第15話:マクスウェルの選別眼
極東セクターの中央タワーへと続く大通りは、すでに文明の墓場そのものと化していた。
数日前までの穏やかな太陽の光は完全に遮断され、タワーの頂点から放射される赤黒い電磁の波動が、重水素の霧を不気味な紫色の雲へと変貌させている。
街電のインフラが完全に停止したセクターの気温は、ただ下がるだけでなく、異常なまでの「均一化」を起こしていた。
風が吹かない。
物質の熱が移動しない。
それは、大東亜統括局がこのセクターを完全に融解し、住民の生体情報を吸い尽くすために走らせた、熱力学的な死の方程式の始まりだった。
「ハッ……、はぁ、はぁ……っ」
神野宗矩は、血の滲む包帯で『トカマクの柄』を握りしめ、ボロボロの赤ジャージの裾を爆風に揺らしながら、大通りの真ん中で膝を突きかけていた。
彼女の細胞内ミトコンドリアは、コタツでの休息で蓄えたわずかなエネルギー通貨(ATP)をすでに使い果たそうとしていた。
右腕の熱傷は再び裂けて赤黒い血を滴らせ、左腕の凍傷の跡は、周囲の「均一な冷気」に共鳴するようにミリミリと痛みを再発させている。
「神野、生体クロックの減衰を感知した。お前の現在の出力では、中央タワーの外壁に展開された電磁障壁に触れた瞬間、分子レベルで相転移して消滅するぞ」
隣に立つ土方が、新調したマヨネーズのボトルを片手に、ギチギチとチタンの骨格を軋ませて言った。
彼の右目の保護プレートの隙間からは、過負荷による火花が散っており、ゼーベック効果で得た微弱な電力量も、ここへ至るまでの小競り合いで残り3.2%にまで低下していた。
万福定食のオヤジが「最高の一皿」を仕込んで待ってくれている。
その温かい日常の数字を守るためには、この絶望的な大通りを突破しなければならなかった。
「分かって……ますよ。でもね、土方さん。私の目の前にいるあの『数字の塊』たちが、私の脳のワーキングメモリを強制的にフリーズさせようとしてくるんですよ」
宗矩が血走った瞳で見据える先。
霧の向こうから、音もなく現れたのは、白い法衣を纏った老人――統括局の最高評議会直属監査官、吉良だった。
そして彼の背後には、寸分の狂いもない正確な軍隊の動作で、浅葱色の裏地に『徳川』の家紋を刻んだ四十七人の完全機械化サイボーグ――『赤穂浪士』が、静かに日本刀を抜いて宗矩たちを完全包囲していた。
「神野宗矩くん。そして、元新選組副長、土方。君たちの無駄な熱運動は、すべて我が局のメインサーバーによって予測されています」
吉良は痩せ細った手を優雅に掲げた。
彼の周囲には、目に見えない無数の超微細情報ドローン群――『悪魔の選別眼』が、空間の全分子の運動ベクトルを秒間数兆回ペースで計算しながら浮遊していた。
「19世紀の物理学者、ジェームズ・クラーク・マクスウェルが提唱した思考実験。……ひとつの密閉された容器の真ん中に仕切りを設け、そこに『小さな悪魔』を配置する。悪魔は分子の動きを観察し、速度の速い『熱い分子』と、速度の遅い『冷たい分子』を選別して左右に振り分ける。……そうすれば、外部から一切の仕事を加えることなく、容器の内部に自動的に『温度差』が生まれる。……熱力学第二法則を完全に凌駕する、情報の力によるエントロピーの不条理。……それが、私のシステムです」
吉良の言葉とともに、赤穂浪士たちが一斉に地面を蹴った。
彼らの放つ斬撃は、沖田の絶対零度とも、近藤のローレンツ力とも違っていた。
赤穂浪士たちの刀が空を切る瞬間、吉良のドローン群が空間の「熱い分子」だけを強制的に選別して刀身へと集約し、逆に宗矩たちの周囲には「冷たい分子」だけを残留させる。
結果として、赤穂浪士の四十七本の刃は、一瞬にして数千度の『超高温プラズマの熱刃』へと変貌し、逆に宗矩たちの足元は、空気の分子運動が完全に停止した『絶対零度の真空の壁』によって物理的に固定された。
「くっ……、『活人剣・一刀両断』!!」
宗矩は叫び、右腕の激痛を無視して一億度のプラズマの刃を前方へ振り下ろした。
だが、その絶対的な熱線の刃が赤穂浪士たちに届く直前、吉良のドローン群が、宗矩の放ったプラズマの熱運動(高エネルギー粒子)のベクトルを瞬時に認識し、仕切りの扉を開閉するようにして、その熱を空間の何もない虚空へと完全に『選別・廃棄』してしまったのだ。
ドグゥゥゥゥン!!!
宗矩の放った一億度のエネルギーは、吉良の情報の壁に触れた瞬間、まるで最初から存在しなかったかのように、ただの「冷たい空気」へと変換されて霧散した。
情報の不均衡による、完璧なエネルギーの無力化。
「無駄ですよ、神野くん。君がどれだけ強大な熱を生み出そうと、私の『悪魔』がその粒子の情報を書き換えてしまえば、すべての熱はただの均一な無へと収束する。……情報こそが、この世界を支配する絶対の方程式だ」
吉良の冷徹な声が響く。
と同時に、赤穂浪士の一人が、超高温の熱刃を宗矩の左肩に向けて振り下ろした。
「神野、どけァァァッ!!」
土方が叫び、残電力量2.1%の身体を強引にオーバードライブさせて宗矩の前に割り込んだ。
チタン合金の盾で熱刃を受け止めるが、数千度のプラズマの熱は、土方の装甲をミリミリと融解させ、内部の電子基板を直接焼き焦がしていく。
「ぐ、あああああッ!!」
土方の口から、黒い冷却オイルが激しく噴き出す。
「土方さん!!」
宗矩は叫んだ。
床を這い、ボロボロの赤ジャージをさらに泥で汚しながら、彼女の脳はパニック寸前で激しく明滅していた。
(ダメだ……、私のトカマクの熱量が、全部吉良さんのドローンに『選別』されて捨てられる……。情報の移動を制御されたら、どんな物理の法則だって、ただの都合のいい数字に書き換えられちゃう……!)
絶望の数式が、宗矩の心を黒く塗りつぶそうとした、その時。
彼女のポケットの中で、クシャリ、と、一枚の紙切れが音を立てた。
それは、数日前に万福定食のコタツの中で、今月の収支計算をするために、彼女が1円単位で書き殴っていた、我が家の『家計簿のレシート(マツモト・キヨシの領収書)』だった。
(……レシート。情報。……待って。マクスウェルの悪魔は、分子の情報を『見る』だけで、エネルギーを消費せずに温度差を作れるとされていた。……だけど、20世紀の物理学者レオ・シラードやロルフ・ランダウアーは、その方程式の致命的な欠陥を証明したはずだ)
宗矩の瞳から、一瞬で恐怖のノイズが消え去った。
理系の教科書を開くまでもない。
情報を得るためには、必ずそれを『測定』し、脳やメモリーチップに『記録』しなければならない。
そして、溜まった情報を消去して次の選別を行うためには、『情報を消去する(メモリを初期化する)』という作業が絶対に必要になる。
ランダウアーの原理。
情報を1ビット消去するとき、物質は必ず『kT ln2』の最小限の熱量を外部に放出し、エントロピーを増大させなければならない。
つまり、吉良のドローン群が、宗矩のプラズマの情報を秒間数兆回ペースで「選別して消去」し続けているということは、そのドローンたちの内部メモリには、今この瞬間も、膨大な『情報のゴミ(廃棄エントロピー)』が限界まで蓄積され続けているということだ。
「……土方さん。お前のそのマヨネーズのボトル、まだ中身は残ってますか」
宗矩は床からゆっくりと立ち上がり、錆びついた柄を逆手に構えた。
「フン……、残エネルギーは1.2%だが、マヨネーズの残量は100%だ。お前のそのクソ生意気なツッコミのために、いつでも絶縁破壊を起こす準備はできているぞ、ジャージ娘」
土方が、融解しかけたチタンの身体で不敵に笑う。
「吉良さん。あなたの『悪魔の選別眼』は、完璧な計算機かもしれない。……だけどね、主婦の家計簿を舐めないでください。溜まりに溜まった『レシート(情報のゴミ)』を、家計簿に転記もせずにゴミ箱へ一斉にブチ捨てたとき、そのゴミ箱がどれだけの熱量を放つか……、教えてやるよォォォォオオッ!!」
宗矩の赤ジャージが、情報の不均衡を引き裂くように、再び青紫色の超臨界プラズマの光を帯びて爆発的に輝き始めた。
(第15話・了)




