第10話:キュリーの天秤
万福定食の店内に立ち込める、焦げた鉄の臭いと、沸騰した血液の生臭い悪臭。
それらはすべて、大東亜統括局が誇る最強の執行システム、近藤が放つ数万ボルトの生体電流がもたらした地獄の副産物だった。
オヤジが身を挺して掲げた鉄鍋は、電磁シールドとして近藤の強力な磁気誘導をその身に吸い込み続けている。
だが、その代償はあまりにも凄惨だった。
鉄鍋を通じてオヤジの肉体へと直接流れ込んだ電流は、彼の体内の水分をジュール熱によって急速に加熱し、細胞膜を内側から沸騰させていく。
バチバチと音を立ててバンダナが焼け焦げ、エプロンの下から立ち上る白い煙は、肉が内側から焼かれている動かぬ証拠だった。
白目を剥き、歯茎からどす黒い血を溢れさせながらも、オヤジの巨大な両腕は、熱変性でグニャグニャに歪み始めた鉄鍋を絶対に離そうとはしなかった。
その執念の源は、合理的な計算式などではなく、ただ一つ。
「腹を空かせた客を、未だチャーハンも食わせていない少女を、このまま死なせるわけにはいかない」
という、理不尽なまでの料理人のプライドだけだった。
「オヤジさん!! やめて、もうやめて!! 私が、私が出頭すればいいんでしょう!? 私が中央融解炉に入れば、このセクターの数字は合うんでしょう!? だからもう、これ以上誰も傷つかないで……っ!!」
宗矩は包帯まみれの身体を床に打ち付けながら、喉が裂けんばかりの悲鳴をあげた。
彼女の脳裏には、先ほどフラッシュバックした「セクター01」の12万人の虐殺が、今目の前で血を流しているオヤジの姿と重なり合っていた。
私が戦えば、私の周囲にいる大切な人たちが、等価交換の法則に従って、すべて無残な肉の塊(燃料)へと変換されていく。
その罪悪感が、彼女の精神のワーキングメモリを恐怖で完全にオーバーフローさせていた。
「フン、見苦しいな。合理的に死を受け入れられない個体ほど、宇宙のエントロピーを無駄に増大させるゴミはない。マクスウェルの方程式は絶対であり、すべての電荷は私の計算通りに収束する。神野宗矩、これで終わりだ。君のその無駄に優秀な生体エネルギー(ミトコンドリア)ごと、我が局の融解炉へ査収させてもらう」
近藤は冷酷に言い放ち、右腕の電磁出力をさらに引き上げた。
彼の指先に集約された生体電流は、すでに大気中の重水素を高密度で強制圧縮し、周囲の空間そのものを青白く歪ませるほどの、超高電圧の電磁球を形成していた。
触れれば一瞬で脳漿が蒸発する、確定された死の方程式。
近藤の複眼が、宗矩の眉間を完全にロックオンし、トリガーが引かれようとした。
(また、私のせいで。私のせいで、みんながボロボロになっていく。私が生きていること自体が、この世界の数式にとって最大のノイズなんだ。だったら、私がここで消えれば――)
宗矩の心が、完全に絶望の深淵へと沈みかけた、その時だった。
カチャリ、と。
彼女の耳に、あまりにも世俗的で、場違いな「金属の音」が届いた。
それは、先ほどオヤジが彼女の腕を治療する際、アルコールランプの強火の炎で炙り続け、そのまま床に放置されていた、万福定食の業務用中華包丁だった。
(……待って。電磁気学。磁場と、電流の、相互作用。近藤さんの能力は、空間に強力な磁場を構築し、そこを動くあらゆる金属や電荷のベクトルを『ローレンツ力』で強制制御すること。私のプラズマの刃も、土方さんのサイボーグボディも、オヤジさんの鉄鍋も、すべては『磁性を持つ物質』あるいは『電荷を持つ流体』だからこそ、彼の磁気ケージの内側に囚われて、軌道を狂わされている。……だとしたら、あの包丁は?)
宗矩の脳内で、絶望のノイズが一瞬にして消え去り、代わりに超高速の論理回路が走り始めた。
理科の教科書を開くまでもない。
鉄という物質は、通常、外部の磁場に強く反応する「強磁性体」だ。
だからこそ、近藤の磁力に引き寄せられ、あるいは弾かれる。
だが、強磁性体には、物理学における絶対的な「限界点」が存在する。
物質の内部にある原子の磁気モーメントは、熱運動によって常に乱されている。
温度が低いうちは原子同士が同じ方向を向いて磁性を維持するが、熱エネルギーが一定の閾値を超えたとき、原子の配列は完全にバラバラになり、その物質は「強磁性」を失って、ただの磁石に反応しない物質(常磁性体)へと相転移する。
その転移温度のことを、物理学では『キュリー温度(キュリー点)』と呼ぶ。
そして、鉄のキュリー温度は、正確に摂氏770度。
(あの包丁は……オヤジさんが私の腐った肉を焼き切るために、アルコールレンジの熱対流の真ん中で、文字通り赤くなるまで加熱し続けていた。炭素鋼の融点には達していないけれど、あの赤熱した色(輝度情報)から放射エントロピーを逆算すると、現在の推定温度は……摂氏約820度!! つまり、すでにキュリー点を遥かに突破している!!)
「……勝機(数式の解)は、まだ、ここにある」
宗矩の瞳から、完全に悲壮感が消え去った。
彼女はボロボロの、皮膚が焼け剥がれた右腕を泥臭く伸ばし、床に転がっていた赤熱する中華包丁の柄を、ジュウと己の肉が焦げる音も無視して、力強く握りしめた。
「終わりの時間だ、神野宗矩。君の命の数式に、解をくれてやる」
近藤の指先から、数万ボルトの電磁球が解き放たれようとした、まさにそのコンマ数秒前。
「解を導き出す前に、義務教育の物理からやり直してきやがれ、この電磁気サイボーグがぁぁぁッ!!」
宗矩は絶叫とともに、手の中の中華包丁を、近藤の顔面に向けて全力で投げ打った。
「無駄だと言ったはずだ。そのような原始的な金属片など、私の磁力線の前に――」
近藤が不敵に笑い、空間の磁束密度を最大に引き上げた。
通常の金属であれば、近藤の周囲に展開された目に見えない磁気の壁に接触した瞬間、強烈な斥力を受けて遥か後方へと弾き飛ばされるか、あるいは磁気誘導によって軌道を曲げられるはずだった。
しかし、その赤熱した包丁は、近藤の磁力を完全に「無視」した。
まるで、そこに磁場など最初から存在しないかのように、包丁は空間をまっすぐに、恐ろしいほどの等速直線運動で突き進み、近藤の放とうとした電磁球の真ん中をすり抜け、彼のサイボーグ化された右胸の装甲へと、ガツン、と深い音を立てて突き刺さったのだ。
「なっ……、磁線が、すり抜けた……!? 計算が合わない、私の磁気ケージが、なぜこの金属を認識しない……!?」
近藤の複眼が、あり得ないエラーログを網膜上に乱打させ、驚愕に歪んだ。
「鉄はね、770度を超えると磁石にくっつかなくなるんだよ、このバカ役人が!!」
宗矩は床にへたり込みながら、ハァハァと荒い息を吐き、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「お前がどれだけ強大な磁場を操ろうと、キュリー点を超えたあの包丁にとっては、お前の磁力なんてただの空気と同じ。お前の自慢の『ローレンツ・システム』の計算式の中に、あの包丁の質量を制御する変数は存在しないの!! つまり、あなたの無敵の方程式にとって、あの包丁はただの『計算不可能な幽霊』になったんだよ!!」
突き刺さった中華包丁の凄まじい熱量が、近藤の胸部装甲の内部にある、超伝導超微細磁気コイルへと直接伝導していく。
熱伝導率の法則に従い、熱は高い方から低い方へ流れる。
冷酷なまでの物理のルールが、今度は近藤の側へと牙を剥いた。
コイルの温度が急激に上昇したことで、超伝導状態が崩壊し、行き場を失った膨大な電気エネルギーが、近藤の内部回路を内側から焼き切り始めた。
バチバチ、バチバチバチバチッと、近藤の右半身から、紫色の狂暴な火花ではなく、制御を失った緑色のショート光が派手に吹き荒れる。
「ぐ、あああッ!? 私の方程式が……内部抵抗の急増(オーム抵抗)により、電力が熱へと……逆流している……!?」
近藤が胸を押さえ、苦悶の声をあげる。
空間を支配していた強力な磁場が、一瞬にして霧散していく。
それと同時に、電磁シールドの役目を終えたオヤジが、「がはっ」と大量の血を吐いて、その場に崩れ落ちた。
「オヤジさん!!」
宗矩が這い寄ろうとするが、彼女自身の身体もすでに一歩も動かない。
近藤の動きは止まった。
だが、彼はサイボーグだ。
内部の予備冷却システムが作動すれば、数秒で回路が再起動し、再びその圧倒的な電磁の力で、今度こそ自分たちを確実に消し去るだろう。
勝機は、今、この近藤がショートしている「熱クエンチ」の数秒間しかない。
しかし、動ける人間は、もうここには――
「――おい、ジャージ娘」
壁に寄りかかり、完全にシステム停止寸前だったはずの男が、不敵な、狂気を孕んだ笑みを浮かべて、泥臭く立ち上がった。
新選組副長、土方。
彼の機械の身体からは、バチバチと火花が散り、残電力量は「0.8%」を示していた。動くことすら奇跡に近いその極限状態で、土方は残された左手で、自身のトレードマークであるあの黄色いボトル――高分子高粘度マヨネーズを、しっかりと握りしめていた。
「土方さん……、あなた、その残電力量で動いたら、本当に脳のチップが焼き切れて、ただのジャンクパーツになりますよ!?」
「フン……、言ったはずだ。俺は新選組の副長だ。局長の計算が狂った今、組織の損失を最小限に抑え、このグダグダの方程式に最終的な『解』を導き出すのが、俺の役目だ。……それに、お前のその生意気なツッコミを、借りのままで終わらせるのは俺のプライドが許さねえんだよ」
土方は人工筋肉の出力を、自身の回路が焼き切れるのを承知で、限界の120%までオーバードライブさせた。
チタン合金の脚骨格がミシミシと悲鳴を上げ、高架下のコンクリートの床を爆裂させながら、土方は近藤の胸元に向けて、一直線に跳躍した。
「土方……、貴様、反逆するか……っ!」
近藤が、再起動しかけた左腕のガトリング砲を土方に向けようとする。
だが、遅い。
土方は空中で、ボトルのキャップを歯で噛みちぎり、近藤の胸部装甲の「中華包丁が突き刺さって剥き出しになった内部基板」に向けて、ボトルの全中身を、渾身の力で絞り出した。
「これでも味わいやがれ、局長!! 特製高分子脂質による――『絶縁破壊』だァァァッ!!!」
ドバババババババババババババッ!!!
空間を埋め尽くしたのは、文字通り大量のマヨネーズの濁流だった。
だが、これは何度も言うように、ただの調味料ではない。
植物性油と卵黄、そしてお酢が絶妙な比率で配合された、最高密度の不均一コロイド溶液だ。
通常、油という物質は電気を通さない「絶縁体」として機能する。
しかし、超高電圧が加わっているショート状態の電子基板に、水分(お酢)と脂質(油)が混ざり合ったエマルションを高圧で叩き込めば、物質の限界を超える電界強度が発生する。
絶縁体としての限界を超えた瞬間、物質の内部で電子が雪崩のように増殖し、本来電気を通さないはずの脂質のクッションが、一瞬にして「超高伝導の雷の通り道」へと変貌する。
それが、電気工学における最悪の災害、絶縁破壊だ。
ドガバチチチチチチチチチチチチチチチチチチチッ!!!!!
近藤の胸部から、これまでとは比較にならない規模の、黄金色の爆発的なアーク放電が激しく吹き荒れた。
高分子脂質を媒介にして、近藤の電子脳(メインCPU)へと数万ボルトの電流が100%の効率で逆流していく。
サイボーグの頭部が、内部からの超高圧によってミリミリとひび割れ、光学センサーのガラスがパリンパリンと派手に砕け散る。
「ぐ、あ、おおおおおおおおおおおおおあああああああッ!!!!」
近藤の巨大な身体が、まるで壊れたマリオネットのように激しく跳ね上がり、高架下の柱をいくつもなぎ倒しながら、ドサリと、地面に膝を突いた。
彼の胸からは、完全に炭化したマヨネーズの黒い煙と、電子基板がドロドロに溶けたプラスチックの腐臭が立ち上っていた。
メインシステム、完全停止。極東セクターを恐怖で支配していた新選組局長が、ついに沈黙した瞬間だった。
「ハッ……、ざまぁ、みやがれ……」
トドメを刺した土方もまた、空中でエネルギーが完全にゼロになり、糸が切れた人形のように地面へと激しく叩きつけられた。
彼の複眼の光は完全に消え、チタンの身体はピクリとも動かない。
生体電流の完全な消失。
静まり返る万福定食の店内。
壁は崩れ、天井からは灰色の冷たい霧が容赦なく吹き込んでいる。
近藤を倒した。
だが、そこにあるのは勝利の栄光などではなかった。
床には、全身をジュール熱で焼かれてピクリとも動かないオヤジと、システムが完全にシャットダウンしてジャンクと化した土方の肉体が、無残に転がっているだけだった。
「オヤジさん……、土方さん……、嘘、でしょう……?」
宗矩は、包帯に血を滲ませながら、芋ジャージの膝で泥臭く床を這い、二人の元へ向かおうとした。
だが、その時。
カラン、コロン。
崩壊した天井の向こう、極東セクターの冷え切った暗闇から、空間そのものが恐怖で歪むような、圧倒的な「質量」を持った足音が、ゆっくりと響いてきた。
集まっていた下層住民たちが、その足音を聞いた瞬間、本能的な恐怖で悲鳴を上げながら、クモの子を散らすように四方へと逃げ出していく。
霧を割って現れたのは、純黒の、星の光すら吸い込むような最高級高分子外套を羽織った一人の男だった。
その外套の胸元には、大東亜統括局の最高頂点であり、この世界の合理的な虐殺システムの創始者を示す、黄金の『織田』の家紋が冷酷に輝いていた。
「――実に見事な解だ、宗矩。キュリー温度による磁場クエンチ、そして脂質二重層を模したコロイドによる絶縁破壊。君の物理学の成績は、かつて私が教えた頃よりも、随分と実戦的に進化している」
男は冷徹な、しかしどこか父親のような慈愛を孕んだ、低く美しい声で語りかけた。
大東亜統括局・最高執行官。
そして、かつて宗矩に科学と殺人のすべてを教え込み、彼女の心に消えない12万人のトラウマを刻みつけた本物の亡霊。織田信長が、ついに彼女の前に降臨した。
「……しん、の、が……さま……」
宗矩の全細胞が、恐怖のシグナルを脳へと一斉に乱打した。
奥歯がガタガタと震え、呼吸の仕方を忘れるほどの圧倒的なプレッシャー。
目の前にいる男は、近藤や沖田とは次元が違う。
この世界の残酷なルールそのものが、人間の形をして立っているような絶望感。
「さあ、帰ろう、宗矩。君のワーキングメモリを占有しているそのくだらない『ジャージ』も『家計簿』という名のバグも、私がすべて初期化してあげよう。君は再び、私の右腕として、この世界のエネルギー効率を最適化するための、完璧な計算機に戻るんだ」
信長が、黒い手袋に包まれた手を、優しく宗矩へと差し伸べた。
崩壊した定食屋の扫き溜めで、少女の本当の因縁の数式が、今、最悪の最終局面に突入しようとしていた。
(第10話・了)




