軋むほどの力で握りしめた。
彼女の全細胞、体内のすべてのミトコンドリアが、その感情の爆発に呼応して、科学の限界を超えた未知の方程式を紡ぎ出し始める。
「エラーログが……、システムを凌駕するだと……!?」
信長が初めて、その美しい顔に冷徹な焦燥を浮かべ、黒い外套を翻した。
空間の歪みが中和された万福定食の掃き溜めで、少女の命を賭した、本当の「最終決戦」の火蓋が切って落とされた。
(第11話・了)




